今回のお客様は製作から脚本までマルチな才能を活かし
大阪で活動されている福井喜子さんにお話ししていただきました。

もう10年以上、映画制作を続けている。

映像制作に携わるようになるまでは、「自主制作映画」という活動が行われていることさえ知らなかった。映画は好きで、映画を作る仕事がしたいと思っていた時期もあったけれど、首都圏以外に住む人の多くが持っている『あきらめ』のひとつだった。わざわざ『東京』へ出てまで追いかける情熱に欠けていたのかもしれない。そんな夢があったことも忘れていた。

20代半ば頃、留学前にスチールカメラの技術を身につけたいと思ったのが、再び映画作りの夢へのきっかけとなった。カルチャースクール好きな私も、カメラ教室というのには疑問を感じていた。それに、当時はカメラ教室というと「おかあさん」向けで、コンパクトデジタルカメラでいかに子供たちを可愛く撮るか、というのが中心だったと思う。そういう技術よりも、カメラマンとはなんたるか、といったような精神論みたいなものに触れたかったので、いつも行っていたライブでスチールを撮っていたカメラマンに声をかけた。快く引き受けてくれた彼が連れて行ってくれたのが、自主制作映画の現場だった。何度か撮影に通っているうちに、彼らのやっていることに興味を持ち始めた。『メイビートゥモロー』っていう映画がTSUTAYAにあるから観て、といわれて観てみた。個人でここまで作れるのか、というのが正直な感想で驚いた。それから、私は彼らとの映像制作にのめり込んで行ったように思う。

ここ数年で著しく進化した映像産業だが、私が初めて目にした編集は、二台のビデオデッキの前に胡座をかいて「いち、に、さん!いち、に、さん!」とカウントしながら片方のデッキの再生ボタンともう一方のデッキの録画ボタンを操作する監督の姿だった。なんて大変な作業だろう、とある意味感動的な場面だった。アクション映画だったと記憶している。

コマ単位の編集を終始そのやり方で繋げていくのである。正気の沙汰ではない。
今は、人並みにデジタル化した環境においても身についたアナログ感覚はデジタルに勝るようで、その監督はファイナルカットもmotionも不思議な使い方で、作業中はともかく、完成品はデジル世代には出来ないだろうなぁ(と勝手に私が判断する)仕上がりになる。監督は、周りにあるものなら何でも応用するし、自分の感覚が一番正確だから、あまり機材に頼らない現場で私は学んだ。元来、この監督かは機材に疎い。そんなだから、アメリカ人スタッフと制作中、彼らが音声と映像をシンクロさせるために、とデジタルスレート(映像と音声のタイムコードを一致させられるデジタルのカチンコ)なるものに、高いレンタルフィーを払うのが不思議だった。「編集の時に合わせれば?」「だから編集の時に必要なんだよ」という噛み合わない会話を交わしていた。お互いの意図が汲み取れたのは、撮影後、仮編をしてあげよう、とスタッフの前で監督が編集したときだった。私はそのことがふつうは非常に手間のかかる作業だと知ったし、彼らは監督にとって容易いことだと知った。私が「ふつう」に受け入れていた環境は、世間の「普通」と基準が違うと感じた。視点を変えれば新しいものが見えてくるように、基準が違うと新しいものは生まれないだろうか…

私自身はよく何がしたいのかわからない、と言われる。概ね批判的に評されるが私は一向に構わない。やりたいことに努力は惜しまないし、「見られ方」なんて興味がない。それよりも、例えば演じる人は何故演じたがるのか、物書きは何を書こうとしているのか、監督はどんな世界を創造したいのか。そんな好奇心に突き動かされて、私はそんな制作の1ピースを担う人たちの足跡を探りながら、私なりの答えが欲しいだけ。

映画制作の機材がここ数年で大きく変化したように、映画制作のスタイルもきっと変わってくると思う。そんなときだからこそ、自分たちのスタイルをぶれさせないで、本当に目指していた方向を見失わないようにしたい。私のポジションで一番大切なのはそういうことかな、と最近思う。海の広さと未知のものごとの存在を受けとめて、自分たちの現在地を確かめる。船乗りみたいだなぁ。


名前  福井 喜子
(fukui nobuko)

所属  studio crank-in

活動実績
(2008年)「メガネ大福」共同脚本
(2008年)「なにわん」プロデューサー
(2006年)「MyDo!」(ワールドエディション版)
プロデューサー
(2000年)「ランディングゾーン」プロデューサー
他多数

今回は映画制作を始めたきっかけから,今後の展望を中心にお話を伺いました。
よりいっそうのご活躍を期待しています。ありがとうございました。

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