石川治子の投稿記事

09.05 「家庭の友」セクシュアル・ハラスメントとその二次被害
09.01 「家庭の友」「すべての人の人権を大切に」
08.09 「家庭の友」「人権といのちの擁護は福音宣教の中心です」〜グアテマラの教会の姿勢〜
08.05 「家庭の友」戦争で苦しむのは誰?  〜いまこそ非暴力の道を〜
08.01 「家庭の友」無実であるのに服役
07.09 恵庭冤罪事件支援会・東京 ニュースレター ハンセン病差別とえん罪
07.09 「家庭の友」「草津送り」という言葉を知っていますか?
07.05 「家庭の友」「国の政策が神の意志に沿わない場合は、神に従う方を選びます。」
〜司教団メッセージより〜
07.01 「家庭の友」長良川を知っていますか?
06.12 難民移住移動者委員会/クリスマス特集号「 難民の話」
06.08 カリタスジャパン・ニュースレター いのちを大切にする社会を!
06.09 「家庭の友」『セクシュアル・ハラスメントに気づくことから 〜あらゆる暴力にNO!という教会を目指して』 
06.05 「家庭の友」「広島」という街 広島が日本の首都だったことを知っていますか?
06.01 「家庭の友」「えん罪事件に関わって」
05.09 「家庭の友」「非暴力による平和への道 〜今こそ預言者としての役割を〜」
05.06 カトリック新聞書評:オスカル・ロメロ 〜 エルサルバドルの殉教者 〜  マニーデニス / レニー・ゴールデン / スコット・ライト著/多ヶ谷有子 訳 聖公会出版 2005.5.15発行
05.05 「家庭の友」「茶色の朝なんか来るわけないですか?」
05.01 「家庭の友」「女性への暴力を根絶するために」 エキュメニカル女性会議に参加して
04.09 「家庭の友」もうひとつの世界は可能だ!〜わたしにも出来ることがある。〜 
04.05 「家庭の友」平和を創り出す道 〜あなたならどちらを選びますか?〜
04.01 「家庭の友」 カンボジア 〜 内戦の痕跡と人々の心 〜
03.11 カリタスニュース・ No.224 / November-December No.42カンボジア視察報告(2003年8月22日〜8月29日)
内戦の傷跡の中でのカリタス活動 〜カリタスカンボジア〜
03.10 「家庭の友」本当にこの道でいいのでしょうか 〜軍事力が本当にお互いの平和をつくるのでしょうか〜
03.07  「家庭の友」あなたは本当に貧しい人々を救いたいと思いますか?
03.06 「カトリック新聞」書籍紹介:「イラク 〜湾岸戦争の子どもたち〜」写真と文:森住卓 
03.04 「家庭の友」私は走るべき道のりを走った ーある女性の生き方ー
03.01  「家庭の友」 マヤの人々の心にふれて ー グアテマラの先住民女性のためのプロジェクトから ー
02.09 「JP通信」グアテマラ
02.08  「聖書と典礼」 平和旬間 
02.05 「JP通信」  訳:「国際総長会(UISG)総会の会議参加者の宣言」
02.03 「カトリック新聞」 アフガン女性と未来をともに
01.07 「JP通信」 書籍紹介「北村兼子-炎のジャーナリスト」
01.05  カリタスジャパン エルサルバドール(地震)とホンジュラス(ハリケーン・ミッチ)の災害復興事業視察から
01.03 「JP通信」女性国際戦犯法廷
01.01 「カトリック新聞」 書籍紹介:「グアテマラ 虐殺の記憶--真実と和解を求めて--」
01.01 カリタスジャパン現地視察報告 スリランカ
00.03 「JP通信」オスカル・ロメロ大司教暗殺20周年
00.01 「JP通信」真実をとおして和解へ -グアテマラの教会の取り組み-
99.06 「福音宣教」荒野にて  バングラデッシュ
99.05 「JP通信」ドメスティック・バイオレンス(DV)
98.12  聖書と典礼 クリスマス「喜び」
98.09 「JP通信」訳:死をもたらす借款 ペドロ カサルダリガ司教 ブラジル・アラグエラ教区
98.09 「JP通信」 訳:『リオバンバからの叫び』
98.09 「JP通信」 訳:グアテマラ司教協議会「ホアン・ヘラルディ司教暗殺捜査経過に関するグアテマラ司教協議会の見解」
98.09 「カトリック新聞」書籍紹介:「下町の神父」 著者:大原猛
98.07 「カトリック新聞」韓国研修旅行
98.04 「福音宣教」荒野にて   [過去と真摯に向き合って]
98.04 「東京正平委ニュース」フィリピン「パンパンガ・デルタ開発計画」に反対する現地陳情団が来日して
97.12 待降節第2主日 ルカ福音書 3:1ー6
97.11 「福音宣教」荒野にて ー顔の見えない開発ー
97.06 「福音宣教」荒野にて −現場に身を置く司教たち−
97.02 「福音宣教」荒野にて  −開発の陰で−
07.09 講演会:憲法九条と教会の役割は、、、

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家庭の友 2009年5月号
セクシュアル・ハラスメントとその二次被害

 去る2月、司祭によるセクシュアル・ハラスメント(以後セクハラという)事件がメディアにのって、多くの人が知るところとなりました。私たちは心の痛みをもってこのニュースを聞いたことと思います。これに関して色々なコメントがなされたに違いありません。しかし、なによりもまず被害者が受けた傷が一日も早く癒されるよう、教会として責任をもってケアする方法を提供することが大切です。そのためにも、教会を構成するわたしたちが再一度、セクハラに関しての知識を確認しておくことが不可欠と思われます。

セクハラとは、
 セクハラとは、相手側に不快感や嫌悪感や苦痛を与えるような、性的な言葉や性的なふるまいのことです。セクハラか否かについては、相手の感じ方が決め手です。その人がいやと感じれば、セクハラとなるのです。相手の主観が基準ではありますが、セクハラが何かは便宜的に以下のように分類されます。
【身体的接触型】:複数の人間関係が存在する場所で特定の人物の身体の一部を、偶然ではなく、意図的に触れること
【視覚型】:相手の身体をなめまわすように見る、品定めをする。人前で性的な記事の出ている新聞、雑誌等を広げる。
【発言型】:相手の体つきや容貌、全体の雰囲気などについてからかい、また批評する。性的な発言や質問をする。性的な噂をながす。
【地位利用型・対価型】:職務上の権限を利用して、昇給、昇進、雇用をちらつかせてデートや性的関係を要求する。
【懲罰型】:懲罰という名のもとに行われる行為が、その懲罰を受ける側にとって性的羞恥心を引き起こすようなもの。
【重犯罪型】:強姦・強制わいせつに触れる行為、ストーカー行為等。
【ジェンダーハラスメント】:固定的な男女のイメージ(女らしさ、男らしさ)や役割(男は外、女は内など)を押しつける言動。

セクハラについて注意すべきこと
 性に関する言動に対しての受け止め方は人によって異なります。たとえ「ジョーク」「愛情表現」「コミュニケーションの一部」のつもりでも、その性的な言葉やふるまいによっては、相手が不快感、嫌悪感、苦痛を感じれば、セクハラになります。従って次ぎのようなことに留意すべきです。
・ 自分が親しさを表すつもりであっても、相手にとって不快なことがある。
・ 相手と良好な人間関係が出来ているとの勝手な思いこみをしない。
・ この程度のことは、相手は許容するだろうとの勝手な憶測をしない。
・ セクハラであることについて、相手が「やめて!」等の意思表示をするとは必ずしも限らない。
・ 加害者と被害者間の力関係に上下がある場合は、被害者がセクハラについて一時的に許容をしたようでも、同意・合意をしたと勘違いしない。

セクハラの二次被害とは
 セクハラや性暴力は、通常の暴力事件とは違って、_被害者が誰かに相談をしたり事実確認をされる過程で、被害者が否定的に見られ、加害者の言動よりも被害者の言動が問題視されてしまったり、事実とは直接関係のない_プライバシーが詮索されたり、暴露されたりすることもあります。__ それでセクハラを訴えたことにより誹謗中傷を受け、さらなる精神的苦痛や実質的な被害を被ることを二次被害と言います。例えば被害者が、周りの人々の中傷・噂・態度によって、教会にこられなくなったり、教会内での活動等ができなくなったりすれば、二次被害を被ったといえるでしょう。

二次被害を起こすセカンド・セクハラとは
次ぎのような言葉を発するとそれがセカンド・セクハラになります。
 「あの人に限ってそんなことするはずがない」「騒ぎたてるほどのことじゃない」「イヤならなんで言わなかったのよ」「恩を仇で返すなんて」「あなたに魅力があったからよ」「あなたが物欲しげだったからだ」「あなたの方が挑発したんじゃないの?」「あなたにも落ち度があるに違いない」「どうして逃げなかったの?」「あなたにもスキがあったんじゃない?」_「男なんてそんなもんだよ」_「人間は弱いのだから仕方ない」「あなたよりひどいことをされた人もいるよ」「いつまでも過ぎたことにこだわってないで、忘れなさい」「赦すべきだ、赦せないあなたには愛がない」
 セクハラでダメージを負った被害者に追いうちをかけるセカンド・セクハラは、非常に立ち直りが難しく、深刻な問題です。セクハラは加害者の問題なのですから被害者を非難することは不条理なのです。あくまでも加害者が悪いのであり、セクハラ自体があってはならないことなのだという意識を持ち、被害者に二重の苦痛を与える行為をしてはいけないのです。

セクハラもセカンド・セクハラも深刻な人権侵害で罪に問われます
 セクハラの二次被害が認定された例として、某カトリック大学に対する判決があります。大学の講師によるセクハラ被害が学生から申し立てられ、その講師は辞職することになりました。それに対してある教授が講義中に、「セクハラをでっちあげて優秀な先生を辞職に追いやった」等々発言しました。さらに被害者の学生をかばった先生についても中傷し、この先生が名誉毀損で裁判に訴えたものです。そして高裁でセクハラ二次被害として認定され、慰謝料200万円が課せられました。

 従って、セクハラのみならずセカンド・セクハラも被害者を傷つけ、罪に問われるということを強く意識しなければなりません。わたしたちは、自分がよく口にしがちな言葉について、_相手を傷つけるものではないか、言われた側にとってはどういう意味になるかなど、もう一度見直してみる必要があるでしょう。

参考資料
「セクハラに気づくことから」カトリック中央協議会・社会福音化推進部「女性と子どもの権利擁護のためのデスク」 電話:03−5632−4413 http://www.jade.dti.ne.jp/~jpj/D-index.html
「ハラスメント防止基本宣言」セクハラ防止対策ガイドライン (宗)カトリック京都司教区 電話:075−211−3025


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家庭の友 2009年1月号より 「すべての人の人権を大切に」

 「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。」これは、世界人権宣言第一条の規定です。この宣言は1948年12月10日、悲惨な世界大戦で多くの尊い命が奪われたことを反省し、国連において採択されました。しかし今もなお人権が侵害される様々な事件が起きています。この一年だけでも、国内外で起こった事件や災害で人命や人権の軽視が浮き彫りにされました。個人の人権よりも国家を優先したり、人の命がないがしろにされたりする事件にわたしたちも心を痛めたのではないでしょうか。
 カトリック司教団もこの機会にメッセージ「すべての人の人権を大切に」(注1)を発表しました。また教皇も人権について種々の機会に語っています。それらの言葉をとおして今一度人権について振り返ってみましょう。

人間の尊厳が諸権利の根本
・ 世界人権宣言は文字通り人権を宣言したのであって、人権を人間に与えたわけではない。人権は生まれながらにして人間の人格と尊厳に備わっている。(注2)
・ 世界人権宣言が認め示した諸権利は、人格という共通の起源をもつがゆえに、すべての人に当てはまる。(注3)
・ 人間の尊厳は、さまざまな権利の根本原理そのもの。(注4)

人権侵害は、
・ 人権を奪うことは、人間固有の性質を踏みにじることになるので、相手がだれであっても決して許されることではない。 (注5)
・ 一件の人権侵害は全人類の良心に対する侵害であり、人類全体に対する侵害に他ならない。人権擁護の義務は、人権が侵される地理的、政治的範囲を超えたところでも果たされなければならない。つまり人類に対する罪は、一つの国の国内問題として片付けられてはならない。(注6)

人間の尊厳・人権が侵害されると
・ 男や女や子どもたちが人間の尊厳を充分に生きることなくして、本当の平和があるといえるだろうか。他者を犠牲にして、特定のグループや国家の利益となるような社会、経済、政治的関係で支配される世界に永続的な平和がありえようか。(注7)
・ 幾百万の男女と子どもたちが毎日飢餓や危険な状態に苦しんでいる。このような状況は、人間の尊厳に対する重大な侮辱となり、また社会を不安定にする理由でもある。(注8)
・ 貧困は目に見えず隠されている。しかしそれは平和に対する現実の脅威である。人間の尊厳を損なうことは、生命の価値への重大な攻撃と社会の平和的発展そのものへの攻撃となる。(注9)
・ 人間の尊厳が蹂躙された結果、悲惨と絶望のうちにある犠牲者は容易に暴力に訴える誘惑に駆られ、犠牲者が平和の破壊者となることもある。(注10)
・ 人権尊重の実りは平和だが、人権侵害の結末は戦争であり、戦争はさらに深刻な人権侵害を引き起こす。(注11)

人権擁護はすべての人と国家と国際社会の責任
・ 人権は人間の尊厳を守るための保障。 (注12)
・ 自分たち自身が全力を傾けないかぎり、いかなる人権も決して守ることができない。何らかの基本的人権が侵害されたとき、何の対応もせずに受け流すなら、他のすべての人権が危機に陥る。だから人権問題については世界的な取り組みを行い、人権擁護のために真剣に責任をもって関わるべきである。(注13)
・ 戦争は決して人間社会に役立たない。暴力は破壊こそすれ決して建設しない。、、、金銭は戦争のため、破壊するため、殺すために使われるべきではなく、人間の尊厳を守るため、また生活を改善するために、そして真に開かれた自由で調和のある社会を建設するためにこそ使われるべきである。(注14)
・ すべての人権が十分に尊重されていれば、戦争は起きるはずがない。人権を完全に守ることこそ、国家間の信頼に満ちた関係を築くもっとも確実な道。(注15)
・ すべての国家は人権の深刻かつ度重なる侵害から自国民を守ると同時に、自然であれ人間の行動が引き起こすものであれ、人道的な危機の結果から守るための本質的な務めを有する。 (注16)

人権の促進への努力
・ 人権の促進は、人類愛に導かれた務めである。 (注17)
・ 人権の促進は諸国間、社会集団間の格差をなくし、安全保障を強化するための最も有効な戦略である。(注18)
・人間の尊厳と人権の問題を不可分のものとして尊重していけば、個人と社会双方の善は間違いなく促進される。(注19)

 結びとして、人間の尊厳を大切にすることの福音的意味を語られた教皇ヨハネ・パウロ二世の次の言葉を心にとめましょう。
 人間の尊厳の先がけとなってください。信仰はわたしたちに、すべての人が神の似姿として創造されたことを教えています。たとえ人間がそれを否定しても、天の父の愛は確固として変わることがありません。天の父の愛には限りがないのです。御父はすべての人のあがないのために御子イエスを遣わされ、すべての人の尊厳を完全に回復してくださいました。このことを胸に刻むとき、どうしてわたしたちの心からだれかを締め出すことができるでしょうか。むしろ、わたしたちはもっとも貧しい人々、もっとも疎外された人々の中におられるキリストを見分けなければなりません。わたしたちのために渡されたキリストのからだにおける交わりである聖体は、わたしたちに貧しい人に仕えるよう求めています。名前の分からない金持ちとラザロという名をもつ貧しい人のたとえ話は、「鈍感な金持ちと何も持たない貧しい人との明確な対照の中で、神は後者の側を選ばれた」ことをはっきりと示しています。わたしたちもまた同じ側に立たなければなりません。」(注20)

<参照>
(注1)司教団メッセージ「すべての人の人権を大切に」2008年12月10日
(注2) (注5) (注13)(注15)(注19) (注20) 教皇ヨハネ・パウロ二世「世界平和の日メッセージ」1999年1月1日
(注3)(注10)(注12) (注16) (注18) 教皇ベネディクト16世「国連での演説」2008年4月18日
(注4) (注17) 教皇ヨハネ・パウロ二世「世界平和の日メッセージ」1998年1月1日
(注6)教皇ヨハネ・パウロ二世「世界平和の日メッセージ」2000年1月1日
(注7)教皇ヨハネ・パウロ二世「世界平和の日メッセージ」1987年1月1日
(注8)(注9)(注14)教皇ヨハネ・パウロ二世「世界平和の日メッセージ」1993年1月1日
(注11)教皇ヨハネ・パウロ二世『人間のあがない主』


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家庭の友 2008年9月号より

「人権といのちの擁護は福音宣教の中心です」〜グアテマラの教会の姿勢〜

 みなさんはミサの説教が拍手で中断されるという場面に立ち会ったことがありますか? さる4月、グアテマラのヘラルディ司教の10周年追悼ミサの中で、説教をしたケサダ枢機卿は度々拍手が鳴りやむまで待たなければなりませんでした。
 1998年4月26日にこの同じ大聖堂でレミープロジェクト(歴史的記憶の回復プロジェクト)の報告をしたヘラルディ司教は2日後に軍部により暗殺されたのでした。以前これについて書きましたので詳細は省きますが、グアテマラの内戦時代におこった虐殺の記憶を掘り起こし、自分だけが生き残った、殺されていく人を前に自分は何もできなかった等々、心に傷をもっている人々の悲痛な声を聴き、その出来事の原因をさぐり平和への道を探るために、教会の司牧プロジェクトとしてなされたものでした。多くの証言により、虐殺の被害者のほとんどが非武装市民、特にマヤ先住民族であったこと、人権侵害の大部分が軍と準軍事組織による体系的なものだったことが明らかになりました。その報告書には生々しい証言が載せられ、また暴力の根源と経緯、国家の組織的暴力、ふつうの人を虐殺者へと作り替えてしまう洗脳と訓練についても言及されました。この報告書は「二度と再び」をキーワードに社会再建への道を提言していました。しかし、この報告書が公になるのを潰そうとした人もいたのです。ヘラルディ司教は邪魔な存在だったのです。記憶を消すというシンボリックな意図でしょうか、彼の頭は石で滅茶苦茶に潰されたのでした。その後、実行犯とされる人が一応逮捕され、裁判もされましたが、それ以上の追求はなされませんでした。
 ケサダ枢機卿は説教でこう述べました。「私たちグアテマラ司教団はこの犯罪の背後にいる計画者を追求すべきであり、すべての真相が明らかにされることを望みます。それは真実の上にこそ、赦しを与えることが出来るからです。「真理は人を自由にする」と主は言われました。まだ隠れている臆病な実行犯と計画犯たちはそれに耳を傾けるべきです。グアテマラ司教団はこの恐ろしい犯罪者を赦す用意があります。しかし、私たちは誰を赦すべきなのか、何について赦すべきなのか、を知る権利があります。和解が、過去を乗り越え、より良き未来を開くことを望んでいます。しかし私たちは乗り越えるべき過去と立て直すべき未来を知る権利があります。これこそがグアテマラ大司教区が今まで、しつっこく告発し、これからも告発しつづける主な理由なのです。たとえカトリック教会や、大司教区の人権委員会にたいしてこの告発をあきらめるように、圧力があったとしても、また中傷誹謗や脅迫があったとしても構いません。神のみ前でこのように言うことができます。私たちはいささかの復讐も報復の心ももっているのではないことを。ただ私たちはこの恐るべき犯罪について真実が知りたいだけなのです。わたしは、神がこの任務にわたしを置かれる限り、声だかに訴えつづけます。私たちは真実を求めます。真理が私たちを自由にするからです。そして私たち司教団は一致して、抑圧された人々の側にたって歩み続けます。」
 人権といのちの擁護は福音宣教の中心部分であること、意識のあるキリスト者は誰でもこの務めの中にいると感じなければなりません。私たちが経験した暴力や死の状況を決して繰り返すことがないように過去から学ぶことが必要です。こうして私たちは過去の傷をいやして未来を建設することが出来るのです。


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家庭の友 2008年5月号より

 戦争で苦しむのは誰?  〜いまこそ非暴力の道を〜


 「戦争をなくす」ことを受け合う「法案」というのを知っていますか? 
 それは、デンマークのフリッツ・ホルムという陸軍大将が今から100年も前に起草した「戦争絶滅受合法案」というものです。  残念ながら可決されることはなかったようですが、、、
 その内容は次のとおりです。
「戦争行為が開始されたり宣戦布告がなされたりしたら、10時間以内に次の処置をとらなければならない。すなわち下記に該当する者を最下級の兵卒として召集し、出来るだけ早く彼らを最前線に送り、敵の砲火の下で戦わせる。
1. 君主であるか大統領であるかを問わず国家元首である者。ただし男子であること。
2. 国家元首の親族で十六歳に達した男子。
3. 総理大臣および各国務大臣と次官。
4. 国民によって選出された立法府の男性代議士。ただし戦争反対の投票をした者を除く。
5. キリスト教または他の宗教の僧正、管長、その他の高僧で戦争に公然と反対しなかった者。
上記の者は、戦争継続中、兵卒として召集されるべきであり、本人の年齢、健康状態等を斟酌すべきでない。ただし健康状態については召集後に軍医官の検査を受けさせる。         
以上に加えて、上記の有資格者の妻、娘、姉妹等は、戦争継続中、看護婦または使役婦として召集し、最も砲火に近い野戦病院に勤務させる。」

 こんな法律が本当にあったら、戦争は絶対に起こらないに違いありません。戦闘のさなかで自分の命を危険にさらすことが判っていれば、だれも戦争開始を簡単には決定しないでしょう。でも決定するエライ人はいつも安全な場所に居るのです。

 「防衛庁」から「防衛省」への昇格に合わせて、自衛隊の海外活動は「本来任務」に“格上げ”されました。安倍首相(当時)は「自衛隊の海外派兵はためらわない」とNATO理事会で表明し、米軍の新たなイラク増派策を無条件で支持しました。自衛隊OBの人でさえ「これは憲法違反であり、イラク派兵のような海外活動が増えれば、一般隊員を危険にさらし、さまざまな犠牲を強いることになる。海外活動の本来任務化は絶対反対だ」と言う人もいます。また去る2月、ミュンヘン安全保障会議に出席した高村外務大臣は、「日本は平和協力国家として、国際社会において積極的な責任と役割を果たす」と述べ、現行制度下で参加できる国連ミッションへの参加を積極的に進め、自衛隊の海外派遣を随時可能にする恒久法(一般法)について「必要な法制度の検討を進めていきたい」と演説しました。
 これでも判るように、安倍政権から福田政権に変わって、ソフトムードが漂っているかのように見えますが、憲法9条を変え、国際貢献の名のもとに日本も軍事行動ができるような「普通の国」にしていく準備が着々と進んでいるようです。

 しかし派遣される方の自衛隊員をみると、自死する人が増えているのです。日本全体と自衛隊の自殺者率(10万人当たりの自殺者数)を比較すると、日本全体の自殺率は27.0人ですが、自衛隊は37.6人です。更にイラクに派兵された自衛隊員5,500人のうち、陸上自衛隊では6人、航空自衛隊では1人の計7人の自殺者がでています。これを前記の自殺率10万人当たりに換算すると127人となります。これはイラク派兵が自衛隊員にとって耐えがたい精神的ストレスとなっていることを表しているのではないでしょうか。
 米陸軍でも2007年、自殺者と自殺とおぼしき人が121人だったと伝えています。このうち34人がイラク従軍中の自死でした。前年の自殺者は102人だったので、一年で20%も増えています。また米同時多発テロが起こる前年の自殺者は52人だったので、ブッシュ政権が「対テロ戦争」路線を取って以来、自殺が倍増したことになります。さらに自殺未遂ならびに自傷行為に及んだ兵士は、2002年は500人未満、2006年は約1500人、2007年は約2100人に上っているそうです。
 自死以外にイラクでは米兵が約4000人死に、負傷者は2万9千人に上っています。また殺されたイラクの人は15万とも20万ともいわれ正確な数はわかっていません。初めから泥沼化すると言われていた戦争でした。文頭の法案のようにブッシュ大統領が最前線に送られるのであれば、こんなことが果たして起こったでしょうか?

  昨年の2月になりますが、教皇ベネディクト十六世は「敵を愛しなさい」のテーマで、キリスト教の非暴力の「憲章」として一連の山上の説教について話しました。キリスト教の非暴力とは、「悪に屈することではなく、むしろ、善をもって悪に対抗すること」であり、それにより不正の鎖を断ち切ることができること。またキリスト信者にとって非暴力はたんなる戦術的な行動ではなく、人格のあり方であり、それは神の愛とその力を確信する人の態度であり、このような人は「愛と真理という武器」によってのみ悪に立ち向かうのであること、敵への愛は「キリスト教の革命」の核心であり、「キリスト教の革命」は「愛の革命」であると諭しています。
 日本の司教団も平和メッセージ において、「軍備と武力行使によってではなく、非暴力を貫き対話によって平和を築く歩みだけが悪に対して悪をもって報いるという悪循環から抜け出す唯一の道」であり、「この非暴力の精神は憲法第9条の中で、国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄と戦力の不保持という形で掲げられている」と述べました。そして「60年にわたって戦争で誰も殺さず、誰も殺されなかったという日本における歴史的事実はわたしたちの誇りである」と明言しています 。
 
 このような教会の導きに従って、今こそわたしたちは非暴力の精神を真剣に自分のものにし、暴力の連鎖に苦しむこの現代社会にあって、この精神を積極的に広め、平和のために働きたいものです。


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家庭の友 2008年1月号より

無実であるのに服役

「無実であるのに服役したことは誠にお気の毒です。お父さまのことを思うと言葉がありません。これからの人生が充実していくものになるよう心から願っています。」藤田裁判長のこの言葉がむなしく法廷に響きました。
 2007年10月10日、強姦罪などに問われ、服役後に無実と判明した柳原浩さんの再審判決が富山地裁高岡支部でありました。そこで藤田裁判長は真犯人の存在を指摘し、柳原さんの自白に信用性がなく、犯人でないことは明らかであると無罪を言い渡したのです。これがその時、裁判長が柳原さんにかけた言葉でした。
 しかしこの再審では、自白が強制されたものであったことを証明するため、弁護団は取調官の証人尋問を2度求めました。でも藤田裁判長は「必要なし」といずれも却下。なぜ間違って逮捕し、間違った裁判をしたかという実態の解明はされず、闇に葬られてしまいました。さらに誤審への謝罪すらもなく、たった10分で判決は終了したのです。

 これに対して「何も嬉しくない」「納得いかない」と、えん罪となった理由の解明こそ望んだのにと、柳沢さんは怒りを表しています。「当時いいかげんな裁判をしなければ、こんなことにはならなかった」、「真実がやみに消えたままで無罪といわれても何も嬉しくない」と言っています。いくらえん罪が晴れたとはいえ、逮捕され服役までした柳原さんが失った年月はもう戻ってきません。

 これは、2002年1月と3月に富山県氷見市で婦女暴行・未遂事件が起き、タクシー運転手をしていた柳原さんが疑われ逮捕された事件です。逮捕前の任意の事情聴取で彼は否認していましたが、3日目に メ自白モしてしまいました。実際にアリバイがあったのに、、、。犯行時間帯に電話をしていたという発信履歴がそれを証明していました。しかし彼が「その時は電話をしていた」といくら訴えても、取調官は「相手は電話を受けていないと言っている」と取り合わなかったのです。犯行現場の足跡もサイズが全く異なるものでした。取り調べで母親の遺影を持たされ『母さんにやってないと言えるのか、母さんが泣いてるぞ』と言われ続けたり、「『はい』以外に言うな、『いいえ』という言葉を使うな」と迫られたりしたそうです。また地検高岡支部に送検された時と、検察側が地裁高岡支部に拘置請求を行った時に、拘置を決める際の裁判官が行った質問にも「やってない」と申し立てたのに無視されました。その後、氷見署に戻ると『何を言ってるんだ、ばかやろう』と怒鳴られ、供述を翻さないとする念書に、署名・押印させられたりしたということです。いくら否認しても信用されず、『おまえの家族が犯行は間違いないからどうにでもしてくれと言ってる』と何度も告げられ、身内にまでも見捨てられたのかと落胆して、言われるままに自白するよう追い込まれていったのです。

 それで2002年11月に懲役3年の判決を受けて服役し、2005年1月に仮出所をしました。その後、刑務所のあった県内で葬祭業や解体業などの仕事を転々とし、電車賃をかせいで故郷の近くまで来て、後20kmほどは徒歩で家にたどり着いたところ、すでにお父さんは病気で亡くなっていました。
 2006年11月、別の強姦未遂容疑などで逮捕された松江市の男性がこの2事件を自供。その2ヶ月後、富山県警は「無実とわかり、心からおわび申し上げます」と謝罪しました。しかし「本人の自白に取調官が乗ってしまい、詰めが甘かった。しかし捜査手法は適正」、「電話記録自体は調べたが、発信時刻と現場への距離を考えると到着が不可能で、アリバイが成立することに気づかなかった」と弁解に終始しています。富山県警はその自白に至った経緯、なぜ容疑を認めてしまったのか、捜査方法や取り調べはどうだったのかについては何も説明しません。今回はたまたま、他の事件で逮捕された人がこの犯行を自白したからえん罪が明白になったものの、そうでなければ一生、柳原さんは犯罪者の汚名を負っていかなければならなかったのです。

 「それでもボクはやっていない」という映画をご存じでしょうか?電車の中での痴漢に間違われて逮捕され、裁かれていく話で、『シコふんじゃった』や『Shall we ダンス?』を手がけた周防正行監督の作品です。監督はある痴漢えん罪事件を徹底的に取材して練り上げたので、事実に裏打ちされた現実味のある映画となっています。警察の取り調べや、代用監獄と呼ばれる警察の留置所、検察庁への連行、刑事法廷等々の実際が描かれていますし、痴漢罪で家宅捜査までされるのです。実際、痴漢を犯しても「スミマセン」と平謝りすれば、半日で簡単に釈放され、「していない」と否認した人は何日も拘置されて裁判にまでかけられてしまうのです。もし万が一、えん罪に巻き込まれたりして逮捕されるという自体になったら、こんな風に扱われるということがよく判ります。
 
 日本の警察や裁判所は真実の味方、公正で真実を究めてくれる所だと私たちは信じていませんか?日本という法治国家で、犯罪を犯していないのに刑務所に送られるなんてことはあり得ないと思っていませんか?しかし実際には、そうではないことも起こっているのです。「疑わしきは罰せず」という原則は、どこへ行ったのでしょうか。ある日突然に事件に巻き込まれて犯人にされるかもしれません。日常生活の中でえん罪は隣り合わせかもしれないと思うととても怖い気がします。「本当に無実でも、無罪になるとは限らない」ということを、今も多々あるえん罪事件が如実に物語っているのです。


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ハンセン病差別とえん罪

「草津よいとこ、一度はおいで、、、、」と、草津といえば温泉を思い浮かべます。でも「草津送り」という言葉が持っていた恐ろしい意味を誰が知っているでしょうか。
 温泉町草津には、国立草津療養所栗生楽泉園というハンセン病の施設があります。そこに1938年、「特別病室」が作られました。実際にはそれは重い罰を処すための懲罰施設「重監房」でした。そこに各地のハンセン病療養所から、不穏分子とか逃亡者とかの罪状で患者が囚人のように護送されてきたのです。それが「草津送り」でした。
 「重監房」は、1947年まで9年間も運用されました。「特別病室収容簿抜書」は全国から93名のハンセン病患者を収監したと記録しています。
 去る5月に草津で開催されたハンセン病市民学会で、この重監房に食事運びをした人たちの証言を聞きました。ある日看守から菓子箱をあずかり、収監者に渡したら、翌日その人は死んだとか。中の饅頭の一つや二つ食べてもと誘惑に駆られたが我慢して良かったと述懐していました。でも収容簿によればその人は肺炎で死亡、とされています。また東京の多摩全生園では、洗濯作業患者の長靴が古くなり、靴底から水が入り傷が悪化するので主任がその交換を願いましたが拒絶されました。職員は感染予防と称して新品の長靴を履いているのに、と患者たちは作業をせず抗議しました。それでこの主任は煽動の罪状で草津に送られ亡くなったのです。
 また市民学会では「新あつい壁」という映画の上映もありました。1962年にハンセン病患者が無実を訴えながら死刑執行された事件を題材にしたものです。この裁判は当時ハンセン病患者の拘置所があった国立ハンセン病療養所・菊池恵楓園の特設法廷で非公開で行われたそうです。被告は逮捕直後の自白を除いては終始一貫、犯行を否認、無実を主張していました。また主要な証拠とされたものは証拠能力が疑わしく納得できない点が多くありましたが、再審申請中の突然の処刑により真実解明は闇に葬られました。「ハンセン病差別が生んだ冤罪」といわれています。
 人の命がこれほど軽くあしらわれていたことに痛みと怒りを感じます。これらの過去に真摯に向き合い、それぞれの人権回復をしていかないと、いつまでも差別もえん罪も起こり続けるのではないでしょうか?
石川治子記


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家庭の友 2007年9月号より

「草津送り」という言葉を知っていますか?

「草津よいとこ、一度はおいで、、、、」は誰もが知っている草津節です。草津といえば温泉を思い浮かべます。でも「草津送り」という言葉がかつて持っていた恐ろしい意味を一体どれ程の人が知っているでしょうか。

 温泉町草津には、国立草津療養所栗生楽泉園というハンセン病の施設があります。その楽泉園に1938年、「特別病室」が作られました。実際にはそれは重監房とよばれ、重い罰を処すための懲罰施設でした。そこに全国各地のハンセン病療養所から、不穏分子とか逃亡者とかの罪状で患者が囚人のように護送されてきたのです。それがいわゆる「草津送り」だったのです。
 
 1907年「癩豫防ニ関スル件」という法律が制定されましたが、これは放浪する患者「浮浪患者」が来日した欧米人の目に触れないように、その一掃を図ったものです。ハンセン病は日本の恥、国辱病として疎まれました。患者は「日の丸のしみだ」と言われたそうです。日の丸は天皇を象徴する旗として汚れてはいけないもの、しかしそれにしみをつけているのがハンセン病だといわれ取り締まりの対象になったのです。
 さらに1931年に「癩予防法」が制定され、収容の対象を浮浪患者に限らずに、全患者を地域社会から根絶する方向へと大転換しました。ハンセン病患者は絶滅すべきと大宣伝され、全国的に患者あぶりだし運動がおきました。そして「無癩県運動」として強制収容、強制隔離が始まります。収容車がきて患者の襟首を掴み、引き摺るようにして強制収容する、そういう姿が各地で見られるようになりました。患者の意思とは無関係に、警察が患者を療養所に連行し犯罪者のような扱いをしたのです。
 これに先だって1916年には、ハンセン病公立療養所の所長に懲罰検束権が付与されています。これは裁判の手続きを経ずに、所長の裁量によって患者に懲罰を与え拘束する権限です。病を癒すべき医療従事者が患者を罰することを許されたのです。そして全国の療養所に監禁所が作られ、管理者に逆らった患者は懲罰として監禁されていきました。
 1936年瀬戸内の長島愛生園で入園者の待遇改善を求めて暴動が起きました。いわゆる長島事件です。しかし患者の長年の不満に対して当局は弾圧で応えました。さらに「各施設の監禁所では不足、もっとひどく懲らしめる場が必要」となり、栗生楽泉園に1938年に「特別病室」が作られたのです。

 この「特別病室」つまり「重監房」は、1947年まで9年間にわたって運用されました。「特別病室収容簿抜き書き」によれば、全国から93名のハンセン病患者が収監されたことになっています。施設はコンクリート造りの堅固なもので、独房に達するまでに幾重もの扉を解錠しなければならないほど厳重なものでした。房は食事を入れるための隙間と上部に小さな明かり取りがあるだけで、食事は一日2回、ごく少量でした。死者が出ても同房の人はその人の食事を食べて飢えをしのぎ、臭くなってからやっと遺体を運び出してもらったこともあったそうです。草津は零下15度〜20度程になる寒冷地です。房に通じる廊下には屋根がなく、冬期は雪が積もりました。また逃走を防ぐために土台は低く作られていたので、壁や地面からの冷却が厳しいものでした。しかし暖房はなく布団も上下一枚ずつでした。遺体を運び出した人の話によると、遺体を霜が覆い、床に凍りついていて床から引きはがすのに苦労したこともあったそうです。凍死しないで生き残った人がいるという方が不思議な位です。「特別病室」と呼ばれたのに医師による医療行為は行われていませんでした。これは「病室」ではなく、明らかに「監禁・懲罰」施設だったのです。
 房で死亡したのは14人、病気出所しその後死亡した人のうち、その死亡時期が明確に分かっている人だけで8人います。死亡時期は冬に18名、夏3名、秋1名の22名です。監禁期間が200日以上にもなった人が14人もいました。93名の監禁理由やその期間、死亡原因等が書いてある記録表がありますが、この人たち以外にももっと居たと楽泉園の人々は証言しています。

 去る5月に草津で開催されたハンセン病市民学会の分科会で、この重監房に食事運びをしたことのある人たちの証言を聞きました。ある日、門衛兼看守から菓子箱を一収監者に渡すように頼まれたそうです。歩きながら中をみると饅頭が12個も入っていて美味しそうなので、一つや二つ食べても分からないだろうとの思いに駆られたがぐっと我慢したとのこと。翌日行ったらその人は死んでいました。それを報告すると「ああ、死んだか」と驚きもしない答えだったそうです。「饅頭を盗み食いしなくて本当に良かった」と述懐していました。当時を考えると饅頭の差し入れなど、するはずがないことでした。でも上記の記録表ではその人は肺炎カタルで死亡したとされています。また東京の多摩全生園では、洗濯作業患者の長靴が古くなったので主任がその交換を願いました。靴底から水が入り傷が悪化するのです。しかし拒絶されました。施設職員は感染予防と称してピカピカの長靴を履いているのに、と患者たちは作業をせず抗議しました。それでこの主任は煽動者として草津送りになり亡くなったのです。
 
 収監された生き証人はすでになく、今はその重監房の建物も壊されて土台だけが残っています。しかし原状にそって復元し、この負の遺産を記憶に留めようという運動が起きています。

 人の命がこれほど軽くあしらわれていたことに痛みと怒りを感じます。強制隔離等の政府の施策を含めてこれらの問題の一つ一つにしっかりと向き合っていかないと、いのちを軽視する風潮をいつまでも引きずっていくのではないでしょうか。今の日本の中で、歴史に真摯に向き合うことの大切さを痛感せずにはいられません。

参照資料 
「日本のアウシュヴィッツ」高田孝著 
「とがなくてしす」沢田五郎著 皓星社
「ハンセン病 重監房の記録」宮坂道夫著 集英社新書


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家庭の友 2007年5月号より

「国の政策が神の意志に沿わない場合は、神に従う方を選びます。」
〜司教団メッセージより〜

 表題のこの決意は、去る2月21日、臨時司教総会で発表された「信教の自由と政教分離」に関する司教団メッセージの中のことばです。
 この背景には昨今の日本の政治状況の中で、教育基本法が改定され、あたかも国家のために個人があるかのような方向で教育がなされていく気配があり、日の丸・君が代問題では「強制はない」と政府が明言したにも関わらず現場で締め付けが行われている等々、管理統制社会になりつつある傾向を司教たちが懸念していることがあります。
 さらに、かつての戦争で日本のカトリック教会が、結果的に国家の戦争に加担するような動きに巻き込まれていったことを反省し、二度と同じ轍を踏むまいという決意もうかがえます。 
 当時、国家と国家神道が一体となって戦争に突き進むなかで、神社参拝が強要され、教会はカトリック学生や生徒児童が学校の行事として靖国神社に参拝させられるという問題に直面したのです。そして国家による宗教統制が強まる中、日本の教会が生き残れるかどうかの重大局面に立たされました。それで教会は文部省(当時)やバチカンの布教聖省に照会し、その回答に基づいて、「学生が神社で行うように政府から命じられた儀式は宗教的なものではない」とし、天皇に対する忠誠心と愛国心を表す「社会的儀礼」であるとして、信徒の神社参拝を許容してしまったのです。それを契機に、あの戦争に協力する動きが加速されたのでした。もちろん、当時の教会もイエス・キリストの名のためには殉教する覚悟があったのです。しかし羊の衣を来た狼のごとく罠は巧妙だったので、結果的に戦争の流れに飲み込まれてしまったのでした。

現在、政府は憲法改正を目指し着々とその準備をしています。その中で、「戦争の放棄」を謳う第9条だけでなく、「信教の自由と政教分離」を規定した第20条に関しても改定案が発表されました。
現行の日本国憲法第20条 は次のように規定しています。
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
本来この規定は、天皇を中心とする国家体制が宗教と一体となり戦争にまい進したという歴史への反省から厳格に規定された原則で、厳守すべき規定であるはずなのに、第3項を変更する以下の案が出されました。
「国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教的活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉となるようなものは行ってはならない。」(「自民党新憲法草案」第20条3項)
この「新憲法」草案によると、「社会的儀礼又は習俗的行為」の範囲内なら宗教的行為を国や公共団体が行っても良い、つまり明らかに「宗教儀式」であっても、「それは社会的儀礼・習俗的行為である」と解釈すれば、国家や公共団体はその「宗教儀式」を行うことが可能になるのです。これに対して司教団は、かつて宗教儀式であっても社会的儀礼だからといって、神社参拝を許容し戦争加担へと進んだ過ちを、今、繰り返す危険をはらんでいると懸念を感じているのです。

 また1936年に出された布教聖省の指針を根拠に、靖国神社参拝は社会的儀礼であるからカトリック信者にとっても好ましいことであるかのように考える人がいますが、それに対しても、この指針は戦後に新しく日本国憲法が制定され、国家神道は解体されて靖国神社が一宗教法人になり、教会も第二バチカン公会議を経たことなどからそのままでは現在に当てはめることはできない、と述べています。
 また政教分離は、信仰者や宗教団体が政治的な事柄にかかわってはならないことだと言う人がいるがそうではない、この原則は「信仰生活と政治的活動」の分離ではなく「国家と宗教団体」の分離を規定するものである、と言います。
 さらに「この原則は、信仰者や宗教団体が自らの信念に基づいて政治に対して発言したり行動したりすることをさまたげるものではない」、「カトリック教会はキリストの愛に基づいて、国内と国際間に正義と愛がいっそう広く実行されるよう寄与すること、人間の基本的権利や救いのために必要であれば、政治に関する事がらにおいても倫理的判断を下すことを、その果たすべき大切な務めとして自覚しています」とも述べています。
 そして最後に「わたしたち日本カトリック司教団は、基本的人権である信教の自由を保障する政教分離の原則を堅持していくことを強く訴えます。それは、アジア諸国と共に平和を構築していくためにもどうしても必要なのです。」とメッセージを締めくくります。

 このメッセージ発表に至るまで司教団は一年以上かけて準備と勉強を重ねてきました。司教総会や勉強会で、司教自身が研鑽し草稿してきました。またこのメッセージ作成と併行して、昨年10月からメッセージの下地となるべき見解を述べた次の小冊子を発行してきました。
1.「戦前・戦中と戦後のカトリック教会の立場〜1936年の布教聖省『祖国に対する信者のつとめ』」(岡田武夫大司教執筆)
2.「自民党新憲法草案を検証する」(谷大二司教執筆)
3.「『国是』と迫害」(溝部脩司教執筆)
4.「信教の自由と国家」(高見三明大司教執筆)
 今回のメッセージ発表に伴い、これらの分冊を合本にして出版する準備がすすめられています。この記事がでる頃にはカトリック書店で購入できるようになっていると思いますので、メッセージをよりよく理解するために一読をお勧めします。


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難民移住移動者委員会2006年12月15日(木)発行 FAX NEWS No.35/クリスマス特集号/瓦版第一号より

難民の話 
国に帰ったら、殺されてしまう。国を逃れてやっと日本にたどり着いたのに」悲痛な叫びをあげたビルマ(ミャンマー)の人。胃が痛く、夜も眠れない、と何人もが訴えていました。
 先日、長崎の大村入国管理センターに面会に行った時のことです。この人たちは仮放免で生活していたのに、関東で入管に出頭したら拘束されてしまったのです。そしてこちらのセンターに移送されてきました。会議で長崎にいった機会を利用して訪問しました。入管職員に案内されて鍵のかかった扉を通って面会室に入ったら、後ろからガチャと鍵を閉められました。その時のなんとも言えないいやな気持ちが今も残っています。面会室はガラス張りの部屋。収容者と面会者は握手をすることもできません。ガラス越しの向こう側の部屋に監視と一緒に収容者が入ってきます。そして、一人約30分、心身の健康状態を尋ねたり今後のことについて話し合ったりしました。皆、国の軍事体制から逃れて来た人々なので難民認定を受けたいと思っています。
 しかし日本では難民認定された人は非常に少なく、2003年は申請者336人に対して認定者10名、翌年は426人に対して15人、去年は384人に対して46人でした。 この数も一度は非認定になりながら、再審査で認定された人数も含めてのものです。他の先進諸国が、千、あるいは万単位で毎年難民を受入れているなか、日本政府が難民と認定する数は極めて少ないのです。
 難民とは、人種、宗教、集団あるいは政治的意見等によって自国を出ざるを得なかった人ですから、たとえ法的に難民と認められなかった人でも、実質的難民にはかわりありません。 でも日本で難民不認定となった難民たちは、命に危険が及ぶ祖国や他国に送り返される危険があります。
 この大村入管センターのパンフレットには、「外国人の中には、我が国の安全や利益が害されるのを防ぐために強制的に国外へ退去させなければならない人たち・・・が後を絶たない状況にあり」、このセンターは「出入国管理及び難民認定法の規定により、不法に日本に入国したり、在留中に好ましくない行為をして、日本から退去を強制されることとなった外国人を、送還できるまでの間、とどめておくことを目的とした法務省の機関」と書いてありました。
日本から退去強制となった外国人を、送還できるまでの間、とどめておくことを目的とした法務省の機関というセンターの設置目的からみると、ここに収容されている人々が強制送還される可能性は大と考えられます。アウン・サン・スー・チーさんが長期間、軟禁されているビルマの軍事政権のただ中にこの人たちを帰すことがなにを意味するかを、しっかりと見極めてほしいものです。
 日本では、今、様々な問題が堰を切ったように流れ出してきました。教育基本法改定、少年法改定、障害者自立支援法・・・等どれも、管理を主に、人間を従にするもの、また差別化、周縁化、二極化への地ならしのように思えます。「忘れたん?みんな一緒のニンゲンやで」という部落活動センターの標語が心にしみいります。


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家庭の友 2007年1月号より

長良川を知っていますか?

 長良川といえば、誰もがすぐに「鵜飼い」を思いうかべるでしょう。でも長良川といえば「河口堰問題」と言う人はどれほどいるでしょうか。実は先日、三重県長島町に行き、この河口堰を実地見学し、地元の人の話を聞く機会がありました。
 この長良川は木曽川・揖斐川と並ぶ木曽三川の一つで、岐阜県の大日ヶ岳から三重県桑名市の伊勢湾河口まで166kmにわたって流れています。本流に大きなダムを持たない川、成長とともに海におりて回遊し、産卵時に川を遡上するサツキマスが大量に自然繁殖している川として知られていました。この豊かな自然の恵みをもたらす川の沿岸には漁で生業をたてる川漁師が多かったのです。
 しかし1960年に利水目的のため「長良川河口ダム構想」ができ、1968年にその基本計画が閣議決定されました。工事の認可大臣は「建設族のドン」金丸信でした。総事業費1500億円の工事が1989年着工され、1995年7月に河口堰 ゲートが全面閉鎖されました。その運用が始まって今年で11年です。
 当時の建設省は、高度経済成長時に水需要は増大すると主張し、四日市の石油コンビナート、名古屋の鉄鋼コンビナート建設計画に対応する工業用水の利水を目的にしました。しかし「石油ショック」で高度経済成長期は終わり、企業はコスト削減をし、工業用水を循環させる装置により水は不要になりました。それで愛知県知多地方に無理やり上水を供給し水を買わせています。名古屋市では長良川の水を使用しないのに、建設費の一部を負担するので、水道料金が高くなりました。
 水需要がなくなったとき政府は利水目的を転換し、治水を前面に出しました。「洪水時に水を安全に流すために、河川の最大流量を増やす必要がある。そのために浚渫をする。浚渫で海水が逆流するので塩害が発生する。塩害を防止するために堰が必要」と説明したのです。堰そのものは治水施設ではなく塩害防止の堰であり、塩害がなければ堰は必要ないということなのです。1991年11月に国会で河口堰現地の長島町に塩害がないと建設省は答弁しています。また「昭和59年度(1984年)木曽川塩害解析調査報告書」で、塩害対策として河口堰は非現実的である、とも言っているのです。
 それよりも現地の長島町は海抜マイナス1.7mという低地であり、河口堰によって水が溜まるとマイナス3.0mにもなり、堤防がその水圧に耐えられるのか、との不安の方が問題です。また長良川河口堰直下には2つの活断層があり、大地震時に起こる液状化現象による堤防崩壊が心配です。阪神大震災の時には震源から40km離れた淀川左岸で液状化現象により堤防が崩壊したのです。河口堰はかえって危険な代物となってしまいました。
 生態系への影響については、当局の説明は次の通りでした。
 「河床のヘドロ化の心配はない。堰上流の水は常に流れているので藻類の異常発生による水質悪化は起こらない。シジミの絶滅はあり得ない。堰下流では淡水と海水がまじりあうので、ヤマトシジミに大きく影響することはない。呼び水式魚道とロック式魚道を設置するので、鮎、サツキマスはそれを通って遡上するから問題ない」。
 しかし運用が始まって流れが止められると、55日目にして水質汚濁の指標であるアオコが発生しました。半年でヘドロも出始めました。河床にヘドロが堆積すると酸素がなくなりメタンガスが発生し、諸生物が死滅します。普通だと川の流れですぐ解消されるのに堰があるとその流れがなく、自然の浄化作用ができなくなりました。現在、ヘドロが2メートルの層になっているのが判っています。そして堰の左右岸に人工魚道を作りましたが、アユとサツキマスの遡上数は激減しました。1995年の建設省のモニタリングでもシジミが減少していることが判明しています。堰上流では淡水化のためヤマトシジミは死滅しました。
 森と海をつなぐ川を分断するこの河口堰によって、建設省の説明とは裏腹に様々な影響がもたらされました。そして沿岸のシジミ漁師は生業を奪われました。
 建設以前から多くの疑義が指摘され、その反対運動は全国規模にまで広がっていたにも拘わらず、誰のためにか、この堰は作られてしまったのです。 

 最近、韓国に行き、久しぶりに友人とおしゃべりする機会がありました。彼女の家がある浦吉島でもダム拡張計画があったそうです。彼女の夫は、ダム拡張建設に反対して33日間、水と塩だけでハンストを断行し、国中に大きな反響を呼び起こしました。地方の出来事でしたが大統領府・青瓦台の介入を引き出し、ダム建設をストップすることが出来たということでした。彼女も夫に協力して、地元の建設業者や地方公務員のダムの水量や効用を説明する書類の数字のごまかしを見事、論破し、嘘だらけの環境影響評価報告書の問題点を暴き、建設中止の一助となったそうです。個人でもこのような命をかけた抵抗で、大きなうねりをもたらし、巨大な権力に逆らうことが出来たのです。「一番重要なことは私たちのこのような努力にそれぞれの分野で働いている人々たち顔を出さず協力してくれたことです。この人たちの中には政府関係で働く人達もダムや土木関係で働く人たちもいました。幾つかの市民団体も頑張ってくれました。心の奥のどこかに’正義’というものを潜めていても、そのように引き出すかが分からないでいる人たちを、刺激し動かす’何かの方法’をもてば、社会は’希望’を生み出してくれるんだと思いました。」という彼女の言葉と気力と実行力に大いに力づけられました。同時に、私たちって、あまりにも簡単にあきらめてしまうのではないか、と思ったのです。


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カリタスジャパン・ニュースレター 06.08  

いのちを大切にする社会を!
 先日、群馬県の草津に行く機会がありました。草津といっても温泉ではなく国立草津療養所栗生楽泉園というハンセン病の施設です。かつて2000人以上の患者がいた所ですが、多くの方が亡くなり今は202人になっています。
 草津は零下15度程になる寒冷地です。かつて全国各地のハンセン病療養所で反抗的な患者とされた人々がここに送られ、重監房に収容されました。食事は一日2回、ごく少量でした。それで死者が出ても同室の人はその人の食事を分け合って飢えをしのぎ、臭くなってからやっと遺体を運び出してもらったそうです。部屋は食事を入れるための隙間と、上部に明かり取りがあるだけで、玄関から4つのカギをあけなければたどり着けない程の厳重な管理体制でした。すでに生き証人はなく、今はその重監房の建物も壊されて土台だけが残っていました。しかしこの負の遺産を遺すために原状にそって改築しようという運動も起きています。
 全国のハンセン病療養所のもう一つの問題として今、胎児標本のことが表面化しています。妊娠した人に堕胎を強要し、胎児ばかりでなく嬰児までもホルマリン漬けにして保管していたものです。「生まれた子を数時間抱いた。確かに生きていたのに、死んだと言われた」とか、「子どもが看護婦に口と鼻を押さえられ足をばたばたさせた後、静かになったのを見た」と元患者から聞いたことがあります。
 人の命がこんなにも軽くあしらわれていたことに痛みと怒りを感じます。これらの問題の一つ一つにしっかりと向き合っていかないと、いのちの軽視の風潮をいつまでも引きずっていくのではないかと、歴史に誠実に向き合う大切さを痛感しています。
 昨年12月、社会司教委員会は他団体に先駆けて、厚生労働大臣宛に「ハンセン病療養所の胎児標本の焼却、埋葬などを拙速に行わないこと、そしてその取り扱いの再考を求める要望書」を提出しました。これに連動して多くの方が署名に協力して下さいました。そして去る6月14日に川崎厚労大臣は入所者達と面会し、「患者やご家族が多大なる精神的苦痛を受けたことは誠に遺憾で、心からおわび申し上げたい」と初めて謝罪しました。ここまで大きなうねりとなったことは嬉しい限りで、協力してくださった方々に心から感謝申し上げます。
 カリタスジャパンは微力ながらも人の命に直面し対応する活動をしています。命が粗末に扱われている今の社会にあって、私たちがそれぞれの生活の場で命を大切にし、世界中の人々が幸せな生を全うできるように努力し連帯していきたいものです。
 

写真は重監房跡


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 『セクシュアル・ハラスメントに気づくことから
         〜あらゆる暴力にNO!という教会を目指して』 

  今春、日本のカトリック教会では、冊子『セクシュアル・ハラスメントに気づくことから〜あらゆる暴力にNO!という教会を目指して』を発行しました。
 2002年、米国で聖職者による児童性的虐待が発覚して大問題になり、カトリック教会はその対応に追われたことを記憶しておられる方も多いと思います。日本の教会もこの問題を重く受け止め、司教総会において「子どもへの性的虐待に関する司教メッセージ」を発表し、さらに「子どもへの性的虐待問題に取り組むプロジェクトチーム」を発足させました。同チームは『教会が子どもを守るために「聖職者による児童性的虐待への対応」司教のためのガイドライン』を作成しましたが、その検討過程でセクシュアル・ハラスメントの問題も、日本の教会において避けて通れない課題であり、取り組むべきであるとの提言がなされました。これを受けて早速、司教団はカトリック中央協議会内に「子どもと女性の権利擁護のためのデスク」を設置。同デスクは検討の末、教会共同体においてセクシュアル・ハラスメントについてどのように認識され、どのような対応がなされているかをまず調査し、この結果をもとにセクシュアル・ハラスメントに関する冊子を作成することを目指しました。そしてカトリック新聞においてアンケートを実施し協力を要請したのです。その結果110 件の回答が寄せられ、その内の半数が被害者自身からのものでした。その回答から以下の諸点が明らかになりました。

1.教会内でもセクシュアル・ハラスメントが存在する。
・信徒ばかりでなく、修道女も被害にあっています。
・具体的には「聖職者から性的な内容の手紙をもらった」、告解や霊的指導の場で「胸に触れる」「キスをする」「抱きしめる」などの被害です。中には「聖職者の手を通して恵みがあるから」という理由でセクハラ行為が行われたというケースもありました。
・被害者は周囲からの次のような言葉で、傷を大きくしています。「あなたに魅力があったからよ」「あなたがものほしげだからだ」「いつまでも過去にこだわらず忘れなさい」「赦すべきだ、赦せないあなたには愛がない」「そんなに深刻に悩むことでない」「どうして逃げなかったのか、抗議しなかったのか」「あなたにも問題がある」「あの人に限ってそんなことあるわけない」「男とはそういうものだ」「人間は弱いのだから仕方ない」。
 
2.被害者は誰かに相談したか、またそれが解決したか、に関して
・被害者の半数近くは誰にも相談していません。
・「問題が解決した」とされるものはわずか3割しかない中、その内容は「自分の認識を変えた」「加害者が転任した」「自分が教会を変えた」など、真の解決に至っていないものがほとんどです。
・教会内の人に相談して、かえって傷が深まったというのもありました。
・被害者から相談を受けた人の回答では「共に苦しみを共有した」「話を聴いて慰めた」「専門家に相談するよう勧めた」など被害者の立場になって対応をしたケースがいくつかありますが、被害者本人からの回答を見る限り、被害者の側に立った対応はごく僅かでした
3.未解決の原因は?
・「教会内にはセクシュアル・ハラスメントは存在しない」という思いこみがあります。
・相談を受けた人に「身内の恥はできるだけ隠すべきだ」とまず組織を守ろうとする姿勢がみられます。
・問題を明らかにした場合に「信徒から糾弾されるのではないか」等の恐れが挙げられています。
・「聖職者は神の代理人であるので、たとえ聖職者が加害者でも、信徒は彼を批判してはならない」「心で嫌だと感じているのに、神父の今後を思うと誰にも言えない」「意見は悪口と取られる。『愛がない』と非難されるより黙っていた方が、、、」、「信仰生活の中で解決はない」というものもありました。
・教会が「赦しの共同体」「愛の共同体」であるという名目が、被害の存在を見え難くすると同時に、被害者は「加害者を許せない自分」を責める原因ともなっています。
・「被害者にも落ち度がある」という思いこみからくる加害者のすり替えもあります。

4.セクシュアル・ハラスメントに対する認識は?
 アンケートによると、「教会にこのような企画があること自体に驚いた」との声がある一方、この取り組みが「社会の動きから10 年遅れた企画であることを反省し、結果をすべて公表するべきだ」との声もありました。さらに「教会は信仰共同体なのだから一般社会と同じレベルで考えるべきではない」、「教会も人間の集まりであるから一般社会で起こることは起こり得る」、「教会は祈りの場。不要な議論を持ち込んで混乱させるつもりか」等々の意見が教会内部に混在しています。

 これらの回答を様々な観点から検討し、「セクシュアル・ハラスメントは人権侵害である」と気づくことからまず出発すべきであると考え、この冊子作成に至りました。
 この冊子発行を機に、被害者からデスクに直接電話が入るようになりました。そこで目立つのが30年、40年前に受けた被害を心に秘めていた方々が声をあげ始めたということです。これだけ長い間、誰にも相談できずに苦しんで来たことに驚きと痛みと怒りを感じます。またデスクばかりでなく、教区の事務所へも電話がかかってくるようになり、その結果、受け皿としての委員会を準備し始めました教区もあります。
 この取組みは日本の教会の中でやっと始まったばかりです。またジェンダーの説明で男女の性別決定をこの世に生を受けた瞬間とし、またXXとXYとして単純化してセクシュアル・マイノリティーの方々への配慮を欠いている等の不備な点が残っています。遅々とした歩みではありますが、さらにすべての暴力にNOと言い、弱い立場に追いやられた人にとって、真の救いとなる教会つくりに励むことができればと願っています。

冊子のお問い合わせはカトリック中央協議会・社会福音化推進部「女性と子どもの権利擁護のためのデスク」電話:03−5632−4413


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「広島」という街
  広島が日本の首都だったことを知っていますか?

 先日、広島で開かれた会議の一環としてフィールドワークがありました。平和記念公園や原爆資料館に行ったことがあるので、今回は健脚コースを大胆にも選び、広島城周辺を巡りました。案内は「ヒロシマの今から過去を見て回る会」世話人の戸村良人さんです。

 広島球場の脇を通って城址に向かって歩いていきました。城の入り口となる堀のすぐ外側には、「はだしのゲン」作者の中沢さんの平和マンガ「ユーカリの木の下で」にでてくるユーカリの木や、中は空洞になってしまって外皮だけのマルバヤナギという被曝木がありました。爆心地から700メートル余にあって今も生き続けている古木でした。
 生命力のすばらしさに感嘆しながら城址の中に入ると、そこが中国軍管区(第五師団)地下通信司令部のあった所でした。今は半地下式司令部通信室跡の塹壕が残っているだけでした。第五師団は、日清戦争から第二次世界大戦までのあらゆる戦争に関わった部隊です。爆心地から約千メートル以内に、広島城天守閣を取り囲むように並んでいたこの司令部関係の建物は、原爆で壊滅しました。その中でただ半地下式司令部通信室だけがかろうじて残り、ここから学徒動員で通信隊にいた14歳の岡さんという女学生が原爆の第一報「広島全滅」を発信したのです。
 その先に護国神社がありました。日中戦争が泥沼化する中で、別の所にあった官祭広島招魂社が移され1939年護国神社となったものです。太平洋戦争突入時には対英米戦必勝広島県民大会がここで開催されたということです。
 入り口にある碑文には「旧第五師団管下の将兵を主軸としている本部隊は揚子江、湘江を中心とし江北、湘南等の各地に転戦し赫赫たる戦果をあげた、、、その功績をたたえ云々」とあり、「報恩の碑」の台石には「英霊にささぐ」と刻んでありました。また幼子を抱いて立つ男女の像の裏側には「父慕い 母の育み幾春秋 深き恵みに、われはこたえん」と記してあります。1978年に遺族会青年部が建てたものだそうですが、靖国神社と同じような雰囲気を感じさせるものでした。この護国神社は66年という歴史が浅い神社でありながらが広島では最も格式が高い神社とされ、正月の初詣には57万人もの人が訪れ、県下一の参拝数ということです。因みに宮島神社は13万人だそうです。
 玉垣には、マツダ、三菱、広島銀行等広島の大手企業の名があり、大きなものは1000万円の寄付者のものでした。 ここで広島カープの必勝祈願も行われるそうです。正面には「御即位五〇周年記念」の馬の碑、「天皇陛下御即位御大典記念」の門柱があり、この神社と天皇制との関わりを映し出しているようでした。

 広島城の天守閣の脇にある本丸広場には旧大本営建物の礎石だけが残っていました。その脇に「史蹟明治二十七八年戦役広島大本営」の石碑(昭和十年・文部省建設)がありました。
 日清戦争に備えて「戦時大本営条例」が1893年に制定され、戦時あるいは事変の際の最高統帥機関・大本営が設置されました。それが清国への宣戦布告とともに東京の参謀本部から宮中に移され、さらに9月の明治天皇の「広島行幸」とともに、広島城内の第五師団指令部に移されたのです。丁度その年に山陽鉄道が広島まで開通し、数年前には宇品港が完成したため広島が絶好の拠点となったということです。そこで天皇及び政府・軍部の首脳が戦争指揮にあたり、侵略の前線基地としての役割を果たしたのです。しかし木造白亜二階建ての大本営は1945年の原爆により一瞬にしてふきとばされてしまいました。

 広島城公園の東側には池田勇人の像があり、その側に「歩兵第十一聨隊」と刻まれた門柱がありました。歩兵第十一聨隊は周辺の広大な敷地に駐屯し、1876年萩の乱、西南戦争、京城の変(1892年)と出動、また1894年の日清戦争では、宣戦布告に先立つ2カ月前に宇品港から大陸に向かいました。それ以後は第五師団の基幹部隊として行動し、アジア・中国の人達に対して残虐な殺戮の限りをつくし「マレーの虎」と恐れられていた連隊だったそうです。そばに慰霊碑が立っていますが、この碑文を見たマレーシヤの人が号泣したということです。広島でアジア大会が開催される前、日本軍侵略による被害を受けた国々の人々が訪れることも考え、1994年8月にこの碑文の中の「支」「大東亜戦争」「昭南神社」「各々勇戦奮闘、克く郷土の名声を高揚した」等刺激的な文句が書き換えられたそうです。
 
 最後に広島城の南、明治天皇が来広して約7カ月、広島市が事実上日本の首都として機能した時に設置された貴族院、衆議院の仮議事堂の跡地に行きました。貴族院と衆議院の仮の議事堂があったと記す小さな碑がありました。ここで10月18日から22日まで臨時帝国議会が開かれ、1893年当時の国家財政規模は約8500万円であるのに、1億5千万にのぼる「臨時軍事予算案」が満場一致で可決されたとのことでした。ほんの数ヶ月ではあっても広島が事実上の首都機能を果たしていたのです。

 これらの旧広島城内の司令部とそれを取り囲んでいた、歩兵・工兵(白島北端)・輜重兵の各兵舎は、原爆によって推定約1万5千人の兵員とともに壊滅しました。そしてこの広大な土地が今は、官庁街、公園になっています。
 明治以来、様々な戦争の中枢となったこの地を連合国が原爆投下の地として選んだ意図が分かるような気がしました。これらの現場を実際にめぐって「廣島大本営」を知り、明治から現代までにつながる糸を垣間見た気がしました。

参照:ヒロシマの今から過去を見て回る会のホームページhttp://ww3.enjoy.ne.jp/~simoiti1329/index.html 
写真提供:戸村良人さん


被曝したマルバヤナギの木

幼子を抱いて立つ男女の像


被曝したユーカリの木


貴族院、衆議院の仮議事堂跡


「史蹟明治二十七八年戦役広島大本営」の石碑
 


back to top    家庭の友06.01号 「えん罪事件に関わって」


「私はもうこどもを産めないのですね、、、、、」と悲痛な想いを語るOさん。この言葉を伝え聞いたとき、「生まれつき結婚できない者があり、また人から結婚できないようにされた者があるが、、、(マタイ19,12)」との聖書の言葉が呼び起こされました。今までなんの感動もなくすっと読み過ごしてきたこの言葉が心にいたく疼きました。えん罪事件にまきこまれたOさんが権力から結婚できないようにされた人だと実感したのです。彼女は前日、札幌の高等裁判所で、控訴棄却という冷酷な判決を受けたばかりでした。弁護団はすぐさま最高裁へと上告しましたが、一審の懲役16年という判決はOさんから結婚の自由をも奪ってしまったのです。
 恵みの庭、なんて美しい所と思いませんか? でもこの名前の町で冤罪事件が引き起こされたとなれば、美しいなどとは言っていられません。そうなのです。いわゆる恵庭OL殺人事件は、当時マスメディア特にテレビのワイドショーで騒がれたので、記憶にとどめておられる方もあるかもしれません。
 2000年3月17日朝、北海道恵庭市の農道で焼けた遺体が発見されました。その遺体は千歳市内の会社に勤める女性と分かり、警察はその日から、被害者の同僚女性・Oさんに疑いの目を向けました。Oさんは、約1ヶ月後の4月中旬から任意の取り調べを受けましたが、彼女は無実を訴え続けました。 弁護士が接見に行ったとき、取調官から「先生、あの女は嘘つきだから気をつけてください」と言われたそうです。しかしOさんに会うとブルブルと震え、話もできない程で、「先生があと1時間来られるのが遅かったら、私は取り調べが恐くて自分でやった、と言ってしまったでしょう。」と言ったのです。そして殺人犯と断定する刑事によって執拗に自白を強要され心身に異常をきたし、彼女は入院してしまいました。やっと退院したのもつかの間、警察は殺人、死体損壊・死体遺棄の疑いでOさんを逮捕し起訴してしました。10月に裁判が始まり、無実を示す証拠が次々と出され、また検察の「無実証拠隠し」の工作も次々と明るみに出てきました。Oさんの犯行を証明する直接証拠がなく、彼女も一貫して無実を訴えました。このような状況にもかかわらず、状況証拠の積み重ねによって「犯人である可能性を疑わざるを得ない」ということで有罪とし、2003年3月26日の札幌地裁は懲役16年の判決をだしました。そして、去る9月29日、札幌高裁はこの一審を保持し、控訴棄却を申し渡したのです。
 さらにOさんは、事件数日後から逮捕まで、多数のメディアの絶え間ない監視を受け、車を追跡されたり、出勤途中でカメラを向けられたりする報道被害を受けました。それは今も彼女やご家族の心に深い傷となって残っています。また、そのようにして撮影された映像・写真が、Oさんを犯人視する記事とともに繰り返し映し出された結果、Oさんに対して社会は当然のように犯人視していきました。マスコミが有罪報道をしてしまった事件については、もう、世の中は「犯人」として憎悪の目を向け始めます。マスメディアで何度も掲載・放映される写真・逮捕前の映像は、重大な影響を与えるのです。これが幾多の冤罪事件で冤罪被害者を苦しめてきました。今まで、松本サリン事件、甲山事件等々、数多くの冤罪があり、犯人と疑われた人々が、体験を通して訴えています。いつ自分の身にふりかかるかもしれないのです。Oさんもこの事件が起きるまでは会社で働く普通の女性で、こんな事件に巻き込まれるなどとは夢にも思わなかったのです。
 実は私はこのOさんと文通を続けています。とりとめもない話題で文通しているのですが、その素朴な人柄がその文面にも表れています。拘置されている身ながら淡々とそして、しっかりとしたきれいな文字でつづる彼女の便りに、とても人を殺めるなどということは出来ない人だと思います。
 地震のニュースでは、自分で扉を開くことができない所に生活しているので、地震が起きると恐怖心が増すとか、自分の所からは緑の葉だけが茂る木が一本見えるとか、上士幌という町では、スギ花粉症の人の疎開ツアーがあるとか、(実は私が花粉症で云々と書いた手紙の返事でした)、宗教とは無縁の自分にも亡くなったヨハネ・パウロ二世の名は良く覚えているとか、書いてくれます。
 ある公判で、被害者の性器を損傷し証拠をのこさないために徹底的に焼いた、という事実を事細かに話された時、「あんな細かいことまで言うなんて、、、ご遺族が法廷で聞かれていて、どんなお気持ちだったか。そう思うと、腹が立って」と自分のことより、被害者の遺族に思いを向けていたのが、いかにも彼女さんらしいと面会した人の感想でした。彼女をよく知る弁護士の方も彼女にはできない事件だと確信しています。
 この事件の特徴は殺害時刻・殺害場所・殺害方法が特定されていないこと、凶器が発見されていないこと、物証がないこと、自白がないこと等々の問題があります。それで一人の人が殺人者扱いされていることは、大きな人権問題ではないでしょうか。
 このようなことがまかり通る社会になってしまったのでしょうか?こんな警察の捜査や裁判で一人の人の人生を踏みにじってもいいのでしょうか。『疑わしきは被告人の利益に』の理念は、無視されています。そして検察側の主張を安易に受けとめ、被告人の声に耳をかさない裁判ノ。暗黒時代に立ち返ったような司法の現状に恐ろしさがこみ上げてきます。裁判所は、「疑わしきは罰せよ」の方向にどんどん進み、警察にひとたび犯人と睨まれたらもう、どうしようもない時代になりつつあります。いつ、どこで、誰がその立場に立たされるか判らない中、被告人の権利は一体今後どうなっていくのでしょうか。そして私たちもこのような事件に、いつなんどき巻き込まれていくか、その可能性が全くないとは言えない、そんな世の中なのです。


back to top   家庭の友05.09号「非暴力による平和への道 〜今こそ預言者としての役割を〜」

 沖縄戦終結の日とされる6月23日、「平和キャンペーン」 の開始日にあたって、司教協議会・社会司教委員会の5名の司教を初めメンバー10数名で那覇教区主催の平和巡礼に参加することが出来ました。小禄カトリック教会での早朝ミサの後、約16キロメートルの道のりを、沖縄戦でのすべての犠牲者を追悼し、平和を祈願しながら歩いたのです。
 「やっとみつけたガマ(壕)に入ると、すでに兵隊たちでいっぱいで、わたしたち一般市民のために場所はない、と言われました。それでもどうにかと懇願して入り口近くに入り込みました。ほっとする間もなく赤ちゃんが泣き始めました。お母さんは必死にあやして泣きやませようとしますが、泣きやみません。一人の兵士がお母さんを睨みつけ、早く黙らせろと命令しました。お母さんは赤ちゃんを抱いて壕を出て行きました。しばらくして帰ってきたその人の腕に赤ちゃんは居ませんでした。それについて尋ねる人は誰もいませんでした。」 
 わたしたちの巡礼は、このような証言を聞いたり、平和の歌を歌ったり、祈ったり、小休憩をとっては、また歩くという行程で行われました。それぞれのペースで歩くので、隣りに歩く人が入れ替わります。
 「わたしは小学3年でした。何が何だかわからないまま、このあたりを母に手を引かれ、次々と場所をかえて逃げまどっていたのです」、「実は、5年生の姉が集団疎開で津島丸に乗ったのです。姉は今も海に沈んでいると思います。」歩きながら淡々と語られるその方に返す言葉もみつからず、ただただ歩調を合わせ、心を合わせて歩むだけがわたしに出来ることでした。
 最後の休憩地点「ひめゆりの塔」入口で祈った後、残る力を振り絞って「魂魄(こんぱく)の塔」に到着したのが11時過ぎ、4時間余り歩いたことになります。ここは那覇市南部の“地獄の戦場”だった所で、戦後、散乱していたおびただしい遺骨を集め、大きな骨の山になったものを、石で囲んで築いた納骨堂です。住民、軍人、米軍・韓国朝鮮人、沖縄戦で死んだ人々が軍民、人種を問わず葬られました。この沖縄最大の塔に納められた遺骨の数は4万体に近いといわれています。肉親の死を遺体や遺骨で確認できなかった多くの遺族にとっては、ここが追悼の場となっている大切な所なのです。
 ここで、すべての亡くなった方々を想い、決して戦争を繰り返さないという決意と共に平和のために祈り、献花をして巡礼行事は終了しました。
 
 丁度この一週間前、戦後60年平和メッセージ「非暴力による平和への道 〜今こそ預言者としての役割を〜」 が司教総会で、承認可決されたばかりでした。これは戦後60年の年に特別な意味をこめて送られたメッセージです。暴力の連鎖から抜け出せない現代世界の中で、教会は今こそ預言者としての役割を果たさなければならない、非暴力によって平和を創ろうと力強く表明したのです。
  まず、神から与えられた人間の尊厳の尊重を平和の基礎にすえた上で、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うこと」 であるから、過去の植民地支配や武力による侵略という歴史的事実を真摯に受け止め、反省し、その歴史認識を共有することが必要であり、そのことが二度と同じ悲劇を繰り返さないことを誓い、将来に対する責任を担うことになると言います。その上で、かつて天皇を中心とする国家体制が宗教を利用して戦争にまい進し、教会もそれに加担することになったという反省から、同じ轍をふまないと言明します。そしてこれこそが東アジアの人々の信頼を回復し、連帯して平和を築いていくために大切なことだというのです。10年前のメッセージ「平和への決意」から一層踏み込んだもので、司教方の確固たる意気込みを感じさせます。 
 次に、平和と経済・環境保全の関係にもふれ、貧富の差、貧困は、生活苦だけではなく、人の移動とそれに伴う家族の離散や人身・薬物・臓器の売買のような人間の尊厳を踏みにじる問題を生み出していること、また多くの紛争や暴力は、資源をめぐって起きていること、地球環境保全が平和構築へむけて取り組むべき重要な課題であると述べ、この貧困をなくし地球環境を守るために、世界の政府、企業、団体、市民の連帯の大切さを訴えるのです。
 現代世界の深い亀裂と暴力の悪循環に対しては、「悪に対して悪をもって報いるという悪循環から抜け出す唯一の道」が非暴力の道であること、この非暴力の精神は憲法第9条の中で、戦争の放棄と戦力の不保持という形で掲げられていると述べます。そして60年にわたって戦争で誰も殺さず、誰も殺されなかったことはわたしたちの誇りではないかと問いかけています。
 最後に、教皇ヨハネ・パウロ二世の『平和アピール』の言葉を引用します。
「各国の元首、政府首脳、政治・経済上の指導者に次のように申します。正義のもとでの平和を誓おうではありませんか。今、この時点で、紛争解決の手段としての戦争は、許されるべきではないという固い決意をしようではありませんか。人類同胞に向かって、軍備縮小とすべての核兵器の破棄とを約束しようではありませんか。暴力と憎しみにかえて、信頼と思いやりを持とうではありませんか。」
 そして、この非暴力の精神と実践を積極的に広め、世界の人々と共有することにおいて新しい連帯を築き、平和のために祈り力を尽くそう、と強く呼びかけてメッセージを結んでいます。

 戦後60年の節目に、戦争体験者が少なくなっていく中で、わたしたちも司教団のこの呼びかけをしっかりと受けとめ、戦争へと導くような一切の動きには敏感に対応し、各自の生活の場で平和を創りだす努力をしていきたいものです。


注記

1. 日本カトリック司教協議会・社会司教委員会の主催で6月23日から来年1月1日まで、平和キャンペーンとして、社会系の委員会が協力して平和に関する諸活動を行うことになった。全国集会、講演会、書籍発行、現地学習等々が企画されている。
2.司教団「戦後60年・平和メッセージ」2005年(カトリック中央協議会ホームページ http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/
教皇ヨハネ・パウロ二世『平和アピール』1981.2.25広島


back to top   オスカル・ロメロ 〜 エルサルバドルの殉教者 〜 
マニーデニス / レニー・ゴールデン / スコット・ライト 著
  多ヶ谷有子 訳   聖公会出版  2005.5.15発行

 待望していた本の翻訳が出された。1980年、中米のエルサルバドルで軍に暗殺されたオスカル・ロメロ大司教に関する本である。聖公会出版で発行されたことも嬉しい。それはロメロ大司教がカトリックを超えて、多くの人々に偉大な聖者と評される証とも言えるからである。
 ロメロ司教がサンサルバドルの大司教に任命された時、保守派は歓喜し改革派は落胆した。社会問題には疎い人だったからである。しかし親しい神父の惨殺に始まり次々と人々が殺される事態に直面して、貧しい人々の顔の中に十字架のキリストの顔を見いだしていく。
「貧しい人々に出会ったおかげで、福音の核となる真実を取り戻すことができました。福音を通して「神のみことば」は回心しなさいと強く促しているのです。」彼にとって神の御心に従って教会を築くということは、貧しい人々の心と同じ鼓動を打つ教会を築くことだった。「貧しい人々に対して行われている不正義に対し、彼らの側に立って語らないならば、教会はイエス・キリストの真の教会とはいえない」と、教会の使命を理解する「鍵」を貧しい人々の中に見つけた。貧しい人々の社会的政治的現実が信仰を深め具体化する場であると納得し、「神は人間に命を与え、人間が本当に生きることを望んでおられる。教会は命の側に立つのか、死の側に立つのか」と最も基本的な選択を迫るのである。
 暗殺2日前、兵士達に呼びかけた。「あなた方は兄弟を殺しているのです。いかなる兵士も神のみむねに背く命令に従う義務はありません。罪深い命令に従わず、今こそ良心に従う時です。、、、神の名において命じます。殺人をやめなさい。」死を予感していた彼は、「私を殺すなら、私はサルバドルの人々の中で復活する。」と言っていた。事実、彼は人々の心の中で今も生き続けている。そしてその言葉と生き方は私たちにも挑戦を投げかける。「あなたは命の神の側で生きることを選択していますか?」と。自分の信仰と教会のあり方を問うためにも是非一読してほしい。


back to top   本稿は雑誌「家庭の友」2005年5月号(既刊)(サンパウロ刊)の掲載記事より]

「茶色の朝なんか来るわけないですか?」

 みなさんは「茶色の朝」という物語を知っていますか?「茶色の猫以外は飼ってはいけない」という法律ができたことから、すべてが「茶色だけ」になってしまう物語です。はじめは猫が増えすぎたからという理由で、茶色の猫以外は処分することから始まります。そして犬、新聞、人々の服装、政党の名前、そして最後には「朝」までもが茶色になっていきます。初めは妙な感じが残り、どこかすっきりしなかった、と感じますが、「街の流れに逆らわないでいさえすれば、安心が得られて、面倒にまきこまれることもなく、生活も簡単になるかのようだった。茶色に守られた安心、それも悪くない」と思い込んでいくうちに、知らず知らずのうちに茶色の波はだんだんと押し寄せて来ます。茶色に染まるのに違和感を感じなくなっていくのです。なんとなく毎日を過ごしている内に、あっという間に全体主義にのまれていく変化を淡々と描いたものです。
 2002年のフランスの大統領選挙で、人種差別と排外主義で知られる政党・国民戦線のジャン=マリールペンがシラク大統領との決選投票の相手となったことを記憶されている方も多いと思います。極右候補が決戦投票に残るという予想外の結果に揺れたこのフランス社会にひとつの挑戦が投げかけられたのです。それがこの寓話だったのです。若い人々に考えてほしいとのことで、たったの1ユーロで売りに出されたこの本は一躍ベストセラーになったとのことです。そして、シラク大統領が選挙に勝ったということは皆さんご存じの通りです。

 日本では1999年「国旗・国歌法」が成立し、日本の国旗は「日章旗」、国歌が「君が代」であると定義されました。当時の小渕首相はこれが成立したとき「強制をするものではない」と答弁していました。しかしその後、この法律をたてに各地の教育委員会が活発に動き始めました。都教委は「国旗・国歌」に関する「通達」および「実施指針」を全都立校に出し「日の丸」掲揚、「君が代」斉唱の具体的方法について指示、さらにこれに従わない教職員は処分の対象となるとしました。また教育長は、「君が代」斉唱時に起立しない、歌わない生徒が多数いた場合は、担任教師等を調査し、不適切な発言等があれば処分するとも発言しています。そして2004年卒業式における「君が代」斉唱の際に「起立しなかった」、「ピアノ伴奏をしなかった」等で200名以上の教職員が処分されました。

 「できん者はできんままで結構。できる者を限りなく伸ばすことに労力を振り向ける。やがて彼らが国を引っ張っていく。非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいい。それが『ゆとり教育』の本当の目的」「授業内容、授業時間が減ると学力低下になることは初めから判っている。むしろ学力を低下させるためにやっている。今まで落ちこぼれのために限りある予算とか、教員を手間暇かけすぎて、エリートが育たなかった。これからはおちこぼれのままで結構、そのための金をエリートのために割り振る。エリートは100人に一人でいい。そのエリートがやがて国を引っ張っていってくれるだろう。残りの99%の非才、無才はただ実直な精神だけを養ってくれればいい。ゆとり教育とは、ただ出来ない奴をほったらかしにして、出来る奴だけを育てるエリート教育なんだけど、そういう風にいうと今の世の中抵抗が多いから、ただ回りくどく言っただけだ」。これは教育課程審議会元会長の三浦朱門氏の言葉です。ところで米国では新兵勧誘のターゲットは高校の成績の悪い生徒や問題児、貧困家庭の生徒たち、そして市民権を取りたい移民の若者たちだそうです。

 政府は2月15日、北朝鮮を仮想敵としたミサイル防衛に関して自衛隊法改正を閣議決定しました。これは発射されたミサイルの迎撃を現場指揮官の判断で行なえるようにするというものです。維持費を含めると1兆円以上の税金を使うミサイル防衛は06年度より導入されます。このミサイル防衛計画は、最終的には、数兆円もかかると言われています。「平和を望むなら戦争に備えなければならない。平和イコール軍事的安全保障である」と言われますが、「自衛と侵略とは、戦術的にも戦略的にもはっきりした区別のできることではない。自衛軍備だけしか持っていないはずの国々の間に、第一次世界戦争も第二次世界戦争も起こった。」と石橋湛山はいみじくも言っています。

 昨年12月に数ヶ月間もイラクで拉致されていたフランス人記者2人が解放されました。「国家の名において彼らをみんなで迎えようじゃありませんか」とシラク大統領が言ったそうです。一方、日本ではイラクで人質になった人や家族に対して「自作自演」とか「自己責任」とか言われ、誹謗中傷の嵐が吹き荒れました。当事者が自らの責任を負うという意味ではなく、他者が冷たく「自己責任だ」と言い放ったのです。特に国民を守るべき政府関係者がこの言葉の発信者だとすれば、その国家責任の放棄を正当化し、国家の意にかなわない者を簡単に切り捨てる権力者の姿が見えかくれしていないでしょうか。

 「一晩じゅう眠れなかった。茶色党のやつらが、最初のペット特別措置法を課してきやがったときから、警戒すべきだったんだ。けっきょく、俺の猫は俺のものだったんだ。シャルリーの犬がシャルリーのものだったように。いやだと言うべきだったんだ。抵抗すべきだったんだ。でも、どうやって? 政府の動きはすばやかったし、俺には仕事があるし、毎日やらなきゃならないこまごましたことも多い。他の人たちだって、ごたごたはごめんだから、おとなしくしているんじゃないか?」
 しかし、気づいたのはすべてが茶色になったときで、もう手遅れだったのです。

参照:『茶色の朝』フランク・パブロフ著(大月書店)
   『国家に隷従せず』斉藤貴男著(ちくま文庫)
   「アエラ」No.112の「米国の見えない徴兵制」


back to top   本稿は雑誌「家庭の友」2005年1月号(既刊)(サンパウロ刊)の掲載記事より「女性への暴力を根絶するために」
エキュメニカル女性会議に参加して

 「私はカレン族ですが、父がとてもリベラルで子どもには教育を受けさせる、と言って兄にも私にも分け隔てなく学校に行かせてくれました。でも勉強を終えて故郷に戻った時に闘いが始まりました。教会では同じ女性たちが奇異な眼で私を見つめます。私が色々提案し実行しようとしても、それは男性がすることだからとさせてくれないのです。今まで教育を受け折角それを活用して奉仕するために故郷に戻ってきたのに、単に私が女だからという理由で道が閉ざされました。幸運にも理解あるパートナーに出会って結婚し、協力しながら自由な家庭を築いてきました。ところがある日、姑が家に訪れてきて自分の息子がこともあろうに“女性がすべき”家事を分担していることに驚愕し、私はとんでもない嫁であると散々怒鳴りつけられたのです。」
 これは去る9月にフィリピンのケソン市で開催された「子どもと女性への暴力根絶にむけて」と題するアジア・エキュメニカル女性会議での一こまです。社会や教会の中で深く浸透している女性差別について、アジア・パシフィック15ヶ国から集まった約50人の女性が体験を語り続けます。冒頭の例はジェンダー差別の問題ですが、涙なしに聞くことのできない差別被害もあり、女性に対する性的暴力(セクシュアル・ハラスメント)の問題も各地にあることが見えてきました。それらに対して沈黙すればするほど事件は起こるし被害者も増えるので声をあげていかなければならないと強調され、組織として態勢を整えセクシュアル・ハラスメントに対するポリシーを明確にすること、守秘義務をもった機関を作り被害者に対応していくこと、また防止のために判りやすい冊子を作り各集会で配り啓発に努めることなどが話し合われました。
 身体、セックス、言葉、感情による暴力は力の濫用であり、支配構造における力の不均衡から来るものであり人間の尊厳を侵す人権侵害であること、犠牲者を守るという姿勢を貫くことが大事であることも確認されました。
 夜の部ではバティスというグループがドラマを上演してくれました。日本に働きに来る女性たちの実情をドラマ化したもので現地学習にも勝る挑戦を受けました。ブローカーの口車に乗せられ来日しヤクザに脅され働かされた実態、日本の男性にだまされ子どもが出来たけれども捨てられた等々の苦い体験を表現したものでした。メンバーたちはこれ以上犠牲者を出さないためにこのドラマを作り、フィリピンの人々、特に若い人々に見せたいと各地で公演活動をしています。女性たちの実体験からでている演技なので迫力があり、日本人として涙なしには見ていられないものでした。
 これらを通して日本では性に対する考えが曖昧で、性搾取が深刻な問題であるという認識が希薄であることを痛感しました。歴史的には貧困により「からゆきさん」と呼ばれた女性が身売りされ、戦時中は日本軍により多くの女性が性奴隷とされました。また現在でも風俗営業法のもとで性産業、風俗業が営まれ接待や商談に性が利用されることがあります。70年代後半には海外への買春旅行があり、80年代後半には「じゃぱゆきさん」とよばれた東南アジアからの女性が犠牲になりました。このように日本社会では性を様々な形で搾取する現実がみられるのです。
 日本の教会の動きについても話すように依頼され、私は「子どもと女性の権利擁護デスク」の動きについて説明しました。ご覧になった方もあると思いますが、このデスクは先日セクシュアル・ハラスメントに関するアンケートをカトリック新聞へ掲載したのです。
 これは「日本の教会のなかでセクシュアル・ハラスメントがどのように意識されているのか。もしも問題が起きた場合、その対応はどのようにされているのか」といった教会内のセクシュアル・ハラスメントに関する全体像を捉え、それを基に「セクシュアル・ハラスメント防止のための小冊子」を作成することをめざしたものです。
 この取り組みのきっかけは米国で子どもへの性的虐待問題が表面化したことでした。それで日本の司教団も「子どもへの性的虐待に関する司教メッセージ」を発表し、この問題を検討するプロジェクトチームを設け、日本の教会の課題について答申させました。チームはこれを検討している過程で、教会内の「女性への性的暴力」も対応すべき問題であると確認しました。それで子どもと女性の権利を尊重し、人権についての理解を深めるための啓発活動を継続的に推進する部門の設置を提案し、司教総会によって「子どもと女性の権利を擁護するためのデスク」設置が認められたのです。
 このデスクは検討の末、日本の教会における女性の人権問題にまず取り組むことにしました。それで教会内の女性の人権を考える場合、セクシュアル・ハラスメント問題はどうしても避けて通れない課題であることを確認し、それを防止するための啓発用小冊子を作成することを企画したのです。
 アンケートの趣旨はQ &Aで説明され、アンケートそのものはチャート式になっています。具体的な被害実態は被害者自らが書くことになっていて、単なるうわさ話や推測と混同されないように工夫されています。今回はなによりも、教会が弱い立場に追いやられている人々の声を聞き取り、事態の解決を図っていくためには実態を知ることからまず始めなければとの理解でこのような形となりました。今まで犠牲となった方があれば、教会内でそれが受け止められ解決されてきたのか、教会が苦しんでいる人に対して本当に開かれたものになっていたのか、或いはただ教会の組織を守るために蓋がされ、犠牲者は沈黙を強いられてきたのか、等が問われるような気がします。

アンケートに関する問い合わせ:カトリック中央協議会 社会福音化推進部内  子どもと女性の権利擁護のためのデスク TEL : 03-5632-4413 FAX : 03-5632-4461


back to top 本稿は雑誌「家庭の友」2004年5月号(既刊)(サンパウロ刊)の掲載記事より

平和を創り出す道  〜あなたならどちらを選びますか?〜
石川治子(聖心侍女修道会)

 毎年1月1日に教皇が世界にむけて平和のメッセージを発表されます。パウロ6世から始まって、今年で38回目となりますが、時宜をえたメッセージが毎年発せられています。
 第一回メッセージで教皇パウロ六世は言われます。「平和をおびやかす次の様な色々な危険に直面した時、その平和を何時も守る必要性が重大です。」と述べ、その危険として3つのことを挙げておられます。(1)ある国民に対してふるわれる暴力の危険。その人達は、生きることと、人権の尊厳への権利も認められないままに、絶望の中に、その暴力に自らを任せてしまっている。(2)今日驚くほどの発展をした恐るべき破壊的武器に走る危険。この軍備のために、ある権力者は莫大な費用を注いでいる。その為、多くの他の民族や国民の発展を妨げる不幸な結果をもたらす原因ともなっている。(3)国際間の紛争は、人間の思慮ある方法では解決することが出来ないと信じ込む危険。つまり人間の権利や、正義や、公平に根ざした試みでは解決出来ず、ただ殺人的な力だけでしか解決出来ないと信じ込む危険。そして、この3つの「危険」に直面した時に、平和を守ることが大切と説かれたのです。
 翌1969年には「わたくしは平和を一 つの義務として、われわれの逃がれることのできない義務として主張します。」と述べ、さらに「傲慢な威信と物質的利益を追求する政策のあやまりに対して、キリストの平和は、愛の政策を教えます。」と言われます。そして「キリストの平和は、人びとの苦しみと要求を理解し、小さい者、貧しい者、弱い者、孤独な者、苦しむ者、卑しめられた者、征服された者に、愛と恵みを注ぎ、幸運や保護に恵まれない人の災難や欠乏に黙すような卑怯なものではありません。一言でいえば、キリストの平和はあらゆる人道主義者の方式以上に、人権擁護に気をくばるのです。 」とキリストの平和の本質を明示されました。
 さらに1976年には、「彼らはそのつるぎを打ちかえて鋤とし、その槍をうちかえて鎌とする」(イザヤ2・4)「つるぎを納めよ。剣をとる者は、剣によって滅びる。」(マテオ26・52)を引用し、「武器や戦争といったものは文明のプログラムからははずされるべきものです。賢明な非武装は、平和に向かってのもうひとつの武器となるのです。」と喝破されたのです。

 これらの平和の訴えを私たちはどれほど真剣に心にとめたでしょうか?世界の現状を見るとパウロ6世が言及された事柄が、未だに大きな課題として残されていることに驚くとともに、それに対する応答の鈍さに愕然とするのは私だけでしょうか。

 日本では十分な議論もなされないままに自衛隊がイラクに派遣されました。ある新聞によれば今回の派遣のために以下の経費がかさむとのことです。
・イラクに行く陸海空自衛隊員には、一日三万円の派遣手当がでるので、六百人規模の派遣で月額五憶四千万円となる。
・一日でも艦艇に乗ったら月給の三割の「乗組手当」、パイロットが一回でも操縦すれば月給の六割の「航空手当」がでる。
・隊員の食事はすべて日本食で材料も日本からサマワまで運ぶので、日本では千円の食事が現地イラクでは十倍、隊員一人当たり1日三万円程度の食費となる。
・陸上自衛隊員が携帯する小銃は世界一高価で27万円、 防弾フェースや防弾チョッキ、防毒マスクなどフル装備すればー人百万円は下らない。
・ 迷彩服には赤外線感知器に反応しない樹脂が使われ1着三万円、しかし一度洗濯すると効果が消えるため、何度も買い足すことになる。
・陸上自衛隊が今回初めて海外で携帯する84ミリ無反動砲は一門220万円。
・C130輸送機は日本とイラク1往復だけで燃料費が千五百万円以上かかる。
・万が一戦死者がでたら一人当たり一億円の弔慰金が支払われる予定。

 また英国国際戦略研究所資料によると、軍事費のトップが米国で2,946億ドル、二位がロシアの588億ドル、そして日本が三位に位置し444億ドルも費やしています。世界中の軍事費の総額は7,980億ドルにものぼるそうです。

 しかしこれだけのお金があれば、以下のことが可能になるということです。
・4,010億ドルで、重債務貧困国の債務をなくし、その国の医療や保健、福祉などの整備が可能になる。(途上国と債務と貧困ネットワーク)
・1,720億ドルあれば、世界中の核兵器と化学兵器の廃棄(1,100億ドル)、化学兵器に汚染された地域の環境浄化(500億ドル)、通常兵器、小型兵器の廃棄(120億ドル)ができる。(米モントレー国際研究所)
・980億ドルで世界の飢餓に苦しむ人、約八億人の一年分の食糧援助ができる。(国連世界食糧計画)
・330億ドルあれば、世界中に埋まっている一億一千万個の地雷すべてを撤去することができる。地雷1つを除去するために300ドル以上かかるので、アフガニスタン国内の地雷 一千万個だけでも30億ドルで除去できる。
・90億ドルで世界中の人々に安全な飲み水と下水設備を提供できる。(ワールドウォッチ研究所)
・87億ドルあれば、世界中の砂漠化の防止ができる。(国連砂漠化防止条約)
・一億ドルで世界中の約二千万人の難民支援用テントや毛布を援助できる。(国連ユニセフ他)
・2千万ドルで世界中の子供達をビタミン不足による失明から救うことができる。(国連WHO)
 以上のことをすべて実現しても、世界の軍事費の総額7,980億ドルには達しません。

 さてあなたなら、どちらにお金を使いたいと思いますか?


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本稿は雑誌「家庭の友」2004年9月号(既刊)(サンパウロ刊)の掲載記事より

もうひとつの世界は可能だ!
    〜わたしにも出来ることがある。〜 

聖心侍女修道会 石川治子

 ほのかな期待をもって迎えた21世紀も世界のあちらこちらで戦争や地域紛争が続いています。社会、経済、科学などあらゆる面で発展してきた世界ですが、人類は本当に賢くなったのでしょうか。全世界の人々が平和を享受できる社会を作りだす知恵を私たちはもちあわせていないのでしょうか。

 世界は今、グローバル化が進んでいます。政治権力が地域から国際的システムに移行しています。日本の首相が国会の審議も経ず憲法違反の疑いを指摘されても、結局は米国の思うままに動いていってしまう世の中です。またあの忌まわしい9.11で犠牲になった人々の国籍が約80にものぼるという事実もグローバル化を示す例です。さらにニューヨークの人口でいえば、アメリカ合衆国以外の国で生まれた人が1960年には18%以下だったのに、現在は40%にも上っているといわれます。
 労働動態もグローバル化し、経済格差が移住労働者を増加させています。自分の祖国以外の土地に住んでいる人の割合は十人に一人といわれます。日本の教会でも、日本人と外国人がほぼ同数となり、その実態を肌で感じています。
 また国家数の増加もみられます。過去50年間、国家の数は51から約200にまで増加し、50年後には1000を越えると推定されています。信じられない数ですがインドネシア国内だけでも26の自治・独立要求がおこっていると聞けばそれも納得できるでしょう。これだけ国家ができた原因としては、民族、宗教、政治的アイデンティティーに対する強い要求もあったこともありますが、それ以上に国家が多様性の対処に失敗したことが大きな原因といわれています。もともと世界の中で単一国家は全体の一割にも達しないのに、国の中で多様性が受け入れられず大切にされなければ、少数派は抹殺されるのを忍従するか、アイデンティティーが尊重されることを求めて独立を要求するかのどちらかとなります。そしてそれはしばしば血を流すという犠牲を伴うことになるのです。
 難民状況を見れば、1975年紛争や民族浄化により欧州諸国に亡命を求めた人は3万人でしたが、1992年には70万人、現在では世界の難民は4500万人を超えたとのことです。

 このように世界が流動的になり、グローバル化しましたが、貧困はかえって顕在化し、紛争は頻発しています。民族、文化、宗教の異なる集団同士の平和共存が許される社会、多文化共生社会を作るために、私たちには一体何ができるのでしょうか。紛争を未然に防ぎ、真の世界平和を創り出すために、私たちは何をすべきなのでしょうか。以下の様々な挑戦がその道筋を示唆してくれています。

 まず供給者になること、それは社会の中で取り残された人々に人間的・社会的ニードが満たせるように資源、食糧、安全を供給することです。人間としての最低限の衣食住に事欠く人々が自暴自棄や暴力に走ることを防ぐことにもなります。ほとんどの民族紛争はある特定の民族が感じている疎外感に原因があると考えられます。社会の中である民族が排斥され、その解決への方策も見えない時、自分の状況を訴えるには暴力しかないと考えがちです。紛争の防止に必要なのは、食料、健康、教育といった人間の基本的権利をすべての民族で分かち合うことから始まるといえます。
 現在、日本人が当たり前と思って享受している生活と同じレベルの生活を世界中の人がしたら、地球の資源はたったの3ヶ月で枯渇するということを聞きました。私たちは貧しい国の人々のことを気の毒と思って善意で献金するかもしれませんが、それは単に自分が本来持つべきではないものをお返ししているだけのことかもしれません。
 さらに紛争防止のためには、能力を開発する教師の役割を果たすことが求められます。人々が自活できるように指導することです。貧困のどん底にある人は生きることに精一杯で、教育を受ける機会もないのです。よい職業にもつけないし収入もままなりません。そして貧困の悪循環の渦にまきこまれていきます。その人たちが自活し人間としての尊厳を回復し、そして生活を向上させることが出来るように指導し支援することが必要です。 
 橋を架ける「仲介者」の役割、対話を築く役割も大切です。コミュニケーションが欠如すると紛争を悪化させることになります。信頼が失せ、固定観念や恐怖、憎悪が増大し、暴力の連鎖が始まってしまいます。
 また目撃者となり、証言者として事実を伝える役割もあります。真実を見つけ、それを伝え世論を喚起していくことです。イラクで殺されたカメラマンは、大手メディアが伝えない現地の生の姿を伝えるために命を賭けました。「一枚の写真で世界を変えることができる」ことを信じていたのでしょう。
 最後に治癒者として、破壊された関係の修復にあたることもできます。心に残った傷は時として平和への脅威となります。児童への虐待事件が後をたちませんが、その加害者となった人も実はかつて被害者であったことが多くの例で見られます。人々の抱える心理的、感情的なニーズを真剣に聴くことによって心の緊張を溶き、それが暴力を克服することへと繋がります。

 私たちは現在の世界の紛争、政治や社会のありように失望したり、慣れっこになったりして、この世界を変革することを諦めてしまっているのではないでしょうか? でもそれぞれがおかれた場で、なんらかの課題にコミットするよう私たちは招かれているのです。現実に心ある若者たちが勇敢にも現場に入り、色々な活動に関わっているのをみて希望をもらいます。私たちも「もう一つの世界は可能だ」と信じて自分に出来る小さなことを積み重ねていきたいものです。
 「疑ってはいけない。思慮深く、献身的な市民たちのグループが世界を変えられるということを。かつて世界を変えたものは、実際それしかなかったのだから。」 (マーガレット・ミード・米国人類学者)

参考資料:
・ マリー・フィッツダフ国連大学教授講演(庭野平和財団主催2003年平和フォーラム)
・ 『世界は変えられる』監修:平和をめざす翻訳者たち 七つ森書店
・ 『戦争案内』 高岩仁著 映像文化協会発行


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本稿は雑誌「家庭の友」2004年1月号(既刊)(サンパウロ刊)の掲載記事に加筆

カンボジア視察報告(2003年8月22日〜8月29日)
内戦の傷跡の中でのカリタス活動 〜カリタスカンボジア〜

社会福祉委員会・カリタスジャパン 委員 石川 治子
わたしはHIVに感染しました

 「私はHIVに感染しました。夫からうつされたのです。その夫はニヶ月前に死にました。私の余命もいくばくもありません。今は遺される小さな子どもたちのことが気がかりです。」
 村人たちは皆、息をのんで彼女を凝視し耳をそばだてて聴き入っていました。子どもたちでさえ。
 これはカンボジアの首都プノンペンから北へ車で約3時間余、コンポントムという地方都市を訪れた時のことです。カリタスジャパンが援助している保健プロジェクトを8月末に視察したのです。町はずれの農村地帯、稲穂が実る畑の中を車で20分ほど走った先、そこがスラユウ村でした。村の中心に高床式の寺院兼集会所があり、その前の空き地が唯一の村の広場です。HIVとの闘いをカリタスが支援しているとの横断幕も張られていました。

 電気もないところなので、カリタスコンポントムのスタッフは発電機とテレビを持ち込み、HIV感染についての啓発ビデオをみせていました。テレビの前を子どもたちが陣取っています。畑仕事を終えた大人たちも徐々に集まってきました。最終的には250人ほど集まったでしょうか、子どもたちから大人までテレビに見入っています。内容はよく解りませんでしたが、軍人の夫と妻の物語で、夫からHIV感染した妻がで死んでいくというストーリーのようでした。
 テレビが終わると今度はクイズが始まりました。男女ペアーになって挑戦します。Tシャツの賞品付きですからいやがうえにも盛り上がります。HIVは治るか、治療の薬があるか、潜伏期間はどれくらいか、等々が問題でした。テーマの割には楽しそうにキャッキャッと笑いながら挑戦していたのが印象的でした。
 そして最後に冒頭のお母さんのカミングアウトがあったのです。

HIV/AIDS啓発プロジェクト

 このHIV/AIDS 啓発プロジェクトでは、病気の正しい知識を伝えることが中心です。小さな村の中でこの女性がカミングアウトできるまで、カリタススタッフの苦労は並大抵ではなかったといいます。
 村人たちは初めは受け入れませんでした。怖い病気だとさけられり冷たい目で見られたりしました。そこで時間をかけてHIVについての正しい知識を伝え、側に座っても感染することはないと納得し、彼女を受け入れるまでに至りました。実際、皆と一緒に座りテレビを見、周りの人とおしゃべりもしていました。
 この村にはもうひとり感染した女性がいることがわかっていますが、まだ集会に出てくるまでには彼女の心の準備ができていないということでした。そしてこの村にHIVがで始めたのは、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC) が来てからだと聞いて、怒りと不合理さを感じました。

村の診療所訪問

 翌日はストムサン川を舟で下っての診療訪問に同伴しました。雨期には、洪水で道路が遮断され通れなくなるので舟を使うのです。月に一回、医師、看護婦、薬剤師チームで健康センターに来られない人々の訪問診察をしているということです。
 のどかな田園風景を両岸にみながら、舟は進みます。所々でカリタスが建設援助したという家が見えました。一軒495ドルで60軒建てたということです。このプロジェクトでは、地区毎に住民たちが選んだ一番恵まれない家族で、夫を失った女性とか病気の人が受益対象者となります。自分たちで選抜するので文句はでません。そして家のための建材を与え、労働は皆で協力することになります。一週間で建ちあがるそうです。
 途中で健康センターのある村に立ち寄りました。船着き場のすぐ傍らにそのセンターがあり、そこには幼児を連れた女性や妊婦が50人以上も診察を待っていました。幼い子どもたちは黄色い健康カードをもっていて、体重、背丈をここで計り記録してもらいます。これだけ人が集まるのは、カリタスが地域に密着し、人々から受け入れられている証拠だと確認できました。

 さらに舟の旅を続け、一時間あまりして、サムラオ村に着きました。貧しくてセンターに来られない家族が対象です。村の長老の家が開放されて、高床式の家には30人位の人々が静かに座って待っていました。
 1993年春、国連ボランティアとして選挙監視中、このコンポントム州で銃撃され死亡した中田厚仁さんの写真入りカレンダーが壁にかけてあったのが印象的でした。
 スタッフが早速ゴザをひろげ、枕や薬を取り出して並べ診察が始まります。妊婦の診察は隅のカーテンの後ろでなされます。でも広間の方では、皆の前での診察です。医者の前で横になり症状を伝え、熱や血圧を測り薬を処方してもらいます。ここでも次々と人々が集まってきていました。診察は一日いっぱいかかるので、スタッフは今夜はここで泊まるということでした。
 ここで働くカリタスのスタッフは皆若い人々で、人々の健康維持のため献身的に働いていて頼もしく感じました。カリタスコンポントムは2週間前にフンセン首相から地域に貢献したNGOとして表彰されたばかりだということでした。

選挙のあとのコンポントム

 実はここの視察は2泊3日の予定でしたが、1泊2日に短縮したのです。それは以下の事情でした。シアヌークが7月に行われた選挙結果発表を抑えている中、フンセン、ラナリット、ランシーの三人の候補者が国外に出たという情報が入ったのです。
 97年にプノンペンではなばなしく銃撃戦が起きた時と同じ状況です。ましてやポルポトの出身地である土地に行くなど無謀なこと、何が起こるか解らないし、外国人に対しては何をされるか解らないといわれました。これが現地の情報通の助言でした。しかし今回のカンボジア視察の目玉です。視察をしないで日本にすごすご帰るわけにも行きません。覚悟を決めて出かけたのです。
 でも幸い何事もなく、コンポントムは表面的にはのどかな地方都市のようでした。

 そんなわけで、スタッフより一足早く、舟に乗り、さらにプノンペンへの帰路につきました。帰りは慣れたせいか、車に身を任せて跳ねながらの旅で穴ぼこだらけの道もそれほど気になりませんでした。

プノンペン市内の青年プロジェクト

 翌日はプノンペン市内のカリタスカンボジアの青年プロジェクトを視察しました。郊外に教区が所有している一軒家があり、そこで青年のためのプログラムがなされているのです。二階にスタッフの事務所があり、まずそこで説明を受けました。
 このプログラムは1992年に開始され、今まで1000人以上の貧しい家庭で学校にも行かれない青年男女の職業訓練をしたということです。自動車やオートバイ、電気器具等の修理技術、コンピューターの操作、裁縫、美容師、宝石錬磨術、等々の必要な技術を訓練します。スタッフが技術の必要性のリサーチをして、その年のコースを決めていきます。過去約10年の訓練コースと生徒の数、就職率が表になっていました。初めの頃、宝石錬磨をしていましたが最近はなく、電気製品の修理訓練が増加しています。さらに就職は100%に近く、このコースが実際の生活向上に役立っていることがよく判りました。スタッフの説明を聞いた後、実際に青年たちがしている訓練を見ました。一階にはコンピューターが10台置かれ、一日3コースで30人が参加しているということでした。その隣の部屋は英語や理論のクラスができる教室になっていました。施設としては、これだけです。その他のコースは全部ワークショップ形式でした。様々な修理工場の主人と交渉して、数人の訓練生を受け入れてもらい、実地訓練をします。そこでは単に教室で学ぶ技術ではなく、実際の訓練ができ、さらに接客術も身につけることができ、将来、お店で働くために役立つスキルを習得することができるのです。「大きな施設をもってその中で技術訓練するところもあるが、あまり実生活には役立たないのでこのやり方がいい」と、カリタスのメンバーたちは自信を持って説明してくれました。
 ここのコースを終えた青年たちを対象にユースクラブも作られています。種々のセミナーや講演会を開いたりして、色んな意味で卒業後も関係をもち、かつ後輩たちに自分が受けたものを還元することができるようにするシステムです。実際ここを卒業した女性が美容室をもつまでになり、そこで若い訓練生を5人引き受けて訓練していたのを見せてもらい、感心した次第です。また3ヶ月前にコースを修了した若者3人が、なけなしのお金をはたいてお店をもち、電気器具の修理のの仕事を始めたばかりのところも見学しました。若い青年たちが希望にあふれた顔で協力しあって働いているのを見るのはとても嬉しいことでしたし、本当にカリタスカンボジアがいい仕事をしているのを見せてもらいました。

S21(虐殺記念館)見学

 カリタスの事業の視察以外にプノンペンではあの悪名高いS21(虐殺記念館)を見学するチャンスがありました。
 ポルポト時代、有名な高等学校だったという校舎が収容所になり、知識層や、反対勢力の人々を捕らえてここに拘束したのです。拷問の部屋だった教室にはむきだしのパイプベッドの上に目を背けるほどの拷問の道具がおいてあります。側には足かせやトイレ代わりの缶、床には流された血の黒ずんだ跡があり、何かを必死に訴えているようでした。
 その他の教室は人一人がやっと入れるほどのいくつもの拘禁室に改造され、入り口にはセメントで固定された足かせがそのまま残されていました。拷問の辛さに3階から身を投げる人が出たので自殺防止のために網がはられたということで、それもそのまま残っていました。壁には幼児から老人まで数え切れない程の犠牲者の写真が拘束番号つきで張ってありました。またその人々の身につけていた洋服や靴なども並べてありました。そして恐ろしい水攻めの拷問や頭に釘を打ち込む拷問器具なども展示してありました。
 ここまで人間が残酷になれるのかと随所で体が凍りつく感じでした。
 確かにカンボジアの人々はあの悪夢を思い出したくもないという気持ちなのでしょう。そこで見るものは、つらい過去を思い出させるのです。それで記念館を訪れる人は外国人がほとんどでした。その中で一人の女性が庭で号泣しているのに出会いました。きっと肉親か友人がここに捕らえられて殺されたのでしょう、勇気をだして訪れたもののその残虐さに身体が耐えられなくなったのだと思います。周りの人々に抱きかかえられ嗚咽するその姿が脳裏に焼き付いています。

キーリングフィールド訪問

 さらにここに収容された人々を最後に殺すために連れ出した野原、今はキーリングフィールドと呼ばれる虐殺現場も訪れました。
 広場の真ん中に高いガラス張りの塔がたっています。そこに近づいて一瞬息をのみました。それは、骸骨が所狭しを並べてこちらを見つめているからでした。
 ここの野原で1万人弱の遺体が発掘されました。塔の周りは大きな穴がそのままになっています。その穴ごとにここで何名の遺体発掘と板に書かれています。死を前に穴を掘らされ、その際にひざまずき、後ろから撃たれて穴に落ちていったということです。ある太い木の幹には、この幹に沢山の赤子が頭を打ち付けられ死んだ、とかかれ、側に小さな骨がむき出しで祀ってありました。かつて日本軍がしたことと同じだと何とも言えない気持ちになりました。
 そしてまたここまでできる人間の残酷性におそろしくなるばかりでした。
 のどかな農村、穏やかな人々、貧しい生活、HIV感染、そして内戦、力の介入、政治抗争等々、このように色々な模様がパズルのように組み込まれていたカンボジア。人々はこのような社会の中、自分の力が及ばないところで理不尽に翻弄されているのではないか、とふっと感じた旅でした。

(註) 本稿は雑誌「家庭の友」2004年1月号(既刊)(サンパウロ刊)の掲載記事に加筆しました。


back to top  「家庭の友」04.01 カンボジア 〜 内戦の痕跡と人々の心 〜

「私はHIVに感染しました。夫からうつされたのです。その夫はニヶ月前に死にました。私の余命もいくばくもありません。今は遺される小さな子どもたちのことが気がかりです。」
 村人たちは皆、息をのんで彼女を凝視し耳をそばだてト聴き入っていました。子どもたちでさえ。

 これはカンボジアの首都プノンペンから北へ車で約3時間余、コンポントムという地方都市を訪れた時のことです。カリタスジャパンが援助している保健プロジェクトを視察したのです。町はずれの農村地帯、稲穂が実る畑の中を車で2O分ほど走った先にめざすスラユウ村がありました。村の中心に高床式の寺院兼集会所があり、その前の空き地が村の広場です。

 電気もない所なので、当地のカリタススタッフは発電機とテレビを持ち込み、HIV感染についての啓発ビデオをみせていました。テレビの前に子どもたちが陣取っています。畑仕事を終えた大人たちも徐々に集まってきました。子どもたちから大人までテレビに見入ります。ある夫婦の物語で、軍人の夫からHIV感染した妻が死んでいくというストーリーのようでした。
 テレビが終わると今度はクイズが始まり、男女ペアーになって挑戦します。Tシャツの賞品付きですからいやが上にも盛り上がります。HIVは治るか、治療の薬があるか、潜伏期間はどれくらいか等々が問題でした。テーマの割には楽しそうに笑いながら挑戦していたのが印象的でした。
 そして最後に冒頭のお母さんのカミングアウトがあったのですB

 HIV/AIDS 啓発プロジェクトでは、この病気の正しい知識を伝えることが中心です。小さな村の中でこの女性がカミングアウトできるまで、カリタススタッフの苦労は並大抵ではなかったそうです。村では初めは怖い病気だとさけられり冷たい目で見られたりしました。そこで時間をかけてHIVについての正しい知識を伝え、側に座っても感染することはないと納得し彼女を受け入れるまでに至ったのです。実際、皆と一緒にテレビを見、周りの人とおしゃべりをしていました。村にはもう一人感染した人がいることが判っていますが、まだ集会に顔を出すまでにはSの準備ができていないようでした。
 最後になってこの平和な村にHIVが襲ったのは、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC) が来てからだということを聞きました。何とも言えない思いに胸がいっぱいになりました。

 翌日はストムサン川を舟で下っての診療訪問です。雨期にはの氾濫で道が通れなくなるので舟を使うのです。月に一回、医師、看護婦、薬剤師チームで遠隔の村の人々の診察をしているそうです。一時間半余でサムラオ村に着きました。貧しくて地域の健康センターには行かれない80家族が対象です。村の長老の家が開放されて、高床式の家にヘ30人位の人が静かに座って待っていました。
 スタッフが早速ゴザをひろげ、枕や薬を並べ診察が始まります。妊婦の診察は隅のカーテンの後ろでしますが、広間では皆の前での診察です。医者の前で横になり症状を伝え熱や血圧を測り薬を処方してもらいます。診察は一日いっぱいかかるので、スタッフは今夜はここで泊まるということでした。
 広間の壁には国連ボランティアとして選挙監視をしていた時に、このコンポントム州で銃撃され死亡した中田厚仁さんの写真入りカレンダーがあったのが印象的でした。

 ここで働くカリタスのスタッフは、恵ま黷ネい人々のため献身的に働いていて頼もしい限りでした。そしてこの旅で出会った人々も皆、穏やかで優しいでした。この人々があの壮絶な内乱を体験しているなどと想像できません。でもスタッフの一人はぽつっと言いました。今はすべてを忘れたいのです、と。

 コンポントムノ来る前に、プノンペンでポルポト時代の虐殺記念館(S21)に行きました。そこは内戦前は有名な学校だったということです。その校舎を利用して収容所とし、当時の知識人や反対勢力を捕らえ収容したのです。拷問の部屋だった教室にはむきだしのパイプベッドの上に目を背けるルどの拷問の道具がおいてあります。側には足かせやトイレ代わりの缶、床には流された血の黒ずんだ跡があり、何かを必死に訴えているようでした。
 その他の教室は人一人がやっと入れるほどのいくつもの拘禁室に改造され、入り口にはセメントで固定された足かせがそのまま残されていました。拷問の辛さに3階から身を投げる人が出たので自殺防止のために網がはられたということで、それもそのまま残っていました。壁には幼児から老人まで数え切れない程の犠牲者の写真が拘束番号つきで張ってありました。またその人々の身につけていた洋服や靴なども並べてありました。
 ここまで人間が残酷になれるのかと随所で体が凍りつく感じでした。

 確かにカンボジアの人々はあの悪夢を思い出したくもないという気持ちなのでしょう。そこで見るものは、つらい過去を思い出させるのです。それで記念館を訪れる人は外国人がほとんどでした。その中で一人の女性が庭で号泣しているのに出会いました。きっと肉親か友人がここに捕らえられて殺されたのでしょう、勇気をだして訪れたもののその残虐さに身体が耐えられなくなったのだと思います。周りの人々に抱きかかえられ嗚咽するその姿が脳裏に焼き付いています。

 このように色々な模様を映し出すカンボジア。のどかな農村、穏やかな人々、貧しい生活、HIV感染、そして内戦、力の介入、政治抗争等々がパズルのように組み込まれていました。人々はこのような社会の中、自分の力が及ばないところで理不尽に翻弄されているのではないか、とふっと感じた旅でした。


back to top   03.10「家庭の友」「本当にこの道でいいのでしょうか」
       〜軍事力が本当にお互いの平和をつくるのでしょうか〜

 出張先でのことです。偶然目にした新聞に息をのみました。背筋がゾクッとしました。大きなカラー写真が二つ、サダム・フセインの息子・ウダイ氏とクサイ氏の傷だらけの顔が目に飛び込んできたのです。それも第一面の上半分いっぱいに、これこそ大悪人の死に際だ、といった感じで掲載されていました。人の死に顔を見てどう感じるのか、どう反応するのかなどおかまいなしといったふうでした。文化の違いでしょうか、脳天をガーンと打たれたような気がします。そしてアラブ世界の人々がこれを見てどう感じるのだろうかと考えこんでしまいました。圧政の片腕だった人たちの死への歓喜でしょうか、もう独裁は終わったとの安堵でしょうか、それとも??? 私にはこんな遺体写真を公表した「力」への不信や反感がさらに憎しみを生み、尽きることのない血なまぐさい闘いへと泥沼化するのではないかとイヤな予感がよぎりました。

 折しも日本では、今の社会情勢を憂慮して、司教協議会の社会司教委員会が「本当にこの道でいいのでしょうか」と、日本の信徒に問いかけていました。
「9・11テロ事件」から世界は大きく変わりました。そして、日本もまた、平和憲法のもとに曲がりなりにも続けてきた方向を急速に転換し始めました。私たちは今、市民として、キリスト者として、教会として、重要な選択の岐路に立っています。本当にこの方向に突き進んで行っていいのでしょうか。この道は主イエスが命をかけて示してくださった『愛と平和へ至る道』なのでしょうか」と。
さらに「今、世界では、大国が武力によって平和を作り出そうとしています。そして日本もいつの間にかそれに加担しつつあります。しかし、軍事力が本当にお互いの平和をつくるのでしょうか。現在の日本の軍事化に対して、アジア諸国は警戒し、不信感を抱きつつあります。この不信感こそが争いの土壌となります。」と、今、日本も参加しようとしている武力による平和構築の方向に対して、国外とくにアジアの国々が不信感を抱いていることにもふれています。
この社会司教たちのメッセージでも引用されていますが、1981年に来日された教皇ヨハネ・パウロ2世の「平和アピール」に答えて、当時の社会司教委員会は「平和と現代の日本カトリック教会」という声明を発表しました。それには次のように書かれています。「第二バチカン公会議は『時のしるし』を通してみ旨を知り、それを勇気をもって行うことを求めています。『時のしるし』は日本のカトリック教会が平和のために力強く行動することを通して世界の平和、アジアの平和に積極的に貢献することを求めていると思います」。そして日本国憲法の前文と第九条に言及し、「日本カトリック教会は日本国民が名誉にかけて誓ったこの平和の理想を『時のしるし』としてとらえ、平和への貢献を神のみ旨としてとらえ、決断と勇気をもってこの使命を実行に移さなければならないと思います」と呼びかけました。
今回のメッセージではそれを思い起こし、今こそ「時のしるし」、つまり「償いと和解に至る道」と「真の平和をつくる道」としての「しるし」を確認するようにと再度呼びかけています。
「剣をさやに納めなさい。剣を取るものは皆、剣で滅びる」 (マタイ26:52)とのイエスの言葉を真剣に受けとめ、剣によってではない方法で諸国間の信頼を作り上げながら、平和を構築していくことが福音の促しであること、またイエスが十字架上で人類の罪の赦しと和解のために自らを犠牲として捧げられたことにならい、私たちも「戦争放棄」を貫き、世界の平和のために働くことこそが、日本が果たすべき償いであること、それによってアジアの信頼ひいては世界の信頼を勝ち取ることができ、これこそ真の償いと和解への道へ導くものであると諭しています。さらに「日本は憲法九条によって国を守ることを放棄したのではありません。戦力(軍隊)を持たないという方法で国を守り、武力行使をしないで国際紛争解決のために働くと誓ったのです。」と明言するのです。

いみじくも世界がファシズムに突入していった時代に活躍したジャーナリスト北村兼子の鋭い指摘を思い出します。残念なことに彼女は1931年、日本の女性として初めて飛行士の免許をとった直後、腹膜炎であっという間に他界してしまいましたが。
「平和を唱えるものがなかったら、どんな時代においても戦争は不可避である」、「世の中に何が惜しいといっても軍事費ほど惜しいものはない」、「それだけの金を平和事業に使ったら、国土は美化され人類は幸福になり、その半額でも教育に使ったら人知は躍進して有用な発明も出来るであろう」(注1)と言った彼女の言葉は、今もなお強く訴える力を持っています。

私たちは平和憲法を持っていながら、その中味を充分に味わっていないかもしれません。もう一度憲法を読み直し、誰もが望む平和な世界を、どんな手段でつくっていくかを確認したいものです。そのために日本国憲法の難しい条文に挑戦しなくても、内容を容易に理解できる「やさしいことばで日本国憲法」(注2)という恰好の本があります。絵本のような体裁のその本には、憲法条文の英語と日本語、さらにそのやさしい訳が並列され、それを読めば内容がすっと腑に落ちること請け合いです。
そして「備えあれば、憂いなし」といわれ、世の中が当然のことのように軍備を勧めていこうとする中、「力」で抑えつけるのではなく「非暴力」という手段を貫き、あくまでも対話と信頼構築を通して平和を築く努力をその「備え」とするよう願わずにはいられません。
 この平和憲法のもとにこの50数年間、戦闘で人を一人も殺さず、一人も殺されなかったという日本の現実を誇りにし、「力」が本当にお互いの平和をつくるのでしょうか、といつも問いかけていきたいものです。

注1:参照「北村兼子〜炎のジャーナリスト」東方出版
注2:「やさしいことばで日本国憲法」池田香代子訳・マガジンハウス
  ちなみに池田香代子さんは「世界がもし100人の村だったら」(マガジンハウス)の再話をされた方です。


back to top    97.02「福音宣教」荒野にて   [開発の陰で}

「すべての人間がふさわしく生活する場を持つ権利がある。それゆえどんな形の強制撤去も断罪される。」1996年のイスタンブールにおける第二回世界人間居住会議でこのような世界行動計画が打ち出され、同年6月14(日)にフィリピンもそれに調印しました。
 しかし、ラモス大統領はその翌日の15日、11月に開かれるAPECの準備としてメトロマニラにある16,000家族、約6万人のスラム街の家屋を撤去するよう市長たちに命令したのです。
 メトロマニラには約300万人の人がスラムに住んでいるといわれます。それはAPEC会場のすぐ側にもあり、会場参加者が通る驩道わきにもあります。フィリピン政府はホスト国として外国の経済指導者たちに自国の発展と投資のチャンス到来を印象づけたいので、スラムが目立ってはまずいのでしょう。大統領自身がもらした言葉がそれを如実に語っています。「スラム、ストリートチルドレン、ホームレスとニか物乞いんどは "めざわりだ”」と。
 6月26日には市当局はこの命令を実行に移し、350世帯の家を壊しました。食料、医療、テント、簡易トイレが提供されるとの約束でしたがそれは果たされていません。今その人々は飢えと病気で苦しんでいます。
 大人も含めて大勢の子qどもたちが下痢・風邪・チフス・コレラ・デング熱にかかり、二人の幼児が死亡しました。9月には、ナボタス地区の聖ロレンソ教会近くの地域で強制撤去が行われました。オロンガのスービック湾沿岸でも同じことが起こっています。
 たくさんの家族が家を失いました。行く先のあてもないままに強制撤去が強行されています。もちろん再居住地を提供された人々もいます。しかし、マニラから40キロも離れた所でした。政府は、仮設住宅を用意するまで2年の歳月が必要であると言っています。それは現在ある再居住地がすべて満員だからという理由です。
 @また、ラモス政権はAPECの準備ばかりでなく、起源2000年に向けて工業化政策に力を入れ、外国資本の自由参入を目指してなりふり構わず頑張っています。そのプロセスに米国と日本がしっかりと関与し、地元の商業、市場、資源を占拠してしまいような勢いです。そして人々の生カ活や環境を脅かすさまざまなプロジェクトの実施がもくろまれています。
 日本の援助でパンパンガではデルタ開発計画(PDDP)が始まりました。このために七千家族が家を奪われ、二万ヘクタールの農地と漁場がなくなります。そして少なくとも62の学校を54の教会が壊されるこアとになっています。
 サンパレスとパンガシナン地区の火力発電プラントも同様です。
 アンヘレス市のクラーク特別経済地区の中には、今も農民が細々と耕作をしている農地がありますが、そこに日本のタイヤ会社の建設が計画されています。そのために20の農家は撤去され、そサこに住んでいた人々は住むところを失うばかりでなく生活のすべてを全く奪い取られてしまいます。
 このように国の経済発展という大義名分で行われる強制撤去は今現実に起こっており、これからも起こり続けるでしょう。そしてその裏には「日本」の名が見え隠れしています。
 @経済発展の恩恵をこうむるにははるか遠く、住む場所も生活のかてさえも奪われてしまう人々が人間らしく生きることができるようになるためにわたしたちは何をしたらよいのでしょう。「まず来て、見てください」とプラカン、パンガシナン、ヌエバエシハ地方の司教たちが嘆願してトいます。
 現代の荒れ野からのこの叫びに、あなたも耳を傾けてみませんか。
石川治子(日本カトリック正義と平和協議会事務局)



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99.06「福音宣教」荒野にて  バングラデッシュ                   

 初めて訪ねる南アジアの国、バングラデシュ。新しい出会いへの期待と一抹の不安をもって飛行機から降り立ちました。熱気がむっとします。日ざしは強烈で目をさすようでした。
 飛行場から首都ダッカの中心街への道、車のクラクションがすごく、とりわけ自分が乗っている車のフクラクションの音が耳をつんざくようでした。道路のまん中を走るリキシャ(戦後日本にあった人力車のような乗り物)を追い散らすため、運転手がガムシャラに鳴らすのです。先進国のお客をのせているんだぞ!といわんばかりで「そこのけ、そこのけ」です。ですからクラクション唐ェ鳴るたびに胸がキュットしました。それでもリキシャはかまわず(それがせめてもの『救い』でしたが)自動車の間をうまくぬって走ります。赤信号で後ろを見ると、いつの間にかリキシャが何台も何台も追い付いてきていました。骨と皮だけのような痩せこけた人が客を2、3人はヘ乗せていました。信号を待つその白目がギョロッとひと際目立ちました。
 今回の旅はカリタス・ジャパンから派遣されて、カリタス・バングラデシュのプロジェクトを視察することでした。
 あちらのカリタス事務局に到着するや、スタッフから当地のカリタスの組織、運営、活動ョについての説明を受けました。そして翌日からは訪問スケジュール満載で、田舎や都市スラムの教育施設、病院等々をいくつも案内されました。その中の親のない少女たちのための施設が、なぜか出てきたスタッフが男性だけだったのがひどく気になりました。
 昨年の大洪水の後の復興プロジェクトも見て回りました。木の幹に着いた痕跡で水位が判り、その洪水のすざましさを想像することができます。しかし皮肉なことに今年は雨がなく、旱魃に苦しんでいるということです。確かに広い田畑の中に掘られている用水池には水がほとんどありません。濁った泥水で洗濯している人々の姿が痛々しく映りました。
 洪水の時に救援活動がなかなかはかどらず、被災者が多くなった理由のひとつとして、女性意識の問題があったと聞いていました。厳格なイスラム教徒は、昼間女性が一人で外出することを許さないので、水没した村落にボートで救援に行っても、一人で家にいた女性は夫の許可なく外に出られないと言い張ったそうです。それで救援の手間が二倍、三倍もかかり、被害が倍増したという話でした。
 そんなこと!と半信半疑だったので、このチャンスにカリタスのスタッフに確かめてみました。即座に、原理主義の人々の間ではそのようなことは多いにあり得る、との応えが返ってきたので、今さらながら愕然としました。さらにこんな話もしてくれました。
 ある朝、一人の女性が自分の畑に行くと昨日まであった桑の木が全部根こそぎ切り倒されたいたというのです。市民運動グループの指導でナ100本の苗を植え、丹精に世話をし、やっと葉も茂り、それを養蚕業者に売って生計がたてられるようになった矢先のことでした。しかし女性がその様なことをするなど、原理主義者にとっては絶対に許せないことです。夜の間に他人の畑にやって来て、怒りまくって100本全部切り取ってしまったということです。信じられないようなことが当たり前のように起こっているのでした。
 ですから女性の意識向上のために働いている市民運動グループはこのような原理主義者の標的になり、攻撃を受け、危険にさらされることがしばしばある、とも聞きました。
 カリタス・ジャパンもバングラデシュの女性の地位向上プロジェクト、識字教育、自立プログラム等の援助申請をよく受けます。今回の旅でこの申請の背景が少し理解できるようになったと思います。このような実情をかいま見て、何かしたいと心に燃えあがってくるものを感ぜずにはいられませんでした。


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98.12 聖書と典礼 クリスマス「喜び」

 キリストの誕生は「喜び」だ、「祝い」だ、「救い」だ、という。でもクリスマスのミサにでて嬉しくって小躍りしたことがあっただろうか、「ああ救い主が来てくれた!」「救われた!」って心から有難く思ったことがあっただろうか。     .......<自戒をこめて>........
**************
 最近エクアド−ルのリオバンバという町で国際連帯会議があった。並行して中南米の司教/神学者会議も開かれていた。会議の最後に町の体育館で合同ミサが捧げられた。6千人収容のスタンドは人また人でうめ尽くされていた。階段も座席も見分けがつかず、隙間のある所をかまわず上り、どうにか座れる所を確保した。反対側のスタンドを見ても超満員で、先住民の人が多く民族衣装が色鮮やかだった。そして子どもたちが器用に人垣をかき分けて典礼文や本を売って歩いていた。
 ミサは歌、踊りが満載だった。司教の挨拶や説教には拍手をしハンカチを振るし、説教の途中でも合いの手が入り「司教は貧しい者の側にいてほしい!」等々大きな声のうねりとなった。またここぞという時には横断幕を一斉にあげたり風船をあげたりで、しっかりと「お祭り」になっていた。クライマックスは司教会議声明文「リオバンバからの叫び」が発表された時だった。声明文は現在の自由市場の経済システムによって排斥されていく人々の叫びを代弁していた。中々なりやまない拍手をきいて、今、実際に苦しんでいる人々の心の叫びが痛いほど伝わってきた。「判ってもらえた」「希望が見える」「頑張っていこう」と、経済社会から置き去りにされた人々のこんな想いが天に上っていくようだった。
 ミサは3時間以上かかったが、時計を見ることもなかった。希望に溢れた。嬉しくなって隣の人と友だちになった。そして皆元気になって帰っていった。
**************
 今年こそ「喜び」のクリスマスでありますように。


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98.03「福音宣教」荒野にて   [過去と真摯に向き合って]                                    

 先日、南アフリカの話を聞く機会があった。アパルトヘイトで苦しんだ人々がその過去とどのように向き合っているか、という話だった。95年7月に制定された「国民の和解と統一を推進する法」によって「真実和解委員会」が設立された。それはアパルトヘイト体制下で行われた政ュ治的抑圧や人権心外の真相を明らかにし、被害者の復権をめざすと共に、民族j和解たっせいするために設置された委員会。時代の「重大な人権侵害」について(1)事実を明らかにすること、(2)事実をすべて明らかにした「加害者」にアムネスティ(免責)を認めること、(3)「被害者に」補償を行うことを目的としている。その特徴は「真実の追求」と「アムネスティ」の二つである。真実に過去を語ることを重視する。被害者は申し立てをし、実名で公開ヒヤリングが行われ、調査が綿密に行われる。被害者と加害者が直面する。そこでは今まで全く無視され、排除されていた人がミスター◯◯と呼ばれる。これだけでも名誉回復となり、被害者/遺族側に許そうという気がおこってくることもあるという。加害者として訴えられた人は「真実を語る」ことを要求される。真実を語っていると認定された者にだけその過去の過ちが免責される。B「真実和解委員会」は裁く機関ではない。真実を語っていると認められなければ委員会の裁定で通常の裁判へまわされる。因みにボーク元大統領は委員会の呼び出しを拒否している。再度拒否すると真実解明に協力しなかったということで投獄されるという。この委員会の設置は国会でナ決めたことなので、これに遵わなければ法的制裁が科せられるのである。
 この委員会の委員長はあの有名なツツ大司教である。さらに調査、聞き取りの段階で、農村にいって、読み書きのできない人々に対して、この制度のキャンペーンをし、地道に聞き取り調査ができるのはイスラム、ユダヤ、キリストの諸教会であり、それらが重要な役割をはたしているという。
****************************
 この話を聞きながら、中米グアテマラを思い起こした。二年前に訪れた時、どこの教会も活き活きしていたことを。
 グアテマラでは70年代から80年代に15万人lもの人が虐殺された。そのほとんどがせん住民の人々である。犠牲者の90%が政府軍によって10%がゲリラによって殺害されたという。

グアテマラのカトリック教会では「歴史の記憶回復プログラム」という人権侵害の証言をまとめる運動を全教会レベルで行っている。親、兄弟、友人が虐殺されたのを目撃しながらもその記憶を心の奥底に秘めていた人々が、ぽつりぽつりと語り始め、25、000人もの自発的告発者がでてきたという。当初、教会が意図したことは犠牲者が語ることによって心をいやすことにあった。しかし蓋をあけてみると被害者ばかりでなく、自らが虐殺にかかわりその行いの重みに耐えかねていた加害者も、真実を語るために教会を訪れて来たという。聞き取りは一応ひと段落つき、今春その報告書がでる予定である。 
どちらも真実に向き合うことにより、いやしがうまれることを証している。

真実と真正面から迪き合いながらも、 「復讐」から「共存」へという戦争責任論の展開に、教会が新たな方向付けを見い出した一例ということができるのではないだろうか。


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97.11「福音宣教」荒野にて 顔の見えない開発                         

 久しぶりに訪れたフィリピン。きれいになっていた。マニラは高層ビルが軒並みそびえている。タクシーはドアもちゃんと閉まるし、床から道路がみえることもない。商業街マカティには至る所にスーパーやファーストフードの店があり、週日なのに人が沢山たむろしている。道路もなにかすっきりした。スラム街があまり見えなくなったような感じがする。飛行場からの道は大渋滞のはずだが意外とすいすい走る。環状線ができて便利になったのだ。
「ここで焼き討ちがあってね、それでこの道が開通したの」と道中言われた言葉がガーンとニ響いた。
* * * * *
 マニラ北に位置するパンパンガ。そこでは日本政府の開発援助(ODA)によるパンパンガ・デルタ開発計画の第一期工事が進められている。それは洪水防止と農地への潅漑を目的にした大規模な河川拡幅工事である。マニラ湾河口から22.7キロメートルの長さにわたってパンパンガ川が750メートル幅になる。そのため約7800世帯、約4万7000人の流域住民が立ち退きを迫られている。すでに壊された家屋もある。72の学校、64の教会も破壊される。そして2万ヘクタールの農地が失われる。そこにあるマングローブ、ファイアーツリー等の樹木の損失もはかりしれない。
 第1期工事だけで100億9千万ペソの直接損害があると試算されている。それに対して、この計画によって獲得される予想利益総額は190億ペソ、それも43年の長きにわたってもたらされる利益である。
 そしてこの開発計画が完成したあかつきには、洪水対策の利を受けるはずの住民の多くは強制撤去ですでにいない。潅漑の受益を享受するはずの農民も農地を奪われてしまっている。
 確かに70年代には大きな洪水が何度かあった。しかし82年に造られたラバンガン水路によってその後は以前Oのような大きな洪水はおきていない。
 真の洪水対策ならば、洪水を引き起こす原因を究明した方がよい。まず森林伐採。無秩序な森林伐採によって山は丸裸にされた。保水力はなくなり大雨の際に土砂が流れだし川底が浅くなった。次にマニラ湾河口近くに違法に造られた養魚場。輸出用の魚を育てるためにいくつもの養魚場が建設されている。川の中にはみだすように造られた養魚場によって川幅が狭くなり流れが止められた。
 そのためには、丸裸の山に植林すること、川底の泥を取り去り流水量を増やすこと、既存のサン・アントニオとカンダバ遊水池を浚渫・再整備し水量調整すること、堤防の石積補強をすること、さらに違法養魚場を撤去することが先決である。開発計画よりもずっと安上がりだし、住民も祖先から引き継いだ土地で今までの生活を続けることができる。
 それなのに開発計画は一人歩きする。それはルソン北部の工業化をめざす人々にとっては、はかりしれない利益をもたらすからである。
 また養魚場も手がつけられない。養魚場を経営しているのは金持ちの特権階級だからである。
* * * * *
 「『開発』とは単に経済的I発展をめざすものではない。人間と自然を大切にする福音の教えに基づいて、人々の文化・習慣を尊重しながら、生活を向上させていくことだ。そこに住む人々の「生きざま」を無視した開発は真の開発ではありえない。」
 この開発計画によって生活の基盤と手段を奪われ、隅においやられている多くの人々を教区内で目の当たりにしているティローナ司教のこの言葉はずっしりと響く。


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97.05 「福音宣教」荒野にて −現場に身を置く司教たち−           
◆「あれ!この写真あのガンバ−トン司教では?」 アメリカから送られてきた冊子をパラパラとめくっているうちに一枚の写真に目が釘づけにされました。それは警官から後ろ手に手錠をかけられている骼i教の写真でした。
 1989年グアテマラでアメリカ人のシスタ−・オルティスが軍部によって拉致、拷問されレイプされました。この事件の背後にはCIAがからんでいると知って、昨年4月に彼女はその解明と情報公開を訴えるためにホワイトハウス前でハンストをしました。シスXターを支援する人々も請願デモをしてそこで逮捕者がでたのです。その一人が数週間前パナマで開かれた「ラテンアメリカの民衆と連帯する国際キリスト者会議」で言葉を交わした司教だったのです。
◆エクアドルの司教ドン・ビクト−ルはこの会議の前日になって出席をキャンセルしました。それは教区の先住民たちが政府の農業政策に反対して町の広場を占拠、カテドラルは広場に面しているので司教はその人々のために聖堂を開放したからです。このような事態で司教は人々と共にいることを望んだのです。あくまで先住民を守るためでした。「あなた方こそ新生エクアドルに不可欠な力です。町の中であなた方をみかけるのは嬉しいことですし希望も湧いて来ます。どうか聖堂を占拠してください。神の存在のシンボルである聖堂はあなた方のものです。あなた方の中に神がおられるのですから。」とミサの説教で司教は彼等を力強く励ましています。
◆この会議の会長であるドン・サムエルはメキシコのチアパス州の司教です。35年以上前に司教に任命された彼はすぐに先住民の言語を習い先住民文化を大切にしてきました。言葉が通じる司教として先住民から絶大な信頼を受け「タティック(私たちのお父さん)サム」と呼ばれています。
 1994年1月1日メキシコで先住民蜂起がありました。これは政府転覆をはかる革命ではなく、先住民の土地、住居、食料、医療、教育、正義、自治等の基本的人権を認めさせることを意図していたので、数日で武力蜂起は終わりすぐに話し合いに入りました。先住民と政府の間にたってその仲介をしてきたのがこの司教です。司教は徹底して貧しい先住民を守る姿勢を貫いているので、富裕階級にとっては邪魔なけむたい存在です。この蜂起を挑発したのは司教だと中傷されもしました。司教館の外壁には金持ちに雇われた民兵が司教を罵倒して騒いだ時に投げ付けた卵や果物の跡がシンボリックに残っています。
◆このサムエル司教がいわゆる「社会派」なので牽制の意味もあってか1995年秋に補佐司教が任命されました。司教更迭の噂のなか肩に力のはいった「保守派」の補佐司教ドン・ラウルが赴任してきました。司教の方は広い心で彼を受け止め、すべてオープンにして自由に現実を見るように計らいました。ところが現状をつぶさに見、先住民の悲惨な状況を知った新司教はあっと言う間に回心してしまったのです。特に軍部の手先によって自分の車が焼き討ちにあってからというもの彼の態度は決定的になりました。「私でも言わないような事を彼は軍部に向かってはっきりと言う」とは後継司教の姿勢に安堵したサムエル司教の言葉です。

 この会議には世界16ケ国から約50人が参加しました。司教ばかりでなく信徒も修道者も司祭も現場に身を置き、現場からチャレンジを受けて深い信仰を真摯に生きている人々でした。それぞれの現場での悲惨な人権侵害を語りながらもゆるぎない希望をもって祈る姿に底力を感じ圧倒された思いでした。back to top


back to top      03.07 「家庭の友」「あなたは本当に貧しい人々を救いたいと思いますか?」

 独裁者フセインを倒し、民主的な国を建設するという大義名分のためになされたイラクに対する爆撃を私たちはテレビを通して目の当たりにし、今もその被害を受けた市民、特に子どもたちの姿を思い出しては心を痛めています。しかしこれとは比較にならないほど、あの3週間にわたった容赦のない攻撃は、イラクの人々の心と脳裏にしっかりと記憶され、決して忘れ去ることができない出来事となったに違いありません。
 今回の戦闘は9.11後のテロリズムへの闘いに端を発しているといわれます。しかし様々なテロの原因のひとつに世界の中での富の不均衡があることも忘れてはならない事実でしょう。そして私たちはといえば、確かに富を余計にもっている側にいるのです。
 
「あなたの戸棚のパンは、空腹の人のものなのです。あなたのクローゼットの中に未使用のままに掛かっているコートは、それを必要としている人のものなのです。(中略)あなたが銀行に預けている金銭は、貧困者のものなのです。あなたは、助けることができたはずなのに助けられなかったすべての人を、不当に処遇していることになるのです」。四世紀に生きた聖バジルのこのことばを引用しながら、世界の富の不均衡、そして世界の貧しい国々にとって重荷となっている国際債務について、解き明かしていく冊子があります。「誰にでもすぐ分かる債務問題〜あなたは本当に貧しい人々を救いたいと思いますか?〜」という三〇ページ程の小冊子のことです。
 そこでは私たちが知らない遠い国で苦しんでいる貧しい人々、特に子どもたちの驚くべき実態が次々と示されていきます。たとえば、
l アフリカのウガンダでは、五人に一人の子どもが五歳にならないうちに死んでいる。
l タンザニアでは、人口三〇〇〇万の内、一四〇〇万人が安全な飲み水を得ることができない。
l ガーナでは子どもの半分以上が栄養失調である。
l ザンビアでは、人口の二〇%がHIV/エイズの罹患者で、一人当たりの医療予算が先進七カ国の国々では、一人当たり二三〇〇ドルなのに、ザンビアではたったの一七ドル、しかも平均寿命は三三歳である。
l シカゴに住むシエラレオネ生まれの医者の数の方が、シエラレオネ全体にいる医者の数より多い。
l 一九九〇年と比較してこの一〇年間で八〇カ国の国々が貧しくなっている。
l 一八五〇年には豊かな国と貧しい国の比例は二対一であったのに、一九五〇年には一〇対一、一九六〇年には一五対一、二〇〇〇年には三〇対一となり、貧しい国々はもっと貧しくなり、豊かな国々はもっと豊かになっている。 等々。
さらにこの冊子は、どうして、そのようなことが起こってしまったかにもふれていきます。その原因には次のようなことがあったと、述べています。
l 一九六〇年代、オイルショックでだぶついたドルを、経済発展をめざす貧しい国々にむやみやたらに貸し付けたこと。
l 一九七〇年代、貧しい国々が輸出している一次生産品の値崩れがしたこと。
l さらに貧しい国々がその借金を返済するためにさらに借金をして、国として借金地獄に陥っていったこと、
l その借金のために世界銀行や国際通貨基金が厳しい条件をつきで救済融資を行うに当たって、歳出に厳しい条件をつけたこと。
 そのため債務国政府は国内の様々な補助金を削り、債務返済に回さなければならなくなりました。その結果食料品、薬等の値段が高騰し、貧しい人々は買えず、栄養失調で病気になってしまったのです。補助金の削減ばかりではありません。国民の生活向上のために必要な教育や保健・医療などの予算も削られ、貧しい人々、特に弱い立場の女性や子どもたちが死に至るなどの犠牲になったのです。
政府が支出を抑えて債務返済に回した結果、南米のボリビアでは、教育予算は一〇年間に四〇%も削減されました。アフリカのコンゴ民主共和国では四六〇〇〇人もの教師が解雇されました。また入院する時、自分できれいな水を病院まで持参しなければならない国もあるそうです。上述のシエラレオネの医者も、国内では給料をもらえないので、海外に流出してしまったというわけです。
 借りたものは返すのが当然、といわれますが、国際債務の場合はことが複雑でそれがそのまま適用されるかは疑問です。債務がドル建て、つまりドルで借りてドルで返す形のため、ドルの価値の変動によって債務額が変化してくるからです。
 タンザニアの通貨は一六年間で七〇分の一まで切り下げられたので、それだけで債務が七〇倍に膨れあがりました。ナイジェリアでは、一九七八年に五〇億ドルを借り、すでに一六〇億ドル返済しましたが、まだ三一〇億ドル債務が残っているという不思議なことになっています。さらに通貨の切り下げは、その国のわずかな収入源であった輸出品の値段にも影響するので、さらに債務返済が難しくなっていくという実情です。

 去る3月にイラク攻撃の中止を求めて、社会司教委員会の委員長である岡田武夫大司教が発表された祈りの中に、次のような赦しを願う祈りがありました。
 「主よ、私たちが世界の貧しさから目を背けてきた罪を赦してください。世界の富が不公平に分配されていることに口を閉ざしてきたことを赦してください。」
 この祈りこそ私たちが日頃意識して、赦しを請わなければならない事柄ではないでしょうか。
 どんなに不況であるといっても、第三世界の人々の暮らしぶりとは格段の差のある豊かな生活を送っている私たちが、世界の貧困問題をしっかりと見すえ、その人々の人間としての尊厳を取り戻すことができるよう、私たちが置かれた場で、それぞれができることをしていきたいものです。

「『誰にでもすぐ分かる債務問題』
〜あなたは本当に貧しい人々を救いたいと思いますか?〜」
一冊300円
問い合わせ先:途上国の債務と貧困ネットワーク 電話03-5209-3455


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03.04「家庭の友」私は走るべき道のりを走った
     ーある女性の生き方ー

 「今日はつらいお知らせをしなければならなくなりました。」このような書き出しで、2002年10月14日、松井やよりさんは仲間たちにメールを送った。
 10月初めに松井さんは訪問先のアフガンニスタンのカブールで、体調の異変を感じ急遽帰国して検査、その結果、癌が回復不可能なまでに進行していることが分かったのである。この夏はいくつもの国際会議に参加し、モンゴルの草原を馬で駆けめぐり、カブールに入る直前にはホテルのプールで泳ぐほど元気だったという。「全く自覚症状がなかったのですが、"沈黙の臓器"といわれる肝臓を死に至る病がむしばんでいたのです。せめてあと10年ぐらいは生きたかったのに、闘い半ばで倒れなければならないとは、あまりにも突然の、まるで天災のような悲運ですが、これも、68年間の人生を激しく生きた私に早めの休息を与えて下さろうという神様の摂理かも知れないと、何とか平静にこの残酷な運命を受け止めています。」との衝撃的知らせだった。 
 松井さんは33年間、朝日新聞記者を勤め、社会部記者として福祉、公害、消費者問題、女性問題などを取材。退職後にも精力的にアジアや女性の視点で活動を展開し、女性のオピニオンリーダーとして、様々な活動を展開してきた人である。
 まだ海外留学がまれな頃にアメリカとフランスに留学し、アジア蔑視をいやと言うほど味わい、帰国途上に立ち寄ったアジアの国々では悲惨な貧困を目の当たりにし、欧米との経済格差に愕然とした。新聞記者となってからは社内での女性差別を身をもって体験している。そして当時盛んであったキーセン観光に対して「日本人男性はセックスツアーをしに来ないでほしい」という韓国側の願いに敏感かつ勇敢に対応していった。
 女性特派員としてシンガポールに派遣された時には女性の視点でアジアのことを書きまくった。しかし欧米にしか目が向いていなかった日本では、アジアの国々の記事など関心がない現実があったので、次々とボツにされてしまった。
 このような体験から貧困問題にしても女性問題にしても、国を超えた活動が大切と考えるようになり、NGO、民間レベルでの国際協力の重要性に注目していった。
 1995年にはアジア初の世界女性会議が北京で開催された。そこで女性の人権が大きく取り上げられ、世界の女性が連帯して世界を変えていこうとの意気込みが燃え上がった。ここでも松井さんは世界中の女性たちとネットを作り、精ヘ的に活動していった。
 特に「従軍慰安婦」にさせられた女性たちに対する想いは、2000年12月に「女性国際戦犯法廷」開催を提唱し、加害側の国である日本で多くの女性を巻き込んで実現するまでに至った。この法廷では8ヵ国から来た「慰安婦」制度の被害女性64人が証人となり、審査1年を経て翌年12月、オランダ・ハーグでその最終判決が下された。世界的に著名な法律専門家たちがこの法廷の裁判官となり、被害者の証言や各国検事団が集めた証拠に基づいて、昭和天皇と9人の軍部・政府指導者を人道に対する罪で有罪と認定した。また日本政府には国際法違反により賠償する国家責任があると判断し、日本政府、旧連合国、国連・各国政府に対して被害女性に正義をもたらすための具体的な措置も勧告した。日本のメディアはこれを完全に無視したェ、海外では非常に高い評価をうけた。この実現のために幾多の困難を乗り越えてきた松井さんにとって「すばらしいハーグ判決を得ることができたことが何よりの慰め」になった。
 死と対峙して松井さんは言った。「今何よりも誇りに思えるのは、踏みつけにされている"いと小さき者"の側に立って、権力に抵抗する姿勢を貫くことができたことです。差別や搾取や不正と闘う熱い想いを表したかったからです。つねに激しい怒りにつき動かされて行動した人生でした。それゆえに、いかなる公的な社会的地位とも無縁だったことをむしろ名誉に思います。」 真にこう確言することができた生き方だった。
 さらに共に闘ってきた仲間たちには壮大な夢を委ねた。「戦争と暴力の20世紀を生きて、平和と非暴力の21世紀を切に願っていたのに、今世界各地の紛争で人々が苦しみ、反テロ世界戦争が拡大する時代になったことを深く憂慮しています。それに対して闘うことができなくなったことは、本当に心残りですが、私が果たせなかった課題、『女たちの戦争資料館』のようなものを作りたいという夢の実現を皆様に託したいと思います。」

 12月末、松井さんは仲間たちの必死の願いもむなしく神のみもとに旅立った。しかし仲間たちは松井さんの心からの願いを真摯に受け止め、戦時性暴力に焦点を当てた資料館「女たちの戦争と平和資料館」を実現するための募金活動を早速、開始した。これは(1)ジェンダー正義の視点に立ち、戦時性暴力に焦点をあてる、(2)被害だけでなく加害責任を明確にする、(3)過去・現在の資料の保存、公開、さらに未来へむけての活動の拠点にする、(4)国家権力とは無縁の民衆運動として建設・運営する、(5)海外へも発信し、国境を越えた連隊活動を推進する、 という5つの理念の下に、 「慰安婦」問題に関わる内外の文書・書籍資料や写真、映像などを収集・保存・展示する。 さらに反戦、紛争解決のための支援・連隊活動や調査活動の拠点にする。武力紛争下の女性への暴力の被害の証言や資料、また、米軍基地下の暴力の資料、世界中の戦時性暴力の被害調査と資料・映像収集なども行う。 松井さんの膨大な文書資料や著作などを集めた「松井やより文庫」も設置する予定である。

石川治子(聖心侍女修道会)
募金振込み先:<郵便振込>口座名: 女たちの戦争と平和人権基金係 口座番号: 00110-2-579814                        


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03.01 「家庭の友」 マヤの人々の心にふれて
  ー グアテマラの先住民女性のためのプロジェクトから ー 
  

 「そんなこと、男の人がやるもの、わたしたち女にはできないわ」、「でも私はやってみたい」、「自分たちの習慣を変える必要はないでしょ」、「男は自由にどこにでも行けるBでも女は家の中にいるものと決まっているわ」、「でも男性だけに権利があるのって変じゃない?」、「また騙されるんじゃないかしら」、「失敗してもいいから、やってみましょうよ」、、、、、
 これはグアテマラで、先住民女性のためのプロジェクトを実施するかどうかをグループで話し合い、決めた時の光景です。カリタスジャパンはこの数年間、中米のグアテマラのいくつかのプロジェクトを支援してきたので、その視察に行った私たちに、先住民女性たちがプロジェクトの始まりをこうして寸劇にして見せてくれたのです。
 グアテマラは中米の小さな国です。人口は約1000万人、約6割がマヤ系先住民で、識字率はラテンアメリカで最低といわれています。極端な貧富の差があり、経済、政治の実権はごく少数のスペイン系白人等が独占し、先住民の大多数は周縁化され極貧生活を強いられてきました。
 さらに1996年の和平協定が結ばれるまで内戦が36年間も続きました。特に80年代前半はすざましい虐殺の嵐が吹き、死者行方不明者が約20万人、また難民は100万人以上にのぼり、その犠牲者の大部分が先住民でした。それは反政府グループがゲリラ化して先住民がいる山岳地帯にたてアもったため、政府軍が魚(ゲリラ)を干上がらせるために水(先住民)を抜くという先住民撲滅作戦を展開したからです。そして先住民は虫けらのように扱われ、徹底的に打ちのめされたのでした。かろうじて生き残った先住民女性も多くは夫を失い、その日の食糧にも事欠く極貧の状ヤにおかれてしまいました。
 さらにラテン世界はマチョの世界、つまり徹底した男尊女卑の社会なので、男性がすべての実権を握っています。女性に関することでさえ男性が決めるのが当たり前です。子どもをおぶった女性が大きな荷物を両手に持って道を歩いているその前を、夫が手ぶらで闊歩しているのをみかけ、憤慨したものです。ですから女性が夫を失うことは想像以上に深刻なことなのです。
 このような状況を前にして、虐殺の最もひどかったキチェ教区では、数年前から最優先課題として先住民、特にその女性のためのプロジェクトに取り組んできました。女性が手に職をつけ生きるすべを獲得し、人間らしく生きられるようにと始められたのです。来日したことのある聖家族修道会のシスター・マルカがこのプロジェクト推進者になりました。自分も先住民なので貧しい生活を体で知っているシスターは遠い村々を歩いて訪ね、プロジェクトの説明をします。家畜を飼育し子どもを産ませそれを売る、鶏を飼って卵を売る、ハンモック編みを習って市場で売る等で収入を得て生活の改善をする企画を事細かに提示します。そして女性たちにそれを始めるか否かの判断をゆだねるのです。今までなんでも男性に頼っていたので、女性たちが物事を決めるのは初めてのことですが、どんなプロジェクトを始めたいのかをとことん話し合います。もしグループの中に男性がいたらシスターから即NGがでます。一人でも男性がいると女性は遠慮してしまい、決定に加わらないからです。みな始めは後込みしますェ、女性の会長、副会長、書記、会計等の係が選ばれていきます。このような役割を受けて、人前で決して口を開いたこともないような女性が段々と声を出すようになっていきます。そして申請書の書き方、お金の分配、預金の方法等を覚えていき、自信がついていくのです。まさに内に秘められた能力をひきだすエンパワーメントとなります。
 今回の視察では、個々のプロジェクトを訪れることができなかったので8つの共同体から女性たちが集まってきてくれました。会場は山の教会堂の前で、粉袋を継ぎ合わせた日よけを作り、レモンやミカンをつって飾りにしてありました。私たちが到着したときにはすでに部族毎の衣装で着飾った女性たち約150人が静かに草の上に座って待っていました。朝早く村をでて山道を3時間余も歩いてきたというグループもありました。集会はマヤ式の祈りから始まり、それぞれのグループが取り組んだプロジェクトの発表をし、その作品を披露してくれました。自分たちが作ったパン、お菓子、野菜、ブラウス、ハンモック等々であっという間に大きな籠がいっぱいになりました。ある共同体は、2500ケッツァル(約4万円)の援助金を受けてミシン、布、糸を購入し、ブラウス縫製に取り組みました。今では作製したブラウスで小さな商いができるまでなったということです。多くの女性がこのプロジェクトによって子どもに食べ物を与えられるようになったと感謝していました。
 シスター・マルカは、プロジェクトは皆の生活を改善することが目標なので、共同体毎で競うのではなく、だれひとり取り残される人がないよう協力し合うこと、受けるばかりでなくコミットすることが大切だということを繰り返し伝えてきました。それであるグループでは自分たちが得たわずかな収入から、少しずつ貯金をし始めたというのです。今度は自分たちが他の人を支援する夢をもっているとのことでした。
 貧困を脱したとはお世辞にも言えない中で、利益を独り占めせず他の人々と分かち合うのが当然、というマヤの人々の豊かな文化にふれて、脱帽ケずにはいられませんでした。こうしてこの人たちは今まで長い間踏みにじられてきた人間の尊厳をとりもどし、人間らしさを輝かせているのだと思いました。


back to top     01.01 カリタスジャパン現地視察報告 スリランカ

SRI LANKA視察(1/2~1/6) Colombo, Kandy, Batticoloa

1月2日、バンコック経由でスリランカのコロンボ空港におりたつ。常夏の島とはいえ、1月は一番凌ぎやすい季節である。心地よい微風が吹く。市内に行く道中、警察のチェックポイントがやたら多いのにまず驚く。さらにそこを通るときはスピードを落とし、車内灯を点灯して、中の人が見られるようにする。しゃがんでいけばわからないはずなのに、ヘンなの! というのが正直な気持ちだった。まっ、余計なことをしてトラブってもいけないので、ことのほかスマイル、あやしい者ではありませんよ、とアピールした。
 空港はかなり市内からはずれているようで、こ一時間も乗ってやっとカリタス(スリランカではSEDECと呼んでいる)の事務所についた。そして日本以外のカリタスでは当り前のような付属宿舎に案内される。真夜中になってやっとシャワーにかかれる。あ〜あ、やっぱり水だった。

1月3日(水)
 キャンデイめざして9時に出発ということで、ホールにおりる。丁度始業の時間だったので朝の祈りに加わった。何人かのスタッフと挨拶。ここには47人のフルタイムスタッフがいて女性の姿がめだった。
 道中はマングースが道を横切ったり、サギの群れが畑に舞い降りたり、沿道でパイナップルをはじめ沢山の果物を売る店があったり、南国の雰囲気である。しかし全体としては道路にはそれほどゴミが散乱していることもなく、歩いている人々も小奇麗だし、緑が豊かだし、国として資源があるという感じで、東洋の真珠といわれるのも納得。もちろん、表面がきれいなだけスラムが隠されているのかもしれないが、こればかりは数日の訪問ではうかがい知れない。
 キャンデイはコロンボから約4時間の道のりで、紅茶で有名な山あいの都市である。ここカリタスの担当司教、アジア・カリタスの会長、FABC(アジア司教協議会)のOHD(人間開発局)局長であるヴィアンニー・フェルナンド司教の司教館がある。そこでは主に司教と教区事務局、神学校(スリランカ全体のための神学校)への表敬訪問をした。私は司教館に泊めていただく。隣が司教の部屋だったので、同時にドアをあけた時、中がみえてしまったが、14、5畳位の広さで実に質素であった。

1月4日(木)
 キャンデイから朝早くバティクロアへ出発。今回の視察の主要目的地である。
 スリランカは人種、宗教、言語の異なる他民族国家である。人口の74%のシンハラ人はほとんどが仏教徒、17%のタミル人の大多数はヒンズー教徒である。独立以来政治を支配してきたシンハラ人が言語、宗教、経済政策などでシンハラ優遇政策をとってきため、スリランカ・タミル人の反発を招き、それが民族暴動に発展、「タミル・イラム解放の虎」がタミル独立国の建設を主張し、80年代から抵抗運動を展開している。インドのガンジー首相やスリランカのプレマダサ大統領の暗殺もこの抗争によるものである。現在は「タミル・イラム解放の虎」は政府軍によって掃討され、主に北部のジャフナ半島を支配するだけになっている。
 バティクロアはタミルの勢力が強かった東部にある。掃討されたとはいえ、東部のジャングルにはまだタミル・イラムの拠点が点在し、キャンデイから行く時も危険をさけて迂回しなければならず、一日がかりの長時間の旅を強いられた。さらに”ラッキーならば、銃撃の音が聞こえるかも”と言われ、ほのかな期待???をしたが、結果はアンラッキーであった。
 教区事務所についたのが、午後2時過ぎ、司教館の2階に部屋が準備されていた。昼食と小休憩の後、バティクロア教区のカリタス、あちらではEHED(East Human Economic Development/東部人間経済開発局)と呼んでいるが、その組織や活動の説明を局長のシルベストロ神父から受け、その後キンズレイ司教と面談して教区の状況などの話しをきいた。

1月5日(金)
 午前はフィールドワークにでる。バティクロア郊外3,4キロにあるオザナム村の側の小さな小学校を訪問。小学1年〜5年の生徒が約40人いる。まっ黄色な砂地にある学校であったし、夏の海岸のよしずの中で勉強している雰囲気であった。90%が漁師の子どもで、周りの村から歩いてくる。先生は5人。子どもたちにとって日本人を見るのは初めてといわれた。
 さらに奥の村にいく。途中、コロンボ〜バティクロア間の列車のレールが全くはずされているのを見た。92年にとりはずされたという。政府が紛争の中で、乗客の安全輸送に責任が持てないからという理由だそうだ。それにしても、レールまではずす必要があるのだろうか。
 スブカディという村に着く。カシュウナッツの木が茂る砂地の小さな村である。政府主導のハウジングプロジェクトが進行中に村一体が爆撃されたため無惨に家々が破壊されている。天井のない家の中から大きな木がにょきにょき生えているのを見るのは奇妙だった。その後、政府はテロ対策の方に予算を使い、このプロジェクトは放置されたまま、おまけに政府の土地なので地元の人は入れない。仕方なくEHEDはその脇に家を建てる指導と支援をしている。同伴してくださったジョー神父は以前この小教区に赴任していた方であり、住民が親しく寄ってきて相談事をしていた。

 次はオザナム村訪問。ヴィンセンシオ・ア・パウロ会が所有し、Holy Family のシスターズ5人で運営管理している施設である。精神障害をもった子ども30人ほど収容している小さなものであった。トレーニングセンターでは、内戦で親をなくした子どもを対象に刺繍、庭師、陶器の職業訓練をしている。このトレーニングセンターは教区のもので、近くに広い施設があったが、90年、軍に接収されて、仕方なくこちらに移動してきたという。
 教区事務所に帰る途中、オザナムのすぐそばの道路わきの崖が崩れていた。ここはほんの1週間前、バスが爆破され、8人が死んだところだという。私たちを案内してくれSEDECのスタッフのいとこもそこで巻き添えになって亡くなったと言う。東部地帯に来て、コロンボなどとは比較にならないほど、軍の警戒が厳しい。駐屯所や兵隊の目玉だけがぎょろぎょろ光る不気味なトーチカのようなチェックポイントがいたるところにあり、紛争地帯に来たのだ、との意識を新たにした。アンラッキーは本当はラッキーだったのだ。訪問したあらゆる所で紛争の痕跡が生々しくみえたことは忘れられないだろう。戦いのあるところどこでも弱い立場にいる人がもろに影響を受けている、と痛感した。

 午後はバティクロア教区センタ−で行われていたアニメーション・セミナーをのぞく。年に数回コロンボの本部から、セミナーのためにスタッフがくるのでコロンボで会ったばかりのスタッフにここで再会する。
 そこでは教区の54村の共同体リーダーが集まり、意識化のトレーニングを受けていた。100人くらいの参加者のうち、男性はわずか15人ほどしかいない。内戦で多くの男性が殺されているのもその原因とか。参加している女性たちもほとんどが夫を紛争で失っている。コーディネーターのメリーの夫は90年に軍によってかテロリストによってか不明だが拉致され、いまだに行方がわからないという。当時2才だった子どもがもう12才になったと言っていた。
 プログラムは以下のような形で進んでいた。まず10人くらいのグループに分かれ、自分達の村の中の問題を討議し、ロールプレイで表現する。酒飲みの夫、ゴシップが村を分裂させる、男性優位、年少者結婚(teenage marriage)、失業問題等々をスキットにして明るく演じ、周りは大笑いしていた。その後、それにどう対処していくかの全体討議、前回のセミナー以後、自分たちは村の中でどのような社会連帯活動をしたか等の分かち合いがつづく。
 ジェンダー意識については、バンダラナイケという名前を知っているか、から始まって世界で初めての女性首相がスリランカからでたことを導入にして女性の活躍の話しが続く。さらには参加者の生活の時間割を尋ねる。4時に起床して10時に就寝するという人が多い。そして突如、自分たちの貧困の原因をあげさせる。次々と貧困の原因は怠惰とか信仰のため、などとでてくる。するとすかさず朝4時に起きる人を怠惰といえるか?と問いかける。そして貧困の原因を違った面から掘り起こしていく。また夫は普通妻より遅く起きるというが、なぜかとも尋ねる。貯金についても、妻が貯金をするとどうなるか、その貯金があると、夫は稼いだものをみな酒代にしてしまわないか。妻が貯金するのがいいことか、貯金は夫がすべきではないか、等々。

 今までカリタス・ジャパンには多くの意識化セミナーについての補助金申請があがってきていた。その審査をするとき、いつも私の頭をよぎるのは、意識化セミナーを一体どうやるのか、どう評価するのか、建物をたてたりすれば、視察の時に目に見えるので安心できるのだが、この手のセミナーはお金が消えていくみたいで実りが形となっては見えない、大丈夫かという不安であった。今回、実際にこのセミナーにでて、かなり組織だてて意識化教育をしているし、前回からのフォローもしっかりしているな、と安堵感をもつことができた。また紛争下にある人の言葉としてのスタッフの次の言葉が印象的であった。
 「何か大きなプロジェクトを計画してもテロで壊されたら終わり、だからわれわれは路線を変更して、意識化教育をすることにした。これなら、どんなに物が壊されても、人々の意識の中に財産として残りつづけるし、これなら、経済的依存心をもたらすこともない」と。
 セミナーは興味深かったが、あっという間に帰途につく時間になってしまった。帰りはバティクロアの郊外のラメ−ン・マドュ村により、SEDECのメンバーによる女性のためのフォロー集会をのぞく。そこでまた村でのグループの作り方、自助活動(ローン)の話し、言葉たとえば、awareness(自覚), unity(一致), togetherness(共同)などの語によって、意識化をはかる等の実際をみた。

 さらにサガヤラジ村のプロジェクトも見る。これはSOA28/2000の一部によってなされたハウジングプロジェクトであった。紛争で家を失ったコーン栽培者、季節労働者の52世帯に一家屋25,000スリランカ・ルピー(砂、かわら、煉瓦分)を援助し、お互いが労力を提供し合って建てたものであった。ここではかなり夕暮れになっていて、先を急ぐのでほんのちょっと覗いたという感じだった。

 これで、すべてのスケジュール終了。それでも帰りのハイライトがまだ二つあった。
その一、野生の象の群れに出会ったこと、それも二ケ所で。でもそれが、人間のゴミをあさりにきていると知ってちょっと寂しくなった。
その二、とタミル地区からシンハリ地区へと入る境界のところの軍のチェックポイントで、こってりと鞄の中と車の隅々まで調べられたこと。車の下にまで鏡をいれて、爆弾がついていないかを調べていた。やはり、自爆する事件があとをたたないので、それに対する警戒が厳しいのだ。

 1月6日(土)午前2時過ぎ、長旅を終えてコロンボに到着。これで視察の旅が終わったと思って、ホッと安心したと同時に、もっと長くいたいな、と明日旅立つのを残念に思う。
 スリランカを見るには少なくとも10日間はいる、広大な紅茶畑もあるし、古代の遺跡もあるし、有名な仏教寺院もあるし、、、とフェルナンド司教に再度の訪問を誘われたことを思い出に、次回の旅を夢見て眠りについた。
<石川治子記>



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エルサルバドール(地震)とホンジュラス(ハリケーン・ミッチ)の災害復興事業視察 2001.4.20~5.3

視察者 アントニオ・バルデス(京都教区カリタス担当), 石川治子(カリタス海外担当)

 サルバドール大地震は2001年1月13日、ラ・パス近くの海底を震源地として、また2月13日にもサンペドロ・ノヌアルコを震源に二回の大地震が起きた。二回目は地震の被害ばかりでなく、イロパンゴ湖に地滑りで沢山の土砂が流れ込み、大きな洪水も起こった。今回はその被災状況と復興状況の視察のために現地入りをした。

4月21日(土)
 夕方、エルサルバドhールに到着。イエズス会の研修の家、ロヨラ・センターに宿泊する。
4月22日(日)
 朝8時すぎに出発。首都を出て間もなく、川で洗濯をしたり、子どもたちや牛が水浴びをしたりしているのどかな農村にはいる。道路脇のファイアーツリーやブーゲンビリアの色が鮮やかである驕Bバナナ、ココナッツ、パパイヤ、マンゴも実っている。やはり南の国である。しかし、すぐに崖崩れで道が遮断された所、崖が崩れた所と次々と地震の爪跡を目の当たりにする。きれいにかたづけてあるわけではない。その度にスピードがゆるみ、がたがたと車が揺れる。途中の町でナ崩壊した教会の横を通る。あわてて写真のシャッターを切ったが、そんなにめずらしいシャッターチャンスではなかっことが後で判る。
 車でゆられること、約一時間半、山間の村サンタ・マリア・オストゥマに到着。ミサがもう始まっていた。そこのカンデラリアの聖母教会は完全に崩壊していた。いまだに瓦礫の山、山。その脇の仮聖堂でに250人余の村人が集まっていた。仮聖堂といっても柱をたて、ヤシの葉をわたして日よけにしてある粗末なもの。バルデス神父が司式に加わる。ミサの最後に司祭から紹介され、挨拶する。
 その後、村のカリタスの事務所に行って、被災と復興の状況を聞く。1月13日午前8時27分に起こった第一皷目の地震で村の600家族が家を失う。教会は300年前に建てられた歴史的なもの、しかしたったの2秒で崩れてしまったという。第二回目の大地震によって22人が死亡。現在は緊急状態は乗り越えた。諸国の援助で、90%の仮設住宅完成、内35%が本住宅に移転。カリタスの援助の対ホ象となっているのが33家族との説明を受ける。村を見て回る。トタン屋根なので暑さがいっそう厳しい。
 
4月23日(月)
 朝、カリタス・サルバドールの事務所へ。事務局長・ガレェゴ氏と話す。疲れ切っているな、というのが第一印象。しかし地震後のカリタスの活動の概観を丁寧に説明してくれた。
 2度の地震の被災者数は130万人。カリタスは政府援助が届かないところを、援助するようにしている。住居、保健医療、そして人間開発がその目標である。住居計画は3段階にわけている。1.屋根と柱、 2.壁をつける 3.戸、窓をつけて完成。このためにすでに56%の予算を使った。しかし26百万ドルがまだ不足している。特に被害の大きかったサン・ビセンテ教区には600〜700の住居が必要である。自分たちでつくることを住居作りの原則としている。それが人々の養成、能力開発にも、また共同体作りにも寄与するからであるし、依存心を植え付けないためにも良い。雇用促進も大切である。コーヒー農場で働いていた人びとが災害のため仕事を失ってしまったりしている。だからブロック工場でのブロック造りも、自分の家を建設するとともに、仕事を身につけることにもなる。栄養、食料問題はもちろん大きい。教育問題としては、地震によって学校に行けなくなった子どもが多い。幼児のための教育もなおざりになっている。教育ができる若者の養成も必要。母親が民芸品作成で収入を得るようにもしている。その他にも果物を作って売ったりして、わずかな収入でも何かを得るような方策を考えている。子どもの精神面をいえば、地震でトラウマをかかえた子どもが多いことが問題である。外国から食料補助はもう受けていない。
 地震の時、すぐに連帯の反応があったのは、とても心強かった。アジアの香港からでさえ激励が入って嬉しかったといわれた。日本からは送っていないので、シマッタと思った。
 軍が15万の仮設住宅をつくっているが、やったゾという実績作りのためで、質より量を目指しているので、被災者自身が主体となっていないことが問題。被災者自身が家をつくるという発想がない。
 カリタスとしての援助対象者の選択基準について尋ねてみた。その基準は 
1.都市部ではないこと、周縁化された人々、家族の収入が政府で定めた最低賃金以下である人、また女性、独居老人が主な援助対象である。
2.老人は別だが、住まいをもらうという受動的態度でなく、参加の姿勢、つまり一緒に家を造っていくのだという姿勢があること。
3.住居建設費援助金の50〜65%を最後的には自己負担するつもりであること。しかし返済は各自の可能性によって決められる。さらに、その返済はカリタスにではなく、自分の村の共同体に出しオ、村づくりに当てる。
4.共同体づくりに主体的に参加する意思があること。

 援助対象者選択については、いつも気になっていたところであるが、このような明確な基準を聞いて、本当に良くやっているなとの思いと、大きな額の援助金を任せてもよく使ってくれるという安心感がみなぎった。
 その後、ラジオ・カトリカのインタビューを受け、訪問の目的や日本のカリタスの活動について尋ねられた。
 その後、現地視察に出発。今日はサン・サルバドールから西に向かって行く。アルメリア、ソンソナテ、ナウイサルコ方面である。
 途中、サン・テクラ地域近くを通る。ここが、中産階級の新興住宅地で大地滑りがおこり多くの人々が死亡したところである。日本の新聞ではこの地域のことばかりが報道されていた。道路は地滑りのため、大木の根が向きだしになって木が枯ヘれ、今にもくずれおちそうになっていたり、アスファルト道路だが、随所にクラックが入り、ドロがこびりついていて、ほこりっぽい。車道の中央分離帯の継ぎ目がすべてはずれてしまって、ギザギザ分離帯となっている。復旧に機械も少しは使っていたが、ほとんどが人海作戦、スコップでドロをすくいあげているのをみて、復興は遅々とした歩みだなと実感した。

 アテオス(無神論者)という名前の村を通って、初めは笑ってしまったが、次第に植民地時代にこんな名前を付けたヤツ(失礼!)に腹が立ってきた。しばらく走ると広々とした平原の右手にイサルコ火山が見えてきた。富士山より完璧な円錐形で美しい。
 サンサルバドールから約2時間、ソンソナテ教区のカリタス事務所に到着した。そこから、女性のスタッフの案内を受けて、山に入る。
 途中、エストラダ神父の小教区・洗礼者聖ヨハネ教会に寄る。144年続いた教会だったが、これも地震で被災。崩壊は一部だったが、すべてにクラックが入って、使い物にならない。内部は天井もすべて木で覆われ、きれいな作りであった。修復するために、大変な費用がかかるという。
 神父の車と共に彼の管轄地域のエル・カリサル村に入る。その名の通り、カリソ(笹)で作った民芸品で生活している村だった。村に着くまで、ほんの数キロの山道であったが、そのデコボコたるや形容のしようがなく、メッチャクチャに揺られながら、「おなかが『ねじりパン』にな〜る」などと遠い昔、小学校の頃の買いパンを思い出していた。
 この村は地震被災がひどく、村の大部分の235軒が崩壊した。しかし遠いためか、いまだに基本的なニードでさえ供給されていない。山の斜面に仮の掘っ建て小屋が散在している。そこで、「えっバンビがいる」と思ったら、やせこけた小さな犬だった。それも一匹だけではない。犬まで食料はまわらないのだ。神父の後について、家々をまわる。その一軒は辛うじて崩れ残った石の上にトタンを渡し屋根代わりにしていた。屋根がすべて上から見下ろせるほど低いので、かがまなければ中には入れない。そこに、病気の老人が一人、ベッドに横たわっていた痛々しかった。 
 神父はとても若いが、この村のためにしっかりと対応していた。特に
家の建設にあたっては四旬節の間、毎週金曜日、十字架の道行をする前に皆で協力して建てたという。祈りと行いを一致させるために。一日一軒、それで8軒建てられたと誇らしげだった。
 
 帰りもまたねじりパン道路である。道で学校帰りの子どもたちを見かけるが、男の子がやけに目立つ。女の子といえば水瓶を頭の上に器用にのせて、水運びをしている。やはり、学校には男の子がいくものという観念がまだまだ強いのである。

 山を下りて、ソンソナテ教区のカテドラルに寄る。1845〜50年にかけて作られた教会。国宝もあるが無惨にも全壊。教会の正面には、片づけるすべもなく、くづれた瓦礫の山がそのまま放置されていた。
 11時35分の地震、いつもなら、教会内にはお年寄りが沢山いる時間なのに、摂理的に丁度その日だけは皆で前の広場にでていたという。主任司祭は地震後しばらく放心状態だったといっていた。

4月24日(火)
 朝早くに出発。第二回の地震(2月13日)で大被害を被ったサン・ビセンテ教区に行く。ここは2月13日の地震で大崩壊した所である。首都からは直線距離で、60キロ東に位置する。が道路事情の関係で迂回、車で2時間余の道のりだった。途中、遠くの山肌が大きくえぐれているところを見る。そこで道路工事中の人々が地滑りで埋まったという。死んだ人々は工事の下請け、孫請けの人々で実際誰が何人埋まったかはまだ特定できていない。さらにこの道路が復旧していないので、コーヒー農園で働いていた人々が職を失ってしまったとのことだった。
 まずサン・ビセンテのカリタス事務所に立ち寄る。この訪問は昨日ラジオで聞いたので知っていたといわれる。そしてフロレース事務局長が概略説明の後、被災地の案内をしてくれた。
 カリタス事務所のすぐ側のスペイン植民地時代コロニアル風のカテドラルも全壊。1月13日の地震後、破損した聖堂正面を修理し始めたので、その部分だけが辛うじて残ったという。それでも正面入り口上部狽ノあるマリア像が横に向いてしまっていたのが印象的だった。カテドラル脇にある司教館も全壊、司教は丁度司教会議中で留守だったため命拾いしたという。
 カリタスとしては、屋根になるトタンを配付しているという。廃材を利用して、柱を立て、その上にトタンを置いて、一時凌ぎにする。仮設テントは150位しかおくられなかったとも言っていた。 カテドラルの無惨な姿を見たあと、またデコボコ道を通って、まず、サン・カイェFタノ・イステペケ村に行く。そこでカリタスの援助で建築中の家を見た。ゆっくりではあるが、着実に自分の家を造っているという印象だった。その側に軍が建てた家があったが、壁も屋根もトタン造りなので暑いことこの上ない。トイレも政府が作ったとの標ばかりが目立つ粗末なものであった。
 次にグアダルペ村に行く。小教区のアンヘル神父は不在だったが、300年前に建てられたという教会は壊滅、天井はきれいさっぱりなにもなく、真っ青な空がひろがっていた。町も大半が全壊していた。
 ほころだらけの町をまわっている時、瓦礫の中から顔を出した老人が「なにか良い知らせを持ってきてくれたのかい?」との言葉が胸にささった。この町では60人位死んだとのこと。住まいがない、仕事がない、という状況で放心状態が続いているという。

 その夜はは湯沢大使のお招きをいただき、大使公邸で夕食をご一緒する。湯沢大使はNICE Iにも参加された方で、官僚的でなく、民間の中に入って外交をされているという感じがして、とても頼もしく思えた。御夫妻と教会の状況、地震の被災状況、カリタスの活動などについて、幅広く団欒し楽しいひとときを過ごさせていただいた。

25日(水)午前、ホンジュラスに出発するまでの時間を利用して、オスカル・ロメロ大司教が暗殺されたオスピタリトに行き、最後のミサ中に殺された聖堂と、司教の居室、血に染まった祭服等を見た。その後、中米大学のイエズス会士等が暗殺された場所も訪問。地震のため展示館には入れなかったが、殺された人々を写真にとったアルバムを見る。直視できない程の写真がいっぱいあった。弱い立場の人々と連帯し、真剣に生きた人々の姿がそこにあった。 

 ホンジュラスへは55分の空の旅。久しぶりにプロペラ機だった。機内の非常口に日本語で「出口」と書いた標識があったのを見て、「こりゃフル〜イヒコーキなのだゾ」と、肝にめいじた。
 空から眺めるサルバドール。そこここでキラキラと光るものがあった、それが仮設のトタン屋根だ、と気づくまでそう時間はかからなかった。

 ホンジュラスの首都テグシカルパの空港に午゚後3時15分到着。カリタス・ホンジュラスのヘルマン神父が迎えにきてくれた。神父とは1999年ローマで開かれたカリタスの総会で出会っている。
 テグシカルパ市内のカリタスの事務所に行く前に、郊外の司教協議会の事務局を訪ねる。広い敷地に司教協議会事務所、司教のたスめの宿泊所、神学校があった。そこでカリタスホンジュラスの担当司教にご挨拶。この方にもローマでお会いしている。
 市内に入る途中で1998年10月に起きたハリケーンミッチの被災について、説明を聞く。11,000人の人が死亡。道が寸断され、崖が崩れ、その上の家があっという間に流される。橋が全部で180崩壊したという。洪水で川岸の多くの家が流される。テグシカルパ市内では川岸では2階まで浸かったところが多い。もう使い物にならない家々がそのまま放置されていた。橋もまだ修理中で仮設の橋ばかりだったし、首都の中でも全く補修されておらず、水の中をジャブジャブ車で渡るところもあった。一見して、危ないところに建てた家が、被災したことがわかる。結局は貧しい人々がそのような所に家を建て、被害になって、なけなしの財産を失っていく。そしてまた仕方なくアブナイところに住み着くことになる。そこでは高い水を買わなくてはならない。金持ちは水道をもっていて、安い料金で水を買うことができる。

 カリタスホンジュラス事務所に行くと若いスタッフの多いのに気付く。さらに女性が多い。そこで、早速、土地、農業、女性、教育、医療等々、活動の概観を聞く。政府発表によれば、66%が貧困層に属するという。90年からバナナ、コーヒーの価格が崩壊し、貧困層が拡大、そして、国の経済破綻。仕事を求めて国内移住者、国外移住者が増大した。米国から強制送還される人々の人権問題も後をたたない。その活動は大体、今まで訪問した国々と同様であったが、目新しいことがひとつあった。それは南と北、つまり援助される側と援助する側との協力活動であった。スペインのカリタスから派遣された人が、丁度任務の交替時期にもあたっていたので、2名働いていた。それによって、援助側と被援助側のコミュニケーションがよくなり、援助も一貫性がもたれるようになった。
 ここでの宿泊はカナダからの宣教会の教会にお世話になった。

26日(木)朝7:00出発。サン・ペドロ・デ・スーラに向けて出発。早朝だったため、かなり涼しく感じる。同行者はヘルマン神父とスタッフのフサラ。道はサルバドールにくらべてずっと良い。景色も緑が多く、山をいくつも越えていく。その山奥にこんな所まで、といった感じで、いすゞやトヨタの大きな公告塔があった。日本ばかりでない。韓国の工場進出がめざましい。山奥に韓国企業の工場がある。そこで働く人の多くはヘ女性で、一日12時間から14時間の勤務だという。他の輸送機関もなく、バスで市内から運ばれてくる。
 テグシカルパから約70キロの地点で工場労働者のストに出会い、大渋滞。せっかちなヘルマン神父の決断で、道を大きく迂回していく。雨が降ったばかりでものすごい泥道。ホコリまみれにならないだけでも感謝すべきか。どの位迂回で遠回りしたのか判らないが、我々よりずっチと後に出発したグループが目的地に到着していた。我々はもう間に合わないので、途中でサン・ペドロ・デ・スーラ行きを断念。途中から次の目的地のトゥルヒーリョ教区のトコアへと向かう。
 カリブ海に面したテラという海岸で一休憩した。黄金色の砂浜に真っ青な海、水遊びをしている子どもたちがちらほら。細かい砂がきゅっきゅっとを音をたてた。
 夕方にトコアに到着。カリタス事務所で話しを聞く。ホンジュラスを西に、北に、東にと車で移動した一日だった。

27日(金)
朝7時、ラ・ウニオン村へ出発。途中、あたり一面アフリカ椰子の畑、ミカン畑、バナナ畑、等々豊かな果樹園の真ん中を突きぬける道路を突っ走る。アフリカ椰子はしかし、頭が無惨にももぎ取れているものが多く、これもハリケーンミッチによるものだという。ヤシは実のつけるまで3年はかかるという。ミッチがなければ、今頃は丁度収穫の時期になっていたにちがいない。道々大きな農場がある。通るところすべて、鉄条網で柵がしてあり、大蜚_場主の管理下にあることがわかる。鉄条網を支えている木の棒から若枝が出ていたのが、おもしろかった。枝を切って土に差し込むだけで、いわゆる挿し木になるのである。そしてその枝が大きくなると、生け垣になるという具合である。
 しばらく果樹園脇の道を走ったあと、山に入る。その山道といったら、まさに川底のようで、石がごろごろ、水みちになってえぐれ、タイヤがはまらないように運転手は右へ左へとハンドルを切る。山を越え、丘を越え、川をジャブジャブと渡り、4輪駆動でなければ、絶対に来られない。これだけ揺れれば、酔う暇もない。直線距離にすれば、ほんの20キロ位の距離のこの村に着くのに、2時間あまりもかかった。
 この村には約60家族が住む。カリタスのコーディネーターが定期的に訪問して、社会開発委員会を作り、社会意識化をしたり、耕作地購入とか、健康医療問題、女性の地位問題等々の指導をしている村である。ほとんどの村人はコパン(ホンジュラス西部の歴史的な町)から、新天地を求めてはるばるやってきた人々である。しかし、ミッチの影響で、もっと貧しくなったという。共同体で24,000レンピラを借りて15ヘクタールの土地を買って耕作している。土地といっても山の急斜面であり、耕作に適当とはお世辞にも言えない土地であった。しかし、そこにトウモロコシを植えたりしている。しかし折角農作物を作っても、市場がないし、市場があったとしても、山道はひどく、輸送代の方が高くつくという。今、せめて公共の輸送手段を申請しているという。しかし、自治体がそんなことはするわけがない、と思えるほど、山奥であった。 帰りにまたあの山道を通るのかと思うとぞっとしたが、今度は丘の登り降りと川の数を数えようと、激しい動きの中、必死にメモとペンを握って書き込んでいったら、なんと川と丘が15回もあった。 
 午後はトコア付近の都市型プロジェクト見学。午前とちがって、橋の復旧とか、歩道橋の建設だとか、規模が大きい。これはカリタスの対象ではないと思ったら、俄然興味がそがれて、なにもメモをしていない自分に気がついた。

28日(土)
 朝早く、首都テグシガルパに向かう。
アスファルトではなくとも、幹線道路があって、昨日から比べれば断然、らくちんな旅である。
 途中カリタスホンジュラスの担当司教のフティガルパ教区に立ち寄る。植民地時代以来第5番目の邦人司祭だというセリオ神父の案内で、郊外の「良きサマリ潟A人農場」という名の開発地域にいく。2000年6月にこの土地を10万レンピラで買い、9家族が農耕しているところである。トウモロコシ、トマト、ピーマン、イモ、バナナを栽培しているが、水ポンプが小さく、全部に行き渡らないので乾期には苦労しているとのこと。そのポンプもフtランス人の宣教師が買ってくれたものだという。このあたりには政府の援助金は全くおりてこないと言っていた。同行のサラは早速、斜面の畑に壇をつけ、水が流れ落ちてしまわないような工夫をするように、との指導をしていた。さらに彼らがたよっている肥料普及のグループは、結局自分たちの肥料とか、耕作方法の実験台にすることが多いからあまり信用しないように、とも忠告していた。
 どこでも同じような裏話があるものである。

 首都テグシガルパまであと168キロあった。世界一良質なマホガニがとれる区域を通過。秘密伐採で大儲けしている輸出業者が多く、輸送トラックを体をはって止める運動もあるとのこと。さらに金採掘で有名なサンイグナシオ村も通る驕B採掘のための薬品公害問題で労働者のためにもカリタスは闘っているとのことだった。
 日本でも「中米の人々と手をつなぐ会」が機関誌に取り上げた、CREMという土地問題にもカリタスは関わっている。日本でいえば、正義と平和協議会の分野にもかなり力を入れていることがわかった。

29日(日)
 テグシガルパ郊外の山の上にあるベリャ・フロール村を訪問。
カリタスの援助によるハウジング・プロジェクトで、17軒の家が出来てすでに移り住んでいた。そこは土地は市からもらい、カリタスが建材を支給、建築士の指導のもと労働は自分たちで、協力して建築したものである。水道を敷くことについては市が難しいことをいったので、水道管を自分達で敷いたという。すべて揃うまで1年3ヶ月かかった。
 市内からかなり離れているので、仕事のためにはバスで行かなければならない。一日3ドルの俸給で、換算すれば50レンピーノの日給でバス代が12レンピーノかかるという。最低賃金は月100ドルだが、それにも達していない。でも仕事がないよりはマシだそうだ。
 それにしても斜面が多い。貧しい人々の家は山へ山へと追いやられていく。しかしそんな斜面でも、家を建てる。その為に、建築技師が送られないなネら、そのかわりにわれわれにはヤギがいる。ヤギが真直ぐのぼれる斜面なら、まだ使える。ヤギがまっすぐ登れなければ、その斜面は使いものにならない、と判断する、とか。ペーソスある笑い。
 午後はミゲル・アルカンヘル地区に行く。地区の入り口にはカリタス・ホンジュラスのバスが2台駐車していた。外国のカリタスの援助でもらったバスで、働きにくる人々を町から乗せてくるのだという。
 ここは520軒もの住宅プロジェクトである。各家は5mX8mの大きさ。2部屋とシャワートイレと食堂兼居間という間取りである。将来的には学校、クリニック等も烽サろえ、ひとつの村落にする。ここでも自分たちで自分たちの家を造るという方針で建築をしている。家族総出と言う感じで働いている人々が何グループもいた。しかし、建築上大切なところは、3人の建築士、2人の助監督、40人の左官が手を貸している。初めはすべて自分たちで建築する予定だったが、やはり技術的に無理な点があって、専門家を入れたという。今年9月に完成する予定とのこと。すでに333軒完成しているという。後一ヶ月毎に44軒を建設するペースでいけば予定通り完成する。背後には松林があり、場所的にはいいところであったが、ここもテグシカルパからはとても遠い。

4月30日(日)
朝早くテグシカルパをでて、南にむかう。ミッチの被害が最大であったチョルテカ地方で、首都から直線距離で約100キロのところだが、山を越えなければならない。山道は谷戸があるところはどこでも水が流れ、道路が寸断されたことがわかる。応急処置として土が埋められているだけという感じで、道路はその度にがたがたになる。
 まずペスピレ市で、生活協同体を見る。300人の会員で、成立している協同体である。話しているあいだにも何人もの人が砂糖を100グラム、石鹸を一個と、小口の買い物をしていった。この店もミッチで流されてしまったのが、ここまで回復したという。この地区には28店あり、大きな規模の店が4つあるという。しかし、店と店のあいだは最短でも20km離れているので、将来はもっと店を設けて、人々が簡単にアクセスできるようにしたいというのが、彼等の夢であった。会費は月10レンピアであり、ここで買えば買う程、有資者は収益金を余計に受けるシステムになっている。

次にサンタ・アンナ・デ・ユスグアレの新設住宅地を見る。ルクセンブルグの国からの援助も受けたことが看板によって判る。カリタスはここでは全部で53軒の家を造っている。はるかかなたの山肌が白くえぐれているところが見えたが、そこの地滑りで家を失った人々がここアに移ってきたという。ここも自分で家を建築するという方法をとっていたが、家を建てている間は、収入がないので、その間の食費をルクセンブルグが援助したということだった。

 次には新チョルテカ市という、大きなミッチ被災者用の新興住宅地にいった。町から遠い平地に次々Xと家を造ったもので、サバクの中の町と言う感じであった。2000軒あるという。しかし家々があっても人がみえない。道路にも人は歩いていない。しかし、新興宗教の集会所はしっかりと家々の間におさまっていた。世界中から集まってきていたNGO も今はほとんどが引き上げてしまっチたという。持続的な仕事もなく、人々もバラバラで共同体作りもままならないような、だだっ広い、人気のない町であった。

 最後にカリタスの事務局に行く前に、ミッチによって有名になった「日本の橋」をみた。その200メートルの大橋はミッチが来る直前に日本の援助で完成し、日本大使も呼ばれて開橋式が祝われた。そこで日本大使はこの橋は非常に強固に造られているので、どんなハリケーンがきても大丈夫と太鼓判をおしたそうだが、その1ヶ月後、無惨にもその橋はめちゃくちゃに破壊され流されてしまった。海近くなので、上流の水が一挙に押し寄せたのである。それ以来人々は「日本の橋」と呼ぶようになったそうだ。メンツにかけても、強固な橋を復旧せずにはいられない、その工事を遠くから眺めてきた。

 その後、チョルテカ教区の司教館に到着。そこに教区事務所もカトリックのラジオ局もカリタス・チョルテカの事務所もある。
 カリタスのスタッフとラウル司教と懇談する。
その教区は日本の全信徒数と同数の教区民を持つ。その中で司祭は28人でその内教区司祭は18人という。ミッチで2万人が行方不明、200万人が被災した。エビの養殖で川の水の流れが悪くなったのも一原因だといわれている。またメロン栽培のために害虫駆除の化学薬品が流れ、川が汚染され、魚が大量に死んだ。
 しかしミッチの被災で病気があまり蔓延しなかったのは、各国の救援対応が早かったこともある。国際的な援助活動の連帯をしみじみと感じたようである。さらにミッチが最後の雨でその後乾期になったこともまた幸いしたのだということであった。
 このミッチの災害は大変だったが、これで、予防の文化が芽生えてきたし、危険なところには家を建てないという感覚も少しづつではあるが出てきたのがせめてもの慰めということだった。
 ホンジュラスの季節は、どろんこと土ぼこりの2季節という。
 四時半にテグシカルパにむけて帰途につく。夜到着。

5月1日(月)朝早く飛行場へ、メキシコで一泊する日本への長旅が始まる。日付変更もあって、日本についたのは5月3日(水)夕方であった。


back to top   03.06「カトリック新聞」書籍紹介:「イラク 〜湾岸戦争の子どもたち〜」写真と文:森住卓 発行者:(株)高文研

この写真からあなたは何が聴き取れますか

 ひまわりの種を売る女の子、アイスクリームを売る男の子のつぶらな瞳。酸素吸入器の奥からじっとみつめる瞳。腹水がたまって苦しみながら必死にみつめる眼。しっかり撮ってちゃんと伝えて、と言っているかのようだ。
 そんな中で、一枚の写真に凍りつく。そこにいるのは無脳症の赤ちゃん。医者から見放されても最後の力を振り絞っている。でもこちらをみつめることはできない。
 この写真集の作者はフォトジャーナリストの森住卓さん。基地、環境問題等をテーマに取材活動を行っている。核実験場での取材でドキュメント大賞を受賞した。劣化ウラン弾による人体への影響の取材を続け、外国人ジャーナリストとして初めてイラク・クウェート国境の非武装地帯に入り、この本をまとめた。
 彼は言う。「前には医者になりたいといっていた男の子、今度会ったら空軍のパイロットになってアメリカと戦いたい、と言った。自分の白血病の原因が米軍による劣化ウラン弾だと知っているのだ」、「自分が見たのはイラクの一部にしかすぎないが、そこで目撃しカメラに収めたのはまぎれもない現実である」、「1980年代を通じてのイラク・イラン戦争、91年の湾岸戦争、それにつづく経済制裁で、イラクの国民生活は疲弊しきっている。イラクの人々がいま最も望んでいることが『平和』であることは疑いを入れない。経済制裁はイラクへのジェノサイトだ。そしてもしこの上、さらに攻撃が加えられたら、どんな事態が起こるか、それは容易に想像できるはずだ」。
 そしてそれは起こってしまった。ハイテク兵器が使われれば使われるほど、戦争の残虐性はテレビから消され、私たちの想像力は乏しくなっていく。あなたこそ実際にこの本を手にとって、写真が訴えていることをぜひ聴き取ってほしい。
石川治子記


back to top  98.09「カトリック新聞」書籍紹介:「下町の神父」 著者:大原猛

「私は神父として、人間として、青年たちに養われ、育てられてきた。彼らの悲しみや希望にふれ、肩を並べて歩むことを学ばせてもらった。」この本には著者自身がこう明言する爽やかな経験が軽快なタッチで描かれている。
 純粋で本物を見抜く目をもっている青年、無視され存在を否定され、いやしがたいほどの心の傷を負った若者、現代社会の重い問題をもちこんでくる人々等、社会の底辺で必死に生きる様々な人との関わりの中で、彼らから鋭い問いを突きつけられて自分が変えられ、自分のあるべき姿を見い出して行く。
 するめ工場を受験のために辞める時、「そうか、大学を受験するのか」と言われ「結局仲間じゃなかったんだ」と同僚から見すかされたように感じて心が重くなった話。「神父さんはいつも『君たちの言うことはわかるけどと『けど』をつける。『けど』をつけることニは判っていないことと同じだ』と言って自分の元から去って行った青年。「私も神父さんから頼ってもらいたかった。」と最後の一言を残して故郷に帰っていった人.....ひとつひとつのエピソードの中に痛い経験、鋭い問いかけがあり、それが著者の生き方を鋭敏なものにしていく。そして「社会で抑圧されている人の側に身を置いた時、自分が心の底から揺り動かされ、あり方が根本的に変えられて行く」と気づき「神父とは、人々と共にあり、痛む人たちに寄り添い、彼等の代弁者となり、希望のしるしとして働くことだ」と確信するに至る。
 森司教が「はしがェき」でいみじくも書いておられるように、この本は「現代社会の重圧にあっぷあっぷしている人々に光を与えてくれる」書である。
 時間を忘れて読破でき、読者には誠実で清々しい「人との関わり方」が示唆されるに違いない。


back to top   01.01「カトリック新聞」 本の紹介 「グアテマラ 虐殺の記憶--真実と和解を求めて--」
歴史的記憶の回復プロジェクト編
飯島みどり、狐崎知己、新川志保子訳
岩波書店 
定価2800+税

 神の似姿として造られた人間がここまで残酷になれるのか、闇の力はここまで支配するのか。この本を読むと誰もがこう自問するに違いない。
 36年にも及ぶ内乱で、死者・行方不明20万、国内外難民100万以上にものぼった中米・グアテマラ。本書はこのようなひどい暴力を二度と再び繰り返さないため、カトリック教会によってはじめられた「歴史的記憶の回復(レミー)プロジェクト」報告書の日本語版である。
 「歴史的記憶の回復プロジェクト」は、自分だけが生き残った、殺されていく人を前に自分は何もできなかった等々、人々の心の奥に疼く傷に気がついた教会が、司牧活動の一環として人々の悲痛な想いを聴くことから始まった。この目的のために養成された和解推進者によって、3年間をかけて6,500件の証言が集められた。そこで殺された人の名、そのやり口、死体を埋められた場所等が明らかになり、被害者のほとんどが非武装の市民、特にマヤ先住民族であったこと、人権侵害の大部分が軍と準軍事組織による体系的なものであったことが公けになった。報告書は証言をした人びとの生の声をそのまま載せており、迫ってくるものがある。また暴力の根源と経緯、国家の組織的暴力、ふつうの人を虐殺者へと作り替えてしまう洗脳と訓練についても言及し、「二度と再び」をキーワードに社会再建への提言もする。日本語版ではグアテマラの状況についての説明を加える等、グアテマラについて何も知らない人にも理解しやすいよう工夫されている。
 グアテマラ司教団が司牧活動として一致団結して取り組み、完成させたこの報告書を通して、読者は人々と共に歩む真の教会の姿に出会うに違いない。因みにこの報告書が提出された2日後、責任者のヘラルディ司教は惨殺された。

注文は下記に
グアテマラ・平和と和解キャンペーン事務局(電話03-5632-4444)
郵便振替口座:00100-4-137051 口座名:グアテマラ・プロジェクト
代金2800円(含・税+送料)


back to top     02.03「カトリック新聞」 アフガン女性と未来をともに

 空をみつめたうつろな目、微笑みを忘れた顔…難民キャンプで出会った女性の顔が忘れられません。米軍の空爆で夫を殺され、命からがらパキスタンに逃れてきた女性でした。一目でトラウマと解ります。テントの中にただ座っているその女性のそばに、従姉妹が心配そうに寄り添っていました。
 「こちらに来てどのくらいになるのですか?」「家族は何人ですか?」「お子さんは?」 …こちらのヤボな質問に対して「次の支援はいつもらえるのか」と、彼女の応えはいつも同じでした。でもこの人も夫を戦争で殺され、一人ぽつねんとテントの中に座っていた女性でした。
 これらは1月末から一週間、カリタスジャパンのアフガン難民のための募金活動の一環として、パキスタンにいるアフガン難民の現状を視察するために、現地を訪れたときに遭遇した光景です。
 難民といってもひとくくりできるわけではありません。UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)の難民とその登録からもれた潜在難民がいます。前者は自由ではありません。国連の完璧に近い管理のもとでコントロールされています。でも支援があるので最低限度の生活ができています。
 一方、都市に潜在している難民の方には自由がありますが、援助の対象外なので、最低生活すら確保できていません。ゴミをあさって、換金可能なものを売って細々と暮らしているのです。その住まいはゴミの山の中にうもれたテントでした。ここでは夫を亡くした女性が、共同体の中で「可哀想で特異な存在」として紹介されました。またこの潜在難民の子どもたちのほとんどは裸足でした。汚れがこびりついていた小さな足が脳裏に焼き付いています。
 事件の犠牲になるのはやはり最も弱い人々でした。今回の視察でも全体的に女性、子どもの問題が深刻であることが明らかでした。
 カリタス・インターナショナリスのアフガン復興会議が3月中旬にローマで開催されました。そこでもこれが大きな課題として取り上げられています。
 統計によればアフガンでは毎日、出産時に45人の女性が命を落としています。識字率は男子が53%なのに女子は5.7%。この落差には驚嘆します。過去10年の女子の入学登録者数は9.3%です。これは9人の男子に対して、たった1人の女子だけが学校に行くということです。さらに過去6年間でいえば、女子は中等教育を受けることが全く許されていませんでした。また早婚なので、平均して1人の女性に9人の子どもがいることになります。また家庭の中でも女子は疎まれ、教育面ばかりでなく栄養面でも男子とは違った扱いをされているのです。子どもの時から当然のことのように差別されてきているのが実態です。
 それなのに家庭が経済的困窮に陥ったとき、支えになるのは女性です。でも手に職がないので、結局は物乞いとか体を売るしか女性には道が残されていません。 
 この会議でも、家庭と子どものサバイバルには女性の能力開発と地位向上とが欠かせないことが確認されました。また国としての復興事業に女性が参与をしなければその復興は不完全であることも強調されました。そのために女性の権利が認められなければなりません。また女性自身も自分たちの持っている基本的権利についてよく知ることが大切になります。そのための意識改革がなされなければなりません。女性が自分たちのニードをはっきりと自覚し、それを表明することができるようにすることが急務です。
 また女性のことに関してであっても返答するのは男性、という意識や文化的伝統の壁をうち破っていくことが必要です。今までは女性のためのプロジェクトでさえ、女性の真のニードや希望が考慮されなかったのです。家庭や共同体での決定権は男子のものであるのが当然という「常識」を変えなければなりません。
 今までは家の中の仕事に埋没させられ、女性には社会活動や自己充実のための時間と機会が与えられませんでした。今後はやりがいのある仕事へ参加し、自己実現ができるものにしなくてはなりません。種々の事柄への女性の参加を今こそ促進することが必要です。そうして女性自身が自分を高く評価していかれるのです。
 このような女性の地位向上への取り組みの中で、今求められているモデルは西洋型か、タリバン型か、という二極対立ではなく、アフガン独自の女性モデルだということです。
 カリタスジャパンとしても、アフガンの女性自身が自らの意思を決定できるようになるために、今後も忍耐強く見守り、側面援助していきたいものです。


back to top     98.07「カトリック新聞」韓国研修旅行

この度日韓関係史勉強会として韓国研修旅行をした。この勉強会は戦後50年に出した日本カトリック正義と平和協議会の声明文「新しい出発のために」を受けて「歴史の検証」を目標に発足したものである。今まで毎月会合をもち、韓国理解のために数回講演会を開催してきたが、もっと身近に韓国を体験してみよう、とこの旅行が企画された。
 旅行中は韓国国史編纂委員会委員長の李元淳先生が連日同行して詳細な説明をして下さった。
 まず金浦空港から統一展望台へ直行。一番近い所で460メートルの川幅で南と北が分断されている現実、また展示室の北朝鮮の生活等からも南北の事情をかいま見て、統一が口で言うほど簡単なことではなく、前途多難であると実感した。
 翌日は「韓国カトリック教会史」李先生の講義。その後アン・ジュングン紀念館や塔洞公園、閔妃暗殺場所を訪れ日帝時代の深い傷あとを目の当たりにした。
 また明洞カテドラル・カトリックセンターの人権委員会を訪問、丁度3人のオモニが相談にきていた。でっち上げのスパイ容疑で10数年拘束されている息子をもつ母親たちであった。政治囚が釈放され始めてはいるが、獄中にいる人もまだ多い。オモニたちの顔にきざまれた皺がその苦しみを語っていた。80年代の民主化運動がまだこのような形で抑圧されていることを感じた。またカリタス事務局も覗きそこでは教誨師、在宅ケアのヘルパー斡旋、欠損家族問題のカウンセラー、買売春問題等に幅広く取り組んでいることを知った。
 明洞カテドラルの前庭は労働者の集会やデモのために開放されている。銀行の閉鎖、併合決定が数日前にあったので大きな集会が行われていた。雨の中、沢山の若者が参加していて、経済状況が悪くても底力と希望があるように感じられた。
 翌日は江華島へ。風光明媚な島、漢民族の始祖と言われる檀君の建国神話があり、高麗時代には都にもなった島である。そこで雲揚号事件が起こり、江華島条約が締結された。それらの史跡や主な要塞(この小島に53もの要塞がある)を見て、日本や諸外国の侵略に耐え続けた韓国歴史の縮図を見たような気がした。
 翌日はソウル南70キロの天安独立紀念館にまで遠出。李先生のおかげで建物の入り口までマイクロバスが横づけされ館長が出迎えて下さった。この館長の父親は独立運動で亡くなり、祖父は大韓民国臨時政府の要人の一人だった由。彼は「旅行の目的を聞いて感動した。政治上では解決されたというが韓日の歴史の誤解は残っている。民間レベルでこの様に関心を示して下さることは嬉しい。この訪問が理解を深める良い機会になることを願う」と挨拶された。
 紀念館では歴史研究所所長が案内役。第七展示館まであり一日がかりの所だが、大切な所をおさえて説明して下さった。随所で日帝時代の侵略行為と蛮行、韓国人民の自由独立への熱望と勇気が感じとられる。「歴史を真正面からみつめよ」との挑戦状をつきつけられた思いがした。
 次に三一独立運動で立ち上がり、万歳運動をくり拡げた少女・柳寛順の生家と廟により、堤岩里教会にも行った。ここで起きた事件について当教会の姜信範牧師が淡々と説明して下さった。
 「1919年3月1日以降この地でも万歳運動が展開された。4月15日に日本憲兵隊が来て15歳以上の男女全員が礼拝堂に集められた。憲兵は彼らを鞭打った後、堂を封印し火をつけた。21人が焼け死に堂の外でも女性が2人、計23人が虐殺された。村の33軒の家も一軒だけを残してすべて焼かれてしまった。事件後カナダ人宣教師が現地に入りひそかに写真をとった。それがこの紀念館に展示されている。唯一の生き残りの証言によって遺体の埋められた場所を掘り起こし、遺骨を集めここに葬った。証言者チョン・ドンネさんは82年に96歳で亡くなった」。
 教会堂に書かれていた言葉が印象的だった。「だれでも主に喜ばれる生き方をするならば、主は敵する者とも和解させてくださる」
 今では年間三千人の日本人がここを訪れると聞いたのがせめてもの慰めである。日本人が行ったこの残虐な行為をしっかりと伝えていかなければならない。
 ソウル最後の日は各自が自由に関係者に会うことになった。私たちは正義会館のスザンナ尹さんに会った。正義会館は寄り合い世帯。政治囚サポートグループ、統一をめざす青年グループ、尹さんの「新しい世界のための韓国カトリック女性共同体」等がこの建物を共同購入したという。事務局は若い女性でいっぱい。司教協議会で働いている人、金大中大統領直属の女性問題委員会の副委員長等多彩な顔ぶれであった。話合いでは「日韓カトリック女性交流会」を発足させることに合意。まず今秋に韓国から日本に来てもらい、それぞれの国の「女性問題」の分かち合いをすることになった。
 日曜日は高速バスで光州へ。教区の正義と平和委員会の事務局長を始め、担当司祭、元事務局長、大学教授が待っていて下さった。1929年の学生独立運動の碑を訪れた後、食事をしながら皆と話し合った。あちらでは原発問題、良心囚問題、環境運動、東ティモール支援に取り組んでいるとのこと。 光州事件の慰霊記念墓地にも行った。整然ときれいな墓標がならんでいる広い墓地は光州事件の壮絶さが余り伝わって来ない感じがした。しかし同行した「正義と平和」の人たちはこの墓標を見て、犠牲者一人一人を思い出すといわれた。
 墓地の脇にある記念堂に入った。暗い中、大きな花輪が捧げられていた。正面の壁に犠牲者の遺影が飾ってあり事件の悲惨さを想わせた。小さな子供、身重な女性、青年男女と写真が続く中、事務局長の田さんのお兄さんの遺影もあった。高校3年で惨死されたという。右側の一角に掲げられている26枚の写真は未だに行方不明の方のものだという。その中にはいたいけな子供の写真もかなりあって心が痛んだ。
 当時のデモ、軍部の鎮圧や報道をまとめたビデオも見た。民主化を求める学生、市民達に対して軍部が残忍な行為で対処したことを目のあたりにして、日帝時代の日本軍の所業の継承を見た思いがしてつらい気持ちになった。
 デモのあった支庁舎前広場にも行った。事件後18年を経、次々と建物が建て替えられたり、壊されたりすると言う。歴史の記憶を抹殺することがここでも行われている。
 この広場のすぐ側にカトリックセンターがある。事件当時、大司教はその上階から学生たちが警棒で殴られ銃でうたれるのを見ておられたそうである。その時何もできなかったことを悔やみ「あの時、自分は「良きサマリア人」の祭司であった」と信徒の前で告白されたという。光州の司祭たちは皆正義と平和委員会に属している。このような事件を体験しているからこそ、人々の正義と平和を求めることが必然のことなのだろう。今後とも相互交流と連帯を続けていきたいと約し、光州をあとにした。
 今回の旅行は本当に有益であり光と希望を与えてくれた研修であった。韓国では正平協の働きが若い人々に自然に引き継がれていることに希望と力、そして一抹の羨ましさを感じた。様々な場でめぐりあった沢山の方から本当に力をもらったような気がする。これに勇気づけられ、日韓関係史勉強会を新たな目標と決意で展開していきたい。


back to top     98.09「JP通信」訳:死をもたらす借款
         ペドロ カサルダリガ司教 ブラジル アラグエラ教区

 借金を負って生まれ、借金を負って生き、借金を負って死ぬ。これが第三世界のすべての貧しい人の運命であり、ラテンアメリカ大陸の致命的な宿命である。このように借金を負うことは生きることを禁じられるに等しい。外部の債務は内部の死である。ラテンアメリカでは10年毎に債務は2倍になり、1998年現在、7千億USドルに達している。
 歴史に記録された全ての戦争の中で最も多くの人を殺すこの全面戦争、大きく言えば世界制覇、一民族だけではなく、多くの民族、大陸中の人々、第三世界全て人々の殺戮に対して、我々は当たり前のように慣れていってしまう。また他方では戦争、支配、犯罪が国際法によって厚顔にも正当化されている。それが借款の問題であり、借款は義務と権利をもたらし、負債は返済されるべきものだからという理由からである。そして対外債務を払うように言い含められるが、それは政治的無頓着であり、歴史的逸脱であり、経済的無責任である。われわれは負債の元本ではなく、利子を払い続け、暴利であるその利子さえも払えきれないでいる。そしてわれわれ貧しい者は第一世界のために資本を輸出しているのである。
 政治家や国際協定、我々の社会が埋没している慣習は、みじめな民にとっての国際債務が真実の憲法であるかのようにみせかける。債務があるので農地改革も出来ず、保健衛生、教育、労働、通信、社会保険や人々の生活を改善することが出来ない「。われわれはIMFと世銀の掃きだめになっているのである。
  しかし、ラテンアメリカでも他の第三世界でも、また連帯する第一世界においても、市民運動や教会と同様の考えをもつグループが真面目に、倫理の原理として、また福音の最も基本的な要請として、国際債務は倫理に反スしていること、また債務は支払うことが出来ないし支払う必要もないことを主張し続けてきているのである。さらに常識や正直な統計は我々がもうすでに債務を返済したことを示しているのである。さらに、借金は市民がしたことではなく、独裁者、専横的政府、汚職政治家がしたことニも判っているのである。
 もしどこかの国際連帯組織がラテンアメリカと全ての第三世界を市場経済システムが宣告する経済的破産と社会的破壊から救い出すことができるとするなら、その組織は対外債務を返済しないことを意志決定するであろう。またそれは高潔なラテンアメリカの意志でもあり、最後の瞬間まで人間の尊厳を守る意志でもある。
 自分が死んで行くために、また飢餓や病気、絶望的な暴力、世界的な抑圧によって民が滅亡していくのを見るために、債務を返済するということは全く皮肉で馬鹿げた自殺行為である。
 保護者プロアニョ司教の貧しい人々にたいする思いやりや彼の思い出、また我々がしている大聖年への準備は、対外債務支払いとわれわれこそ債権者であるはずの社会的債務の支払いに反対する連帯行動を拡げ、推進していくように呼び掛けている。
 外なる債務に対抗して、内なる大陸の尊厳を大切にしよう。B
 死に導く神への崇拝に対抗して、生命の神への忠実、神の子である我々すべての兄弟姉妹たちへの忠実のために闘っていこう。


back to top   99.05「JP通信」ドメスティック・バイオレンス(DV)
 女性に対する暴力(以下DV)は、社会、階層、時代を問わずに存在するのに、社会的な問題とみなされず、家庭内や個人の問題として隠されてきた。その背景には「法は家庭に入らず」として法的処罰の対象になりにくいこと、被害者の女性が伝統的な女性役割に縛られていること、男女間の経済的社会的不平等の差別構造などがある。ここでは日本におけるDV、儒教の影響、女性および男性の意識、その対策等について、下記の本を参考にして簡単にまとめてみた。
日本に於けるDV
 「家庭の問題は何であれ、家の中で解決する」という考えによってDVは中々表面化しない。暴力を受けた女性は暴力の犠牲となったことを恥ずかしいと感じ、また恥は家族全体に及ぶと考えてしまう。
 また「警察の民事不介入の原則」で、DVは夫婦の間の痴話喧嘩でありそれに介入できないとして、暴力を受けても警察沙汰には中々ならない。また日本社会には「男は支配するもの、女はそれに従うもの」という規範が浸透して、DVの被害者は「もうちょっと、あの人をたてなさいよ」、「あなたが家の中をめちゃめちゃにしているから、そうなるんじゃないの」、「そういう言い方をすれば、そりゃ怒りますよ」と家裁の調査官にさえ言われる。これらの言葉はDVの原因があたかも被害者にあるような印象をもたせる。
 性差別に起因する「夫の暴力」は「支配、征服、所有」の実行で妻の奴隷化であり、その人の人格を殺していくことであるのに、ほとんどの人や社会はそのことに気がつかない。夫の方も暴力をふるったとは思っていないし、妻も被害を受けているとい「う認識がない。
 ある二つの裁判の例が日本に於けるDVの意識を垣間見させてくれる。一方は妻が視覚障害者の夫の暴力を受けて死亡する事件(1996年)。死因は全身打撲。懲役3年、執行猶予5年の判決がでた。他方は妻が夫の暴力に耐えられず、寝ている夫を金属バットで殴り殺した事件(1997年)。殺人事件として裁判が行われ、懲役6年の実刑判決がでた。加害者は片方は男性で片方は女性、傷害致死事件と殺人事件という刑法上の違いはあるが、そこにあるのは夫からの暴力である。
 また98年5月NHK「クローズアップ現代」で夫婦間暴力を放映した後、<みずら>の相談室(横浜で90年に発足した女性相談室)に約2時間で60数件の「夫からの暴力」の被害を訴える相談電話があったという。<みずら>での普通の相談電話のうち暴力は全体の中で20%位で、シェルターの利用者の60%が暴力の被害者という。
被害者である女性特徴
 被害者は自己評価が低い、自分を責めやすい、伝統的性役割の固定観念をもっている、無力感、恐怖、怒りの感情、暴力をそらすための配慮、だれも助けてはくれないと思い込んで社会的に孤立し、相手に服従するなどの特徴がある。女性たちにとって理想的なのは、我慢強いこと、くじけないこと。女性は家庭内の責任を負っているので、夫のことで苦情をいうとたとえ家庭内暴力のことであっても、家庭内での役割を十分果たしていないからだと責められる。
加害者である男性の特徴
 暴力を振う側も共通した特徴や信念をもつことが多い、しばしば伝統主義者であり、性別役割の固定観念、男はかくあるべき、女はかくあるべきという「男らしさ」「女らしさ」にこだわり、男性優位、家族に対して支配的であることが男らしいと信じている。自己評価が低い、依存的感情、嫉妬深さ、とても暴力を振るうようには見えない極端なおとなしさから極端な攻撃性に転じる二重人格性をもつことが多い。
儒教の影響背景にある
*男は強きを以て貴しとし、女は弱きを以て美となす。(『女誡』)*女子、才なければすなわち是れ徳。
*夫は妻の天なり。(『儀礼』喪服篇)*婦に三従の義あり、自分勝手の道なし。まだ嫁がざるは父に従い、嫁いでは夫に従い、夫が死せば子に従う。(『儀礼』喪服篇)*婦に七去あり、父母に順わざるものは去る、子無きものは去る、淫なるものは去る、妬なるものは去る、悪疾あるものは去る、言多きものは去る、窃盗のものは去る。(『大戴礼』本命篇)等々の考え方が、日本人の発想に影響している。
 また教育目標などで良く言われる「良妻賢母」:家庭を守り、子どもを生み育てる」というこの言葉は、明治時代にさかんに提唱され、今日の日本での理想的女性像として言われるが、これは「女性には妻と母という役割しかない」ことを正当化すキるために使われたという。
DVへの対策
1.DVとしての認識を徹底すること。
^「あれは暴力だ」_「あの行為は私の尊厳を踏みにじる行為だ。」`「私はあの人からコントロールされている」a「これは私だけに起きた、たまたまひどい男を結構した私が悪かったということで済む問題ではない。公共の問題なんだ」との認識。
2.DVは加害者になる男性の問題であるとの認識を徹底すること。
3.あらゆる「女性に対する暴力」に「ノー」と言いつづけること。
4.社会の仕組みの中で、物事を暴力によって解決する手法を許さないこと、暴力は犯罪である、というきちっとした対応をすること。そのような社会構造、世論を作っていくこと。
5.警察は夫からの暴力の被害を訴えられたとき、それに対して正しく対応すること。暴力をふるう夫が被害者に近付かないようにする裁判所の仮処分の申請をすること。
6.民事不介入という警察の言い訳を正すために、妻が被害届を出せば刑事事件として扱えるので、そのサポートをすること。
DVの被害者は以下のことで周りのサポートを必要としている
*どうやって離婚できるのかわからない。離婚にいたるまでの精神的な圧迫を受ける。
*本当は離婚したいのだが、子どもの将来のことが不安で踏み切れない。
*離婚後の生活の厳しさ、住む家さがし。保証人さがし、仕事さがし。
*収入が少ない。(母子世帯の収入は一般世帯の三分の一)
*「自分がそういう男性を選んでしまった」という責任を背負っている。誰にも相談できない。
*暴力のひとつとして、親、兄弟、友人との付き合いを規制される。彼等に頼れない。
*実家に逃げてきても、夫が執拗に追い掛けてくることがあり、家族もなかなか関わりたがらない。
*「外」と「内」の夫の顔が違う。誰も暴力を信じてくれない。力になってくれない。
*周りの人の理解が得られないだけではなく、周りが被害者を批判する。
******
参考資料
1.女性に対する暴力--フェミニズムからの告発-- 森田ゆり、福原啓子、渡辺和子
 ウィメンズブックスブックレット5  (ウィメンズブックストア松香堂)1998.11.10発行
2.女の叛逆 No.46 --特集:「夫の暴力」は犯罪です-- 久野綾子発行 1997.12.30
3.アジアの女たちと宗教    山下明子著。解放出版社。1997.8.15
4.「女性への暴力」--アメリカの文化人類学者がみた日本の家庭内暴力と人身売買-- シャーマン バビオー著 (大島静子等剿) 明石書店


back to top      01.03「JP通信」女性国際戦犯法廷

20世紀最後の月、2000年12月8日から12日まで、女性国際戦犯法廷が九段会館と日本青年館で開催された。(11日は「戦時下における女性への暴力」公聴会)法廷には五大陸30カ国から、毎日千二、三百人の参加者が参集し、。被害国である韓国、朝鮮、中国、台湾、フィリピン、イン塔hネシア、東チモール、オランダ、マレーシアからの法廷参加者数は計390名(内被害者は64名)であった。
メディアは、海外から95社200名、日本のメディアは48社105名が取材にかけつけた。

 この法廷の目的
1.各国から「慰安婦」に対する犯罪の重大な性格を浮き彫りにする証拠を受理し、日本政府とその軍隊の責任を明らかにすること
2.犯罪のジェンダー的な性格を明確に分析し、戦争犯罪、人道に対する罪、ジェノサイドの罪についてジェンダー的なアプローチを確立すること
3.アジアの「慰安婦」に対する犯罪の性格を明らかにするのに国際社会を巻き込み、日本政府のとるべき措置を特定すること
4.戦争と武力紛争下の女性に対する暴力の問題に取り組む国際的な運動を創ること
5.女性に対する戦時性暴力の不処罰を終わらせ、このような犯罪が将来再発するのを防ぐこと
を目的とした。

「女性国際戦犯法廷」開催の背景
 日本軍性奴隷制を裁く「女性国際戦犯法廷」はアジアの女性や人権団体が国際的NGOの協力を得て開く「民衆法廷」である。日本が犯した性奴隷制やその他の性暴力について裁くもの。
「女性国総ロ戦犯法廷」を開くことについては「戦争と女性への暴力」ネットワーク(VAWW-NET)のメンバーが1998年4月国連人権委員会に参加するためにジュネーブに集まったときに初めて議論し、第一歩を踏み出した。
 この「法廷」は判決を強制する権限はないが、民衆の、そして女性のイCニシアティブで、国際社会と市民社会が判決を受け入れて実施し、各国政府が法改正をする道を開く道義的権威を持つ。
 国際実行委員会としては、過去から現在までの戦争や武力紛争による被害女性たちへの救済は、国際法の原則、人道法、人間の良心、人間性、ジェンダー正義に照らして可能だと確信している。そして、この「法廷」が戦時性暴力の不処罰に終止符を打つという普遍的な女性の人権に寄与することを確信する。

全体の流れ
12月7日(木)

前夜祭が行われ被害女性たちが一同に会した。8カ国から64人の被害者が来日した。高齢と病で来られなくなった人も多かった。

12月8日(金)法廷第一日目
10時18分開廷。裁判長から、検事団各人自己紹介するように指示され、首席検事パトリシア・ビサー・セラーズ(旧ユーゴ・ルワンダ国際戦犯法廷ジェンダー犯罪法律顧問)同ウスティニア・ドルゴポル(フリンダース大学国際法助教授)に続いて、各国検事団(韓国、朝鮮、中国、フtィリピン、オランダ、インドネシア、東チモール、台湾と日本からは川口和子、横田雄一、東澤靖が紹介される。
 本法廷の最大の目的は東京裁判およびこれまで国際社会がなし得なかった天皇を含む第二次大戦下の日本政府高官を人道に対する罪により起訴することであった。
 まワず国際実行委員会の共同代表の松井やよりさん(日本・「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク代表、尹貞玉さん(韓国・挺身隊問題対策協議会共同代表)、インダイ・サホールさん(フィリピン・女性の人権アジアセンター代表)の挨拶があった。その内容は裁判官は5人が5大陸、からきている。この法廷は、強制力を持たないが、国際社会において注目されるし、日本政府も無視できない。21世紀に向かって、戦時下における女性に対する暴力をなくすために、闘い続けたい。この法廷は強制力を持たず、どの政府にも属さないが、次の世代に繋ぐべき重要な意モ義を持つ。裁判官も、現実の社会から影響を受けるかもしれないが、裁判官からも社会に影響を与えることができる。裁判官は、事実を認定し、責任を明らかにしなくてはならない。
 つづいて裁判長ガブリエル・マクドナルドさん(アメリカ・旧ユーゴ国際戦犯法廷前所長)が開廷宣言し、カルメン・マリア・アルヒバイさん(アルゼンチン・判事、国際協女性法律家連盟会長)、ウィリー・ムトゥンガさん(ケニア・ケニア人権委員会院長、ケニア大学教授)、クリスチーヌ・チンキンさん(イギリス・ロンドン大学国際法教授)を紹介した。インド P・T・バグワティ(国連人権規約委員会副議長)が病気のため欠席することが告げられた。
 裁判長は、さらに日本政府に召喚状をだしたが、返事がないことにも言及した。
 さらにこの法廷は東京裁判時に犯罪行為として軽視されていた強かん、性奴隷制を裁くことであると説明。「女性国際戦犯法廷」は、証拠提出物として、書面、専門家鑑定書、サバイバー(被害者)の証言や映像を審理し、犯罪行為がおこなわれていた時の法を適用するとコメントした。
12日に判決要v旨を出したい、最終判決は国際女性の日である3月8日にハーグで出す予定であると述べた。

 その後、主席検事より全体起訴状朗読がなされた。パトリシア・ビサー・セラーズさん(アメリカ・旧ユーゴ・ルワンダ国際戦犯法廷ジェンダー犯罪法律顧問)は「個人の国際法上の刑事責任」について、性奴隷制はいかなる理由をもっても正当化されないこと、戦時下における性暴\力・性奴隷制は戦争犯罪であることは明らかであることを述べ、性奴隷にされた人々の受けた被害、日本軍によって作られた性奴隷制の実態等が明らかにされる。日本軍と政府のどこにどのような責任があったかを明らかにしていく。
東京裁判ににおいてオーストラリアの法律家は日本国の天皇は戦争を開始し終了させたのであり、戦争責任があるし、性奴隷制についても天皇は責任がある、被害者たちは本当に苦しんでいるのに、日本政府は責任をとらず、正義が実現されていない、と述べた。
東京裁判の時点で、当時の国際法に照らしても、戦争犯罪だったという、主張。適用法は、1945年当時の法律とし、現在の法律を遡及的に適用として有罪とする趣旨ではないことを確認した。 ウスティニア・ドルゴポル(オーストラリア・フリンダース大学国際法助教授)「戦争犯罪に伴う責任問題」について、被害者は、長い間沈黙を守ってきた。
日本政府は、長い間責任をとらないできた。
日本政府は女性たちを性奴隷にし、拘禁して強姦を繰り返した。その結果、女性た
ちの人間性は否定されてしまった。
被害者たちは、謝罪も賠償もなく、その後生きてきた。
被害者たちは、尊厳を回復するため、人権を認めさせるために、証言し、私たちはそれを代理してこの法廷を開いている。国際法に照らして、被害を認定し、被害の回復をはからなくてはならない。日本軍は、女性たちを徴募し、管理し、強姦した。日本国の官僚は、女性たちの募集及び移送に関与している。これらのことからすれば、日本政府は、法的責任がある。また、日本軍の中では、強姦をしても良い、という黙認がなされており、軍規によって厳しく取り締まられていなかった。また、日本軍は、占領地の人々に女性を差し出すように要求した。これらは、人身売買であり、いくつかの国際条約に反しおり、国際法に反している。従って、日本政府には法的責任があると検事団は考える。他方、日本政府は、国際社会からの多くの批判を受け、責任を認めるべきだという多くの勧告を、無視し続けてきた。90年までは、「慰安婦」の問題は余り注目さ
れていなかったが、現在では、人道に反する罪である驍アと、そして加害者不処罰が継続していることは、既に明らかになっている。90年の時点で、日本政府は、被害者に対して法的責任があることを明らかにし、加害者処罰を開始すべきであった
等を述べた。

 検察側としての主な主張は被告人の処罰と日本政府による国家責任の承認およびサバイバー(被害者)への補償である。
検事団は、「アジア女性基金」が被害者救済にとって十分でないと考える。
戦時下における性奴隷被害者については、以下の行動が求められる。
1,真相究明
2,補償
3,賠償
4,責任者処罰
民間からの金銭を集めてプレゼントすると言うだけだけでは、女性たちの尊厳は回復されず、却って女性たちは侮辱されている。直接政府からの支払いが行われなくてはならない。性奴隷制の中では、女性に対する差別、民族に対する差別が行われ、人権が侵害された。この人権侵害を回復し、正義を実現しなくてはならない。

 次にアミカス・キュリー(参考人)として今村嗣夫弁護士が発言。死者を被告人とすること、被告人不在で裁くこと、軍司令官の責任については部下の行為について司令官に責任があるというためは、司令官に故意または少なくとも過失がなくてはならないというのが、刑事責任を問竄、場合の鉄則であること、旧憲法で国家無答責、新憲法で象徴とされた天皇の責任追求については、法廷として適正な手続きを踏んで説得力のある権威あるものにしていく必要があると述べた。
 全体起訴状の被告人名前は昭和天皇裕仁、松井岩根、畑俊六、寺内寿一、板垣征四郎、東条英機、梅津美治郎、小林躋造、安藤利吉  人道に対する罪:性奴隷制と強かん
昭和天皇裕仁、山下奉文  人道に対する罪:強かん であった。
 その後、国・地域別検事団による起訴状朗読、サバイバー証言、証拠の提示、裁判官の質問へと続いていく。トップは南北コリアーで、今回共同で起訴状を発布できた意義は非常に大きい。検事団は以下のとおりであった。
 韓国
金 明基 首席検事 明知大学国際法教授「本法廷の意義について」
趙 時顯 検事 誠信大学法学部国際法教授
金 昌縁 検事 釜山大学法学部、日本法律史
張 莞翼 検事 弁護士、安山
朴 元淳 検事、弁護士 「参与連帯」事務局長
姜 貞淑 検事 韓国挺身隊研究所研究員
河ヘ 棕文 検事 ハンシン大学
梁 鉉娥 ソウル大学講師

 北朝鮮
鄭 南用 法学博士、共和国国際法学会常務委員
黄 虎男 「従軍慰安婦」太平洋戦争補償対策委員会事務局長

南北コレアの発表
検事の「本法廷の意義について」「日帝の朝鮮支配について」「強制連行について」「戦後も続く被害について」
「被害者たちの負った肉体的傷害」「精神的社会的な損害について」「個人責任を問うべき被告人について」「責任の法的根拠について」ハルモニたちのPTSDの状況を示す証言を録画したビデオを上映
陳述。
以上により、日本国は責任を負う。
抵触する法規は、 
1,1911年ハーグ陸戦法規条約
2,1910年醜業禁止条約
3,1923年婦女売買禁止条約
4,奴隷貿易を禁止する国際慣習法ー日本は、奴隷貿易禁止条約を批准していない
が、これはすでに国際慣習法になっているから、日本国は、その拘束を受ける。
5,1926年ILO強制労働禁止条約
 なお、旧憲法の下にあった日本国政府の責任について、サンフランシスコ条約後
の日本国政府が責任を承継すると考える。
果たされるべき責任は、
1,調査 慰安婦実数、徴募、処遇の実態について
2,被害者への謝罪
単なる言葉だけでなく、国会決議、政府の声明、条約などの公式文書で行われ、かつ公開されなくてはならない。
3、十分な賠償
民間基金ではなく、国庫から、支出されなくてはならない。
(ここで、ハルモニたちを中心に、会場から拍手)
生存者だけでなく、亡くなった人に対しても。
4,日本政府が被害者の名誉を毀損することを止めさせる
しばしば、議員、大臣が、侮辱的発言を繰り返している。
これを放置しはならない。右翼団体の暴言についても、抑止措置を執らなくてはならない。
5,被害者の遺骨を調査発掘し、故郷に戻して丁重に葬るべきである。
生存者で、出身地以外の場所に残っている人たちソについては、意向を聞いて帰国の
措置を執るか、祖国訪問を実現すべきである。
6,責任者処罰
生存者については、正式な刑事法廷で処罰をするか、特別な法廷を作って処罰の措
置を執る。
既に死亡した加害者については、刑事責任の宣告を行うべきである。
これによって、加害Q者罰されるという歴史的教訓を残すべき。
7,日本の中で、慰安婦の存在を隠蔽しようとする勢力があるが、日本政府は、歴史教科書を初めとする教育の中で、事実を認識させるべきである。
また、証拠や証言を集め、多くの人が閲覧できる博物館などを作るべきである。
これらの教育を通じて、同種犯罪の再発を防止すべきである。
        

朝鮮半島における性奴隷制に関して、被告人は、8名。
これから提出する証拠の立証趣旨は、以下の通り大別できる。
強制連行
監禁
強姦
戦後の放置
 さらに被害者による本人証言とビデオ証言を行い、朝鮮の「慰安婦」たちが奉仕を強制されたこと、そのトラウマが今日まで続いていることを法廷に報告した。
*朴永心(ヨンシム)さんの証言ビデオを上映
1921年生。幼いときに母が死亡。家庭は貧しかった。17歳の時1938年3月、日本の巡査がから「良い稼ぎ口がある」と言われてついていった。何人か一緒に連れて行かれた。1939年、南京へ。日本名を付けられて、3年間慰安所に。上海を通って、シンガポールを通って、1942年ビルマのラングーンへ行った。「一閣楼」に入れられた。後、中国国境に近いラシオへ連れて行かれ、同行した日本兵(56師団)から強姦された。その後ラモン(羅孟)へ。爆撃を受けて、日本軍は玉砕、一緒にいた女性たちは多数死亡したが、私は生き延びた。女性たちは、洞穴に隠れていたが、松山(サンソン)で1945年9月3日、中国軍にらえられ、その後アメリカ兵に調査された。妊娠した状態の写真が自分であると証言。写真の当時は22歳。妊娠していることが明らかだったのに、なお日本兵に強姦された。
*河床淑さんの証言:ビデオ上映をした後、本人の証言。1928年生まれ、忠清南道生。1944年、17才の時に中国漢口の慰安所「三成楼」に行かされた。「兵隊たちは外で並んでいた。一日に20人位の相手をした。生理の時もさせた。建物には鉄格子が入り、外に出られなかった。今も武漢に残留している。
*金英淑さんの証言
 性奴隷に従事していた間、足や背中に無数の傷を負った。わずか12才で正業の斡旋の約束で憲兵に強制連行された。連れて行かれた慰安所は、番犬に守られ、高い塀と鉄条網によって囲まれており、そこでノザカという名の日本兵に強かんされた。「彼は『お楽しみといこうか』と言った。12才だったので『お楽しみ』が何を意味するのか解らなかった。ノザカはペニスを出して、強かんし、出血させた。ノザカは銃剣で突き刺し、その傷痕は今でもはっきりと残っている。「私はお金や哀れみを求めてここに来たのではない。失ったものを取り返すことはできない。私は青春を奪われた。私は決して日本を許さない。
*文ピルギさんの証言
 慰安所から逃げ出すことは不可能だった。15才の時に連行され、慰安所で繰り返し強かんを受けた。それを拒否すると火あぶりにあった。慰安所は鉄条網で囲まれ、「慰安婦」は常に監視下コに置かれていた。
*金福童さんの証言:病気のため出廷できなかったのでビデオで証言した。
 慰安所では絶望と自暴自棄に陥った。死んだほうがどんなにましかと思ったがまだ若くてどうやって死んだらいいのかもわからなかった。逃げようとすれば、ひどく殴られ、処刑されたものも居た。チョン・オックスンは陵辱の目的で体の隅から隅まで、口の中まで刺青をされるという辱めを受けた。
 
梁 鉉娥検事官は1945年に戦争が終わったのちも、「慰安婦」たちの苦しみは終わらなかったと主張した。彼女たちは戦争が終わったことすら教えられず、また多くの女乱ォたちが慰安所の証拠隠滅のために、帰還直前の日本兵に殺された。「慰安婦」たちが建物ごと爆弾によって殺された例もある。サバイバー(被害者)たちは、アジア各地の慰安所に取り残され、自力では朝鮮に帰ることが出来なかった人々は、カンボシア、中国、サハリン(現ロシアA)など、いまだに奴隷とされたその場所で暮らしている。
 サバイバー(被害者)の一人である安法順は、ある日目を覚ますと、「日本兵たちは皆いなくなっていた」と証言した。彼女は外に出て町を歩きまわったが、誰も見つからなかった。どこにいったらよいのかわからず、また食べるものもなかったため、彼女は山に入って、一年間木や草を食べて飢えを凌いだのである。
 検事官は、サバイバー(被害者)たちは、戦後もそうした苦しみを日常にひきずった形で生活をし続けており、精神的にも肉体的にも耐え難い傷を負っている点について言及した。金英淑iは、一日30〜40回にもおよぶ強かんを受けた。ある兵士は彼女の骨折した方の足を叩きながら、彼女の性器を銃剣でひどく痛めつけ、その結果、彼女は今日に至るまで正常に歩くことができないでいる。李キョンヤンは数々の強かんの結果、妊娠したことも証言した。兵士は銃剣で骨盤ユを切り抜くといった野蛮な方法で中絶することを強制し、彼女の子宮を切除した。こうした肉体的な暴行を受けたサバイバー(被害者)たちは、戦争後も普通の生活に戻れなくなったのである。彼女たちは普通に結婚し、子どもを産むことできず、かつ肉体的な苦痛を常に伴いながら生カきていかざるを得ず、多くの場合、体力を衰弱させる梅毒等の性感染症を負ったままでいる。
 サバイバーが負った精神的苦痛もまた悲惨なもので、ビデオ証言では多くのサバイバーたちは受けた性的暴力のため、自分たちのことを「悪女」や「汚れた体」を持った者を思うようになり、戦争後も結婚できないままでいたと話している。あるサバイバーは、自分のせいで長男に梅毒が感染し、そのため精神病院に行かざるを得なくなったことに関して極度の罪悪感にさいなまれ、何度も自殺を試みたほどである。
 検事団は、これらの人道に対する個人および国家の責モ任を訴追し、日本政府に対して即座の謝罪および補償を求めた。

 その日は専門家証言として林博史さん(関東学院大学教授・学位;内務省及び内務官僚に関する修士論文(一橋大学)
研究対象:その後10数年間、アジア太平洋戦争に関する研究、特に東南アジアに対する侵略、及び戦争責任、性暴力を含む著書論文:30点以上)が「日本軍の構造について」証言し、日本の検察団により「天皇および国家責任に関する立証」がなされた。
 天皇は、統治権を総覧すキる、元首であった。内閣の権限は極めて限定されていたこと、
 軍は、大きな政治的な力を持ち、天皇は現実の政治過程で重要な役割を果たした。重要な作戦命令や人事は、天皇の命令で
そのほかのことについては、授権であったこと。
御前会議においては、閣僚は一部のみ出席し、軍人は多数出席していた。憲法上の規定はないが、ここで重要な意思決定がなされていた。日本軍が慰安所を作っていた地域、日本軍兵士の犯した性暴力の実態は、共通か
A地域による特徴がある。
中国では、
タイプ1,大都市ー軍の駐屯地を中心に制度化された慰安所
  朝鮮半島、台湾、日本からの女性
  日本軍支配がある程度安定、強姦はある程度抑制されていた。
タイプ2、抗日勢力の強い農村地域 略奪、強姦が、放任された。山西省は、典型例である。
部隊が、地元の村長に女性の提供を要求することもあった。被害者は、地元中国の女性たちも烽チとも、日本兵は、日常的にタイプ1を利用しつつ、掃討討伐作戦に行ったときには、タイプ2の行動をとった。
被害者たちは、日本、朝鮮、台湾、中国、東南アジア、太平洋地域の女性たちに広がっている。
これほどの広がりを見ると、偶発的なものとは到底いず、国家ぐるみの組g織的なものであったと評価される。

慰安所設置は、軍が全面的に関わっただけではなく、国家ぐるみの犯罪であるといえる。

12月9日(土)法廷第二日目
まず専門家証言として、山田朗さんが(明治大学助教授・昭和天皇裕仁の日本軍における影響について研究。11年間。
この問題について4冊の著書、20本の論文。)「天皇および国家責任に関する立証」について証言した。
明治憲法における天皇の位置は統治権の総覧者である。三権及び軍に対して強い影響力を持っていた。但し行政のみについては、国務大臣が天皇を補弼し、天皇に対して責任を負う。天皇が軍隊について持っていた権限は、大日本帝国憲法第11条で天皇は陸海軍を統帥す」といわれ、天皇は三軍すべての長である。軍人勅諭において、軍事に関する最高決定権は天皇にあると記されていた。皇族の中で強姦について知っていた人は
A天皇の弟である高松宮は、慰安所について著書で触れている。天皇の弟である三笠宮の回想に、中国における日本軍の残虐行為に驚いて昭和天皇に語ったと書いている。

昭和17年5月18日付で参謀総長の杉山元がだしている大陸命の原文のスライド、1941年12月時点での日本軍制度の図で、天皇の下に大本営(陸軍部と海軍部)があり、その下に支那派遣軍、南方軍、関東軍、朝鮮軍、台湾軍、その他がある。支那派遣軍の配下に北支那方面軍(第1軍、第謔P2軍、その他)と第11軍、第13軍、第23軍があり、南方軍配下に第14軍、第15軍、第16軍、第25軍があるという図による説明。
1945年8月21日(火)晴、(小出侍従は熱田神宮へ勅使として出発)重要書類の焼却をなす(保管書類のために、罪になる人が出てはとのごイ注意から焼却、但し最小限にとどめた。)という、敗戦直後に重要書類を焼却したことを記す天皇側近の日記がある。
 はい。天皇自身が外事新聞を見ていなくても、情報は実際集めていたことが明らかになっている資料がある。
Q天皇は、日本の評判が気になって情報を集めていたと言うことか。
Aそうである。
Q定期報告の仕組みは。
Aあった。外務省から天皇に対して、定期的に。

Q大本営と天皇への報告
A大本営は、陸軍、海軍ともに、毎日の戦況を、天皇に対して、文書で報告していた。
内容は詳レ細。戦果については誇大報告だったが、損害についてはかなり詳細で正確な内容だった。

 その後、中国検事団による起訴が始まった。
被告人は天皇裕仁、松井岩根、岡村寧次、朝香宮鳩彦、谷寿夫、中島今朝吾
要求
1,生存者一人2000万円の賠償
2,慰霊碑の建設
3,被害者への謝罪

90年代から調査開始。20万人を越える被害者。以下に紹介する人は、これらの被害者を代表している。山西省孟県の戦闘解放軍が強く、抗日勢力が強かったので、虐待の数も非常に多い。

性暴力のフ類型
1,捕虜に対する拷問としての性暴力
2,慰安所における性暴力
3,占領地域における住民に対する強姦
 その中で中国の3被害女性3人(万愛花さん:1930年生
悲しみで一杯で何から話したらいいか分からない。
1943年14才の時、性奴隷にされた。
ヤオドンに連れ込まれた。無理矢理服を脱がされた。声を出すと殺すと脅された。
ここらから康さんが、一問一答に切り替える。
山西省 進圭村 抗日組織の一員として逮捕された。
連日強姦された。それ以前に性経験はなかった。監禁場所の映像の確認。解放後、同じ年の内に、再度逮捕されたス。また、進圭村に拘束された。ここに映っている窓から逃げたから、この場所に間違いない。日本兵は毎晩来た。
3回目の逮捕。また、進圭村へ。縄で縛られ、殴られた。強姦され、裸で、縄で縛られて、その後、川に投げ込まれた。真冬なのに。背が低くなった。日本政府に対して、謝罪と賠償を求める。加害者はまだ生きているから処罰せよ。12時5分頃、万さんは、非常に興奮し、以前の公聴会同様、硬直して倒れてしまった。12時20分、救急車が到着。

揚明貞さん:南京在住
1931年生まれ
1937年当時、南京在住
安全区に逃げようとしたが間に合わなかった。最初日本兵は家に来て、たばこなどを要求した。2回目に来たとき、家中の金品を奪い、父を銃殺した。(南京大虐殺の映像、李秀英も)母親も激しく殴打され、強姦さウれ、失明し、精神も病んでしまった。わたしも、ナイフで額と目のあたりを斬りつけられた。私は、たった7才でした。その後まもなく、母親も死亡した。私は孤児になり、町をさまよっていた。私以外にも、同じような境遇の女の子たちが南京の町にいた。

袁竹林さん:8年間継続アして、拘束された。慰安所の食生活は貧しかった。まさこという日本名を与えられ、その名前を書いた表札を出していた。日本兵は、金を慰安所に支払っていた。コンドームを持ってきていた。列をなしてやってきた。寝る時間がないときもあった。下半身が痛くて辛かった。18才のフ時、たった一人の日本兵が、金を払ったのに性交しないで話を聞いてくれた。慰安所の経営者が軟膏を渡して、コンドームに塗れば痛くないと言った。経営者は夫婦者だった。経営者は、自分で来たんじゃないかと言った。1回逃げたが連れ戻された。経営者は、私たちが妊娠しないよ謔、にと言って、薬を投与した。1ヶ月半もの間出血した。その後また薬を与えられ、注射をされた。その後妊娠できなくなった。)の証言が行われ、日本政府に対して正式な謝罪および賠償を求めた。さらに中国検事団は、法廷で証言できなかったサバイバー(被害者合計22名分)のフ証言を書類による証言として提出した。

 午後の部はフィリピンの検事団による起訴で始まった。

被告人
1,昭和天皇
2,寺内正一 14軍
3,本間正治 14軍
4,黒田重則 14軍
5,山下奉文中将
罪状は、侵略戦争を企画推進し、部下が残虐行為を行っているのに調査し抑止しなかったこと。憲章4条及び国際法に基づいて、これらの被告人の個人責任と国家の責任を求める。

TOMASA SALINOG
1928生、パナイ島
ビデオ証言
1944年、広岡という日本兵が進入し、父親の首を刎ねた。私は抵抗したが髪を
掴まれて引きずり回され、監禁され強姦された。途中日本語が混じる。強姦は、時
として、一人の兵隊ではなく複数が同時に入ってきた。夜は連日強姦された。一度
逃げたが、奥村という男に捕まり、監禁され、強姦される日が続いた。
日本軍の敗北により解放された。戦後も、結婚しなかった。
私は正義の実現を求めている。

 検事団はまた1994年、11月23日頃フィリピンのマパニケ村で起きた集団強かんについて言及した。同村の女性の多くは大きめの家に連れられ、繰り返し日本兵によって集団強かんされたのであった。本人は強姦され、家族が殺され、村の家は焼かれ、帰る場所が無くなった。女性たちは、物質的、肉体的、精神的に、著しい損害を被った。
まだ13歳にすぎない少女が強かんされるといった絶望的な心境について被害者の一人は次のように述べた。「私は、神様が私を見守っていてくれていると思っていました。でも神様がどうしてこんなことが起こるのを許しているのか、理解できませんでした。」証言の後に、検事団は「肉体によって侵略者によって掌握されていた」との言葉で締めくくった。

 その後、専門家意見として、「『慰安婦』制度における軍と政府の関与と責任」ついて吉見義明(中央大学教授・日本史
第1次世界大戦から日本の占領時までが専門である。
研究期間は30年あまり
著書5,6冊。
慰安所制度についてのものは、−示す
30年代から45年までの慰安所制度についてカバーしている。
)さんが、日本が行った性奴隷制度の発展形態および「「慰安婦」制度が非常に高度xに組織化
金原日誌による400箇所の慰安所の設置について、
井沼守(上海指令軍参謀長)の陣中日誌
  2、方面軍から慰安所設置の指示が来たのでそれに取りかかった。

井沼の上官は、朝香宮上海派遣軍司令官である。
朝香宮は、皇族であり、天皇の従兄弟である。
朝香宮の上官は、中支方面軍司令官松井石根である。
1937年12月13日、南京城陥落。
この直前の11月、上記慰安所設置の指示が来た。
理由;日本軍が、上海から南京に進行する間に、無数の略奪、放火、暴行及び強姦が行われたということが背景にある。南京陥落に際して、今後膨大に起こるであろう強姦を減らすために、慰安所設置を命じた。
慰安所を設置し中国、韓国及び日本から女性たちを集めてきたが、問題があると記載されている。問題とは、派遣軍が依頼した業者の集め方が乱暴で、誘拐事件として告訴されたりしたということである。そこで、今後は、北シナ及び中シナ派遣軍が、慰安婦の募集については十分にノ管理するようにという指示がなされた。慰安所を含む物資糧食など後方部門は、参謀長の担当である。
 北シナ参謀長岡部直三郎から配下の各部隊に当てた指示 強姦の多発により、占領地の支配に困難が生じている。そこで、軍人のかかる行為を取り締まるとともに、速やかに慰安所を作れと指示している。この文書も末尾に「この通牒は命により」と書かれているので、北シナ方面軍司令官寺内久一の命令によりという意味で解釈される。
 1938年11月4日付、広州21軍司令官
この時点では、古庄中将、その後まもなく安藤利吉中将に交代。華南占領をした日本軍は、大量の慰安所を作ろうとする。21軍参謀と陸軍省と徴用課長が相談して、日本で400名の慰安婦を集めることに決めた。集める方法は
、内務省から各府県に命じ、各府県の警察から、業者を選択して、集めさせるという内容である。この書面中には、既に台湾におい「て300名の女性が集められ、出発を待っているとも書かれている。当時の台湾総督は、小林誠三大将である。女性たちを受け取るのは、安藤中将である。安藤利吉の上官は、直ちに天皇になる。
 そして昭和天皇がこのように大規模かつ高度に組織化された「制度」について調査を命令すれば用意に知り得たはずだと証言した。
1942年の陸軍刑法改正の要点
1.略奪の伴わない強かんも処罰対象とした。(強かん規定の新設。
2.被害者の告訴を不要とした。(親告罪をやめさせたス)
3.刑を重くした。(量刑の幅を広くした)
これ以後も強かんは止まなかった。
慰安所が公文書で確認された慰安所マップ、元「慰安婦」や兵士の証言で明らかになった慰安所マップ、日本軍占領地域、
陸軍省副官通達(「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」)写真、
兵士が描いた慰安所のスケッチ
等、画面を通しての説明、わかりやすい証言であった。

午後の部最後に、台湾の起訴が行われた。検事団は日本の植民地政策に関する歴史的背景について言及した。その中で、台湾は、日本の植民地化した最初の国であったを指摘。「総論的発言」「慰安婦徴集のフ実状について」検事団は台湾の被害女性3人によるビデオ証言を提出した。

高宝珠
台北出身。両親が亡くなり歌手をしていたが、17才のとき軍艦で広州へ。慰安所に入れられた。のち、ビルマに連れて行かれ、7,8年帰国できなかった。一日十数人。兵隊の中には、酔っぱらって、「食べるな」といってテーブルをひっくり返したり、刀を取り出す人もいたス。44才の時に結婚した。夫は過去を知らない。子どもも知らない話。広州に着いて初めて、慰安婦になると分かった。管理されて逃げられなかった。週に1,2回身体検査。軍医。

林沈中さん
1929年、花蓮生まれ
高山族 タロコ
家は貧しかった。17才の時、朝8時から1P7時まで、日本軍の掃除洗濯裁縫。そこに住み込みで、働くように言われた。その後強姦され、日によっては1日5人を相手させられた。6ヶ月暮らして移動。期間中3回妊娠したが、日本軍から堕胎する薬を渡された。戦後、結婚したが、離婚。被害者の一人は台湾国内アジア各地を転々とさせられ、戦後も普通の生活に戻ることが難しかった。被害者の一人は日本政府に対し、「日本は私の青春のみならず人生を奪ったのです。そしてそれらは二度と取り戻すことはできないのです」と述べた。
 台湾の主張立証は、以上の通り。
結論
強制的に慰安婦ないしこれに準ずる行為をさせられた。日本軍の軍需品の一部にさせられた。
日本軍は、慰安所を意識的に、計画的、組織的に作り、管理を継続していた。
判事には、罪状項目すべてに有罪判決を。
 被告 天皇裕仁、小林  、長谷川清、安藤利吉、

12月10日(日)法廷第三日目
マレーシアのプレゼンテーションから始まる。
被告人40名、この中から4人を起訴する。
1,天皇
2,寺内寿一
3,山下奉文
4,板垣征四郎
1941年から1945年までの間暴行、強姦、性奴隷制について、人道に反する罪
マレーシアは日本政府に対し事実の発見および公表を請求した。匿名を希望して証言を行った被害者の戦後の苦しみが検事官によって明かされた。彼女のみならず、その長女もその苦悩を味わった。証言者の夫は、彼女が「慰安婦」であったことを理由に離婚し、彼女はその後二年後、学校を辞めざるを得なかった。二人目の証言者は「被害にあった多くの女性は現在、自分の子どもに養ってもらっていることから、自分が「慰安婦」であったことが明らかになるのを恐れている。私は自活しているので、ここで臆せずに証言できる、といった。
 ロザリン・ショーの証リ言ビデオ(ご本人が英語で証言)
(日本の調査者が、補足説明)
撮影者中原教授
1994年に名乗り出た。結婚し二人の子どもがあったが、結婚後8年にして離婚した。兵士がやってきて、目隠しされて自動車に乗せられた。慰安所に連れて行かれて、1ヶ月に1回しか外出を許されなかった。日本兵に抵抗はできない。すぐに刀で殺されるから。しょっちゅう往復ビンタされた。避妊、コンドームを使用しない兵隊がいた。
ペナンの出生証明書

 オランダからは1992年に来日して証言をしたヤン・ルフ・オヘルネさんが証言をした。日本兵に拘束されたことは「言葉にも言い表すことができない」と述べた。苦しい試練から解放された後も「死」に脅え続ける苦しい生活を送ったと語った。彼女にとっていわゆる「国民基金」はヘ侮辱的だと述べた。慈悲が必要なのではない、「国民基金」の設立は日本が行った戦時中の残虐行為の戦争責任回避だと強い口調で述べた。

 インドネシアからは
被告人:
1,天皇
2,寺内寿一
3,板垣征四郎
4,東条英機
5,原田熊吉
6,土肥原 
7,小田島
8,大河内伝七 
9,高橋

ビデオ証言が行われた。その中で、日本政府に対して、自らの過ちを認めると同時に正式な謝罪を求めると証言された。広く世界に事実を広めることの重要性を認識していたが、1993年に至るまで声をあげられなかったという被害者の証言があった。検事官は組織的性奴隷の証拠を提出し、日本政府に対して人道に対する罪および戦争犯罪により起訴すると述べた。検事官は被害者の尊厳および人類の未来(来世紀)の正義確保を目標として、今後同様の事件の追及を継続する決意を表明した。重要な映像資料として
台湾からの指示文書
中曽根康弘回想録
厚生省資料セレベス民政部第2収容所報告書

 その後、専門家意見としてレパ・ムラジェノビッチさん(ベオグラード・暴力反対女性自立センター・戦争の中で強姦されトラウマを追った女性たちが被害を回復し自立していくのを支える組織において、心理面を担当している。)が「トラウマ(PTSD)」について証言。一般に女性ォは戦時下における強かんに関する記憶を忘れることができるとされているが、ムラジェノヴィッチさんはさんはそれは不可能であると述べた。また国家による謝罪はこれらの女性の心療上の治癒につながるとしながらも、それが欠けてしまった場合、かえって心理的なダメージになるとニ述べた。最後にこれらの女性の心療治療のプロセスにおいて、恐怖体験を語ること、特に公の場で語ることの重要性についても証言した。
 戦時下の性暴力とそれ以外のものの違いは、
1,公衆の面前で強姦されることもある。
2,兵士によって敵を攻撃する行為の一部として行われる。
3,強姦された後に安全な場所に逃れられず、常に死への恐怖がある。
1,補足ー戦場での強姦は、強姦といっても態様はいろいろで、単独、輪姦、他の
女性のいる前で、また身体に対する暴力も、多様。
3,補足ー恐怖、強姦に対し、暴力に対し、死に対する恐怖。

その結果、女性に生じる変化は
第1段階
恐怖により、身体的機能に変調が訪れることもある。
精神的なショック。
その後トラウマが続くが、
第2段階
人によって違うが様々な感情の起伏。Bトラウマの影響であることは共通しているが
、表現の仕方は違う。フラッシュバック、恥の感情、罪の意識。強姦への恐怖やそのほかの恐怖。制服を着ている人がすべて怖い。自尊心が低くなる。自分の体に対するイメージが変わったり、体がおかしいと思ったり、抑鬱症状。他人を信頼できない。記憶が無くなる。文字が書けなくなったり、話せなくなったり。
半年くらい続いた後、
第3段階
人を信用できない。閉じこもり。抑鬱。結婚できない。結婚したくないと思う。コミュニティとの関係が切れる。この症状は一生続くこともある
自殺に到る場合もある。
自殺については、どの段階でも可能性がある。子どももできて快復したと思った後に自殺することもある。恢復のために、社会正義は重要な意味を持つ。加害者に責任を問うことによって、被害者が持っている罪や恥の意識が消える、自分は悪くないと思え、自信が回復し、恐怖心が消チえる。謝罪や処罰がなされないことによって、トラウマは継続し、逆に、加害者に責任をとらせることによって、被害者の恢復は促される。公式に謝罪されること、責任を問われることは、私的なそれよりも、被害者の恢復にとって有力である。

 日本検事団からは「国家責任について」川口和子弁護士が陳述。中曽根元首相自身が「慰安所」の設置にあたったことを明らかにした本を証拠物として提出。また日本の教科書問題にも触れ、検定を通じて「慰安婦」に関する記述が減らされつつある問題点についても付言した。

 @次に、フリッツ・カルスホーベンさん(オランダ・ライデン大学名誉教授)が「国家責任」について専門家意見を述べた。国際公法の専門家の観点から、1907年ハーグ陸戦条約第3条に依拠し、日本の国家責任を追及し、かつその犯罪行為についての補償を行うべきであることを強調しオた。

 東チモールの慰安婦問題については関係者の努力によって、今回はじめて掘り起こされ、短期間に約15名の元「慰安婦」の人をみつけ、今回はその内2人が来日した。
その証言では、謝罪および補償をはっきりと要求した。彼女たちは日本に観光するために来たのではない、正ウ義を勝ち取るためにきたのだ、と強く訴えた。
 日本からは沖縄の「慰安婦」被害と加害の立証がなされた。藤目ゆき(大阪外国語大学助教授)さんが専門家として証言した。日本人女性の中にも「慰安婦」にされた女性は多数いた。その多くは公娼制度の女性であった。女性の出身がいかなるものであっても、その被害は性奴隷の一形態として考えるべきものであるなどの証言をおこなった。

 さらに日本軍元兵士(金子安次さん、鈴木良雄さん)からの証言があった。元日本兵は、中国において慰安所における集団レイプおよび民間女性へのレイプを行ったことを証言。その中で、「慰安所」の設置がかえって「慰安所」に行く金のない兵士を強かんに駆り立てたこと、上官は強かんを推奨していたことが明らかになった。自分たちの恥ずかしい過去を話すのは、戦争の事実が明らかにされることの重要性を訴えるためと述べた。

そして検事論告、裁判官コメントで終了。

夜はビデオ上映

夜はアジア文化の夕べ

12月11日 国際公聴会
「女性国際戦犯法廷」の一環として開催される「現代の紛争下の女性に対する犯罪」国際公聴会は、第二次世界大戦中元「慰安婦」女性に対して行われた犯罪が、今も尚続いているこアとを証明する機会となります。戦争では女性が戦いの標的にされ、戦利品として扱われます。これまで不処罰がいかに多くの犠牲者を生み出してきたかを公聴会は明らかにします。
 公聴会では、チアパス、コロンビア、グアテマラ、米国・中央情報局、アルジェリア、ブルンジ、シエラ・レオネ、ソマリアの国連平和維持隊、パレスチナ、コソボ、アフガニスタン、ビルマ、インドネシア、東ティモール、ベトナム、沖縄において、戦争や紛争下の女性に対する犯罪について証言がなされます。
更に、現代の「紛争」と女性に対する暴力について、専門家による分析が沖縄から「基地・軍隊を許さない行 動する女たちの会共同代表」共同代表の高里鈴代さん、バングラデシュから「モスレム法下に生きる女たち」のハミダ・フセインさんが発表されます。来春、国連に提出予定の武力紛争下の女性に対する暴力の報告書で、国連文章として初めて軍R事基地暴力問題を扱う予定の「女性に対する暴力」の特別報告官、ラディカ・クマラスワミさんが閉会の辞を述べてくださいます。

今までどのように暴力が行われ、今日までエスカレートしてきたかを明らかにするため、公聴会では多くの紛 争に共通して見られる以下のテーマを明らかにします。
 極限主義: 多くの国は、国家主義・民族・宗教・人種・多数派主義などの極端なイデオロギーを操る国家やグループ、組織によって、政治的不安定や紛争におとしめられ、市民が暴力や迫害の対象にされます。
 軍事主義: 侵略、国家抑制、軍隊の駐屯、また米国など強大な力をもつ国の外交政策が、今多くの国で紛争を引き起こしています。侵略や抑制、占領などの軍事行動は、人々の生活や社会を破壊します。
資源をめぐる紛争・暴力: 土地や領土、水などの天然資源の使用権利をめぐった争いは、歴史上常に戦争や紛争の原因となってきました。資源の剥奪は人々の生活を破壊します。また、結果的に引き起こされた戦争や紛争下でも民衆の人権が侵害されます。

紛争後の暴力、および平和と再建がもたらされない場合の長期的影響: 紛争後、和平合意に調印がされると再建期に入ります。多くの場合、和平と再建、復興のフ段階で女性が疎外され、受けた被害と和解する手段から遮断されると同時に、その紛争後の過程で女性は更に暴力の対象とされます。
 公聴会は、紛争下に犠牲にされた女性たちの痛みや苦しみを分かち合うと同時に、不処罰の循環の断ち切りをもとめて止むことのない、女性たちの戦いや行動に焦点があてられます。
主催 ジェンダー正義を求める女性コーカス ニューヨーク

世界の紛争地の12人の証言と専門家の解説
 ラディカ・クマラスワミ国連女性への暴力特別報告者 コメント
12月12日  法廷第四日目は日本青年館に場所を移して、判決(後繽q)が発表された。記者会見、デモ、国会議員訪問して一連の行事を無事終了。

詳細はVAWW-NET-JAPANのホームページをごらん下さい。正平協HPからもリンクできます。


back to top   00.01「JP通信」真実をとおして和解へ --グアテマラの教会の取り組み--

 グアテマラでは内戦によって20万人以上の尊い命が奪われたが、そのような過去に起こった暴力を二度と再び繰り返さないためにも、被害者の傷を癒し和解を促進し、破壊されたコミュニティ再建するためにもまず真実を知らなければならないと、レミー(歴史的記憶の回復)プロジェクトがグアテマラの司教団によって始められた。
 プロジェクトには4つの段階があり、まず和解アニメーターに軍事紛争の歴史、メンタルヘルスケア、証言の収集方法などの基礎訓練を授けた。次に養成されたアニメーターが村々に入って人々と生活し、対話する中で、暴力、虐殺についての6500の証言を収集した。さウらにこれらの集めた証言を分析し、全4巻1400ページにわたる報告書にまとめた。これを指導したヘラルディ司教が報告書提出後2日後に惨殺されたことは周知のとおりである。
 現在最終段階として、報告書の成果を人々に還元していくプロセス、記憶の回復、和解の推進がなされている。それはまず事実と向き合い、無惨に消されていった死者たちの声を聞き、彼等の尊厳を回復することから始まる。秘密墓地を発掘することがその作業の一環となる。虐殺の犠牲者の遺体を掘り起こし、マヤ文化の中での正式儀礼に従って葬式をし、死者を送りだす。そこで愛する人々が目前で、あるいは人知れずに殺されていった中で、「何も出来なかった」、「自分だけが生き残った」等の自責の念を引き摺ってきた遺族や村びとたちが、死者と初めて和解できる。そして自分達もまた癒されていく。しかし簡単ではない。1年間かけて村人たちと話し合い、村全体の合意を得てやっと発掘に至ったところもある。生き残った人々が虐殺の事実に直面できるようになるまで「時」が必要なのである。しかしそのプロセスの中で、死者との和解だけでなく、自分自身とも向き合い自分とも和解し、さらに共同体のきずなも深まっていく。そして犠牲者の記念碑を建て「シンボル」をのこし、将来の世代に「決して再びこのようなことがあってはならない」との教訓を伝えていこうとする。
 この他にも種々の課題がある。記憶の回復と共有もその一つである。報告書の民衆版を作成し、様々な教材、ワークショップやラジオ放送を通じて内容の普及をはかる。この民衆版を使って村々で「なぜ」「どうして」と出来事について問いかけ話し合っていく。この話し合いを通して過去を思い起こし、記憶を共有する。このように人々が自らに起こったことをよく理解し、自らの経験と犠牲者の尊厳を認識する。そして現実を抱きしめ、そこから新たに出発しようとする。このプロセスを通してお互いの信頼関係をとりもどし、破壊されてしまった伝統的共同体を再生し、自分たちの文化にふたたび灯を点す。こうしてあらたなローカルヒストリーが作り上げられていく。共同体との和解でもある。
 その他に「裁き」の問題もある。直接的、間接的に虐殺に関わった人々の責任問題だが、「訴追」は個人の問題として、プロジェクトはそこまでは立ち入らない。「免責」の問題も残る。しかし、犯した過ちを自らが認め、痛悔し、二度と同じ過ちを侵すまいとの決意がないところに免責はないとの立場は明確である。
 こうして加害者と被害者が混在するグアテマラ社会の中で、対立から共存へ、真実を通して和解への道が教会レベルで真剣に考えられ、大切な司牧活動として一司教の命を賭けてまで取り組まれている。人々の生命、歴史、記憶を忍耐強く織りなおしながら。


back to top   98.08「JP通信」訳:グアテマラ司教協議会「ホアン・ヘラルディ司教暗殺捜査経過に関するグアテマラ司教協議会の見解」

グアテマラの司教協議会の司教達は一般の方々、また国際的共同体、特にカトリックの方々に司教団の見解をお伝えします。

1.ホアン・ヘラルディ司教の惨死はグアテマラ大司教区にとって、また全世界のカトリック教会にとって大きな衝撃でした。この暗殺はホアン・ヘラルディ司i教の平和のための大切な仕事を中断させました。司教は共同体の和解のため、また武力闘争や人間の尊厳にたいする侵害のため、免責によって無視される犠牲者の尊厳を回復するために働きました。これは司教がグアテマラの大司教区の人権委員会の責任者として、またグアテマラ大司i教区の補佐司教でありながら司教協議会の歴史の記憶回復のプロジェクト・チームの長として疲れも知らずに推進してきた目標でした。

2.この暗殺の捜査やこれに附随して起きたいろいろな出来事はカトリック教会の信徒、一般の人々、世論を形成する人々に不安、猜疑心、疑問をも烽スらしました。根拠のない情報、それが特に世論を形成するような責任ある人から出ると混乱をもたらし、捜査結果を信じるのが難しくなります。証拠不足の場合、もっと突飛なうわさが飛び交います。

3.事実、今までのこの事件の扱われ方について我々は不満足であることをここでナ強調します。即ち、事件現場や証拠については異常なガードがされていますし、事件に関与していると思われる現及び前軍部将校を真剣に捜査していません。同様に事件の政治的意味を考慮することに対して抵抗があります。また今までに逮捕された被疑者についてはあたかも有罪であるかのように提示し、捜査段階では不必要な秘密主義を保持しています。

4.我々は真理と正義への取り組みを決して撤回しないとここで再度宣言します。たとえ誰が影響を受けようともそれには左右されません。わが国における権利擁護は、これらの前提が確立されてこそ強固なものフとなり、実現可能なものとなるのです。この意味でヘラルディ司教の暗殺事件を早急に解決するよう再度要求します。この暗殺事件の捜査が解明され、このおぞましい犯罪の実行犯および計画犯が裁判にかけられることをグアテマラのカトリック教会は願うものです。また犯人の上に立ァつ責任者である問題の軍が現実で説得力のある、堅固な、犯罪を証明する証拠を認めるようにと求めます。

5.マリオ・オランテ神父とマルガリタ・ロペスさんの逮捕にあたって治安軍が大げさに動いたことに対して、再び抗議の声を大にします。このやり方に対しては権威者でさえ、A法的正当性に疑問を差し挟んでいます。さらにこの逮捕の理由に関して法的機密を命じ、それを守ることによって、民衆の中に多くの噂、思惑、疑いが出て、捜査そのものに対する信用に陰をおとしています。

6. 神父が暗殺の容疑者となったことによって、われわれが真実を隠すよ謔、になるべきではありませんし、捜査の展開を妨害するものでもありません。我々としては、告訴の基礎となる証拠を公にし、容疑が正当であることを証明するように要請します。さらにこの犯罪の計画犯も捜査することを要求します。容疑者はその罪科と責任が証明されるまでは全くュ無罪であります。

7. 我々はヘラルディ司教を殺した人々は彼の身体を殺すばかりでなく、彼の仕事、その主なものは人権委員会とREHMIプロジェクトでしたが、それをも抹殺しようとしたのだと確信しています。グアテマラの司教団はこれらの仕事とその実りが、暴力によって中断されることのないように監視するという強い決意をここに表明します。

8. 人権といのちの擁護は福音宣教の中心部分です。意識のあるキリスト者は誰でもこの務めの中にいると感じなければなりません。「真の平和が緊急課題(106)」という司牧文書で確認したように、私たちが経験した暴力や死の状況を決して繰り返すことがないように過去から学ぶことが必要です。こうして私たちは過去の傷をいやして未来を建設することが出来るのです。

9. 現在カトリック教会は非常に困難な状況にあります。
 犯罪の疑いが司祭にかけられている時、多くの人の教ウ会に対する信頼、信仰がゆらぐこともあり得ます。私たちの信仰、確かさは神とその御子・イエスキリストのうちにあり、私たち人間の中にはないことを思い起こしてください。私たちは泥の器に福音の宝を持っています。その至上の力は私たちではなく神から来ます。(II.コリ.4,7)  今こそ、一致の証しをする時です。私たちの力と信頼はイエスキリストからくることを表す時です。イエスはこの世の終わりまで私たちと共にいると約束してくだったのです。

10. 追いやられた者、卑しめられた者の為にヘラルディ司教の残したメッセージを守ろうとする善意ある全ての人々に呼びかけます。平和のため、和解のため、我々の弱さを通して神のみ言葉を告げ、その神秘を祝うという奉仕へのコミットを再確認し、また神の国が私たちの中に実現するように努力しましょう。

グアテマラ、1998年8月7日
Mons.Victor Hugo Martinez. アルトス・ケツァルテナンゴ-トトニカパン大司教
グアテマラ司教協議会会長

Mons. Pablo Vizcaino Prado  
スチテペケス−レタルウレウ司教
グアテマラ司教協議会事務局長


back to top   98.08 「JP通信」  訳:『リオバンバからの叫び』


 レオニダス・プロアニョ司教の死と復活の10周年を機に司教の働きの場であったこのリオバンバに集まった我々は、チンボラソ山が高く聳え立つこの地から、ラテンアメリカの民衆の希望を共にし、『排斥された者の叫び』を自分の叫びとしてここに発表する。
 脱出と過ぎ越しのフ神、解放と生命のプロセスの中で民の叫びを聴いてくださる神は、教派を超えて我々をここに集めてくださった。またリオバンバ教区、その教区長ヴィクトール・コラール司教もわれわれを兄弟として寛大に受け容れて下さった。
 今年はリオバンバの司教であったプロアニョ司教の帰天記念とともに、メデジン会議の30周年、ラテンアメリカ教会評議会(CLAI)設立25周年、世界教会評議会50周年(CMI)にもあたっている。また全世界の教会と共にキリスト来臨2000年の大聖年を迎える準備もして時である。
 この記念の日々に我々は様々な共同体を訪問し、先住民やアフリカ系ラテンアメリカ人、司牧担当者、キリスト教基礎共同体のいくつかの集会にも参加した。その交わりを通して司牧者によって堅固に預言的に育てられた教会の中に力が漲っているのを目の当たりにすることができた。
 大聖年を迎えるにあたって、ここで我々もプvロアニョ司教の魂と活動を鼓舞した大事な根拠を自分たちの行いの原動力としていきたい。
-「貧しいもの」を選びとる:今日のように逼迫した状況はない。「貧しい者」はネオリベラリズムのシステムによって「排斥されたもの」となり、ラテンアメリカの70%を占めている。
-「先住民」(アフリカ系ラテンアメリカ人も含む)のために、特に彼等が土地を守り、自分たちの文化的アイデンティティーと社会的自治を生きることができるように闘い支援する。
-教会と社会の中で兄弟的な「まじわりと参加」の表現である共同体。
-ラテンアメリカの民衆と教会との連帯、また他の大陸、特に第三世界の教会と民衆との連帯。

1.「貧しいもの」を選びとること。
*市場第一主義、排斥のシステム、功利主義信仰、無統制の環境破壊を不断に告発していこう。次第に増えづづける軍備拡張、軍国主義、抑圧的な民間軍事組織も告発する。
*世界の各所であがっている声に合わせて、あの「多国間自由投資条約」という新しい形の残酷な侵略を告発しよう。
*我々民衆の生命と尊厳に反して蓄積された社会的債務と対外債務の取り消しをめざして、引き続き闘っていこう。
*先進国、開発国を優遇する国際的組織(国連、IMF、世銀、G8)の改革を再度要求する。また我々の国の政治制度、法制度、社会制度の改革についても要求しよう。
*ラテンアメリカ大陸で起こっている解放や平和のプロセス、免責や制度的暴力に対する抗議に実際に連帯し、支援していこう。特にグアテマラ、メキシコ、コロンビア、ハイチのケースを。
*民衆が政治に責任をもって参与したり、市民や民衆運動のデモ等に責任をもって参加するよう奨励する。
2.エキュメニズムの課題。キリストの真理と聖性を互いに補い合いながら保ってきた教会間のエキュメニズム。
*過去の野心とか、福音には必ずしも関係のない教義についての審議さえも乗り越える。
*「正義、平和と創造の完成ャ」のために預言的に奉仕する。
*エキュメニズムをさらに超えて、全ての宗教、特に先住民とアフリカ系ラテンアメリカ人の宗教とも対話する。受容、回心、自己批判の心をもって 、唯一神信仰、ひとつの人類家族という視点から出発する。
*カトリック教会の中央集権的行動や横柄な姿勢と、福音教会の細分派化を乗り越えるよう助け合う。
*洗礼と神の国への奉仕において皆同じであることを認め、信徒の教会への参加、特に女性の参加、教会の役務と決定機関への参加をも可能にする。
*福音の光に照らし、霊の自由をもって、典礼、神学や司牧のすぺてが文化に受肉するように努める。
*神の民としていつも夢見ている教会、つまりキリスト教基礎共同体、社会司牧を通して、福音、今の時、このラテンアメリカの中に誠実な創造力を通して聖書が結実する教会を建設していく。
 以上述べてきたことが我々の各々の教会や国において、ナザレ撃フイエスが回復した永久の真の喜びを生き、また生きる助けとなるよう願う。
 具体的には、いかなる勝利を祝う記念よりもはるかに超越した自分達の社会的、宗教的コンテキストの中で聖書的聖年の意味するものを具体化していくのである。それは個人的な回心と教会と社会の組織としての回心、信仰を生きる中で文化を受容し、正義と尊厳のともなう平和な兄弟的共生のなかで、土地を十分に回復して、衛生、住居、教育、情報、仕事が満たされ、具体的な状態の中でイエスの真の喜びを生きることである。
 我々の教会と民衆の歴史の記憶を大切にしていきたい「と思う。何世紀にも亘った闘いと殉教の遺産を消し去ってはならないし、その責任を感じる。このラテンアメリカとすべての第三世界、また連帯する第一世界の中の多く兄弟姉妹たちと手を取り合って歩んでいこう。
 われわれに強制されようとしているこの宿命的システムに対して、希望をもって対抗していこう。イエスの神が慈しみ深く共にいて下さることに信頼しよう。貧しい者の解放者、人類共同体の父であり、母である神に信頼しよう。
 カトリック教会 代表 サムエル・ルイス
 プロテスタント教会・福音教会 代表 フェデリコ・パグラ
 神学者代表 ホセ・コンブリン
 司牧者代表 ホセ・オスカル・ベオッツョ
 修道会代表 マグダレナ・バンデンヘーン
 信徒代表 アドルフォ・ペレス・エスキベル
リオバンバ、エクアドール 1998年8月30日


back to top     00.03「JP通信」オスカル・ロメロ大司教暗殺20周年

 去る3月24日はオスカル・ロメロ大司教が暗殺されて20周年にあたったが、エル・サルバドールではそれを記念して様々な催しが開催され、貧しく抑圧された人々に代わって声をあげたために暗殺された司教を偲んで、世界中から沢山の人々が集まって来ていた。
 23日には、暗殺Eの現場となった神の御摂理病院の聖堂にいった。ロメロ大司教はミサの最中、聖変化で御血を奉舉した時、一発の銃弾によって心臓を打ち抜かれ、こと切れたという。司教が倒れたその場所で様々な国から集まった司教たちがミサをあげ追悼した。
 その病院にある司教の部屋には血に染まった祭服その他司教をしのぶ品の数々がそのまま遺してある。
 ミサの後、町の中心までパレード。約8キロの道のりを思い思いのバナーや写真をかかげながら、歌を歌ったり、「オスカル・ロメロは今も私たちの心に生きている!」とか、「正義の声は決して殺されない」とかゥ、シュプレヒコールしながら歩く。
 沿道でもまた、人々が多くでてパレードを見守るが、日本のような警備の警官は見えない。途中、随所に建物の壁に司教の似顔絵や言葉が大きく描かれている。学生たちがその似顔絵を描いているところにも遭遇した。下書きもなく、あっという間に描き終えて次ぎに移っていく。
 約2時間炎天下を歩いた後カテドラルに着いた。広場には夜の催しのための舞台の取り付け真っ最中で間に合うのかしらといらぬ心配をしてしまう。
 カテドラルでもミサがあり、中は立錐のよちもない。中央通路両脇には50人位の少年少女がロメロ大司教の色々な場面の写真をもって起立していた。
 地下聖堂には大司教の墓があり、蝋燭、花束、カード等々でうめ尽くされていた。人々が真剣に祈っている姿を見ると、本当に貧しい人々の味方だったのだと判る。
 ミサ後、カテドラル横の大路をオスカル・ロメロ街路と命名すると市長によって荘厳に宣言された。
 夕方、郊外の大広場での記念ミサはカリフォルニアの枢機卿が主司式で約30人の司教と約200人の司祭による荘厳なもの。その後蝋燭行列がカテドラルまで行われた。
 カテドラル前の広場では次々とロメロ大司教関連のプログラムが続き、ビデオあり、証言あり、説教ありで翌朝の5時まで市民による集会が続けられた。
 何万人が集まったのか判らないが、人々のロメロ大司教に対する愛と感謝と思慕が感ぜられた。大司教の言葉「私を殺すことができても、私は生き続ける」がまさに実現していると実感したのである。


back to top     02.07「JP通信」訳 「国際総長会(UISG)総会の会議参加者の宣言」

UISG(Union Internacional de Superioras Generales)は女子の使徒的修道会総長の国際連盟であり、約2000の修道会(教皇庁立、教区立)が加盟し、傘下に100万人の修道女を擁している。
これは公会議が終わった年、1965年に当時の修道者聖省によって設立され、ローマに本部をおいている。そして修道生活のカリスマ的アイデンティティーを明らかにし、普遍教会と世界の発展に貢献すること、体験の分かち合い、情報の交換、各会のアイデンティティーを尊重しつつ、時代のチャレンジを見極め、それに適切に応えること、使徒座との関係を深めること、互いに連帯し、全体の益となる計画に協力し、交わりを強めること等を目指している。
 3年ごとに総集会が開催され、今年行われた総集会には約800名の総長たちが参加した。

 2001年5月13日 ローマでの代表者会議によって批准された国際総長会(UISG)総会の会議参加者の宣言
                       
全世界にひろがる女子修道会の100万のメンバーのリーダーである

  私たち、約800人の女性は
  テーマについて熟考し内省しました。 
修道女たちは、多くの文化を持ちながら、一つの心です。
 傷ついた現代世界に、神の憐れみと優しさの生きた現存となるよう派遣されました。

  私たちが住む国々と私たちの修道共同体において
互いに連帯して働こうと決意したことを、公に宣言いたします。
あらゆるレベルでの女性と子供への性的虐待と搾取を断固として告発するために
多国籍の営利な取引と化した_]女性の売買に_^とくに注目します。
 長年にわたる私たちの教育者としての伝統にもとづき、
引き続き、女性の教育と養成を促進し、
私たちの団体の内外において人的、経済的手段を充当し、
人生のあらゆる時期での女性としての全人的な啓発を確かなものとし、 内なる力を開発させ、生活の質を高め促進するために、
神から与えられた賜物を認め評価ることができるようにします。
人権擁護に献身する女性として

ここに新たに、私たちの最貧国との連帯を宣言し
対外債務の帳消しのために働く決意を宣言いたします。永続する暴力と紛争に反対する女性として

戦争ではなく、平和の文化を創造する決意を表明をいたします。
そして、政府や多国籍企業の指導者・責任者に
武器の売買を終結するよう呼びかけます。 

母なる大地が苦しむ環境破壊に敏感となり

いつでも、どこででも、でき得るかぎり

地球の温暖化と異常気象、そして

この地球上のあらゆる種類の生命を脅かすものを終息させるよう行動します。

教会と社会においてこれらの解決策を
私たちの間でのネットワークや
同様の選択をした他の組織を通じて、実行に移すことを約束します。

多くの文化を通しての叫び、唯一の声に耳を傾け
心の目と、愛である神の思いをもって世界を見、 
イエス・キリストの弟子として、女性としてこれに応えます。


back to top     02.09「JP通信」  グアテマラ

 8月にカリタスジャパンで支援しているグアテマラの女性のためのプロジェクトを視察しました。36年にわたる内戦で死者行方不明者が20万人、難民150万人でたといわれる国です。内戦で夫を失った先住民女性たちが中心になり、家畜の養育、裁縫、ハンモック編み、菓子作り 等々のプロジェクトを実施し、わずかな収入を得ています。プロジェクトを通して女性たちだけで話し合い取り組みを決定し、申請書を書くことを覚えたり、やり方を教え合い、励まし合う等のプロセスで、女性の能力が開発されてきました。あるグループは少しの利益の中から資金を捻出し、今度は自分たちより貧しい人々の支援に使うとのことで、利益を独り占めせずに分かち合うという文化を垣間見る思いがしました。
 日本で一番暑い時にグアテマラにいて、少し助かったかな、というところ。その代わり、最後の日に対抗車が中央車線を越えてこちらの車に側面衝ユ突。車が横転して、窓から這い出して助かったというスゴイ体験をしました。正面衝突だったら、後部席の真ん中にいたわたしはフロントガラスに首を突っ込んで、死んでいたかも。「いのちは神様のものなんだ」といたく実感した旅でした。

 8月にカリタスジャパンで支援しているグアテマラの女性のためのプロジェクトを視察しました。36年にわたる内戦で死者行方不明者が20万人、難民150万人でたといわれる国です。内戦で夫を失った先住民女性たちが中心になり、家畜の養育、裁縫、ハンモック編み、菓子作り 等々のプロジェクトを実施し、わずかな収入を得ています。プロジェクトを通して女性たちだけで話し合い、取り組みを決定し、申請書を書くことを覚えたり、やり方を教え合い、励まし合う等のプロセスで、 女性の能力が開発されてきました。あるグループは少しの利益の中から資金を捻出し、今度は自分たちより貧しい人々Xの支援に使うとのことで、利益を独り占めせずに分かち合うという文化を垣間見る思いがしました。
 日本で一番暑い時にグアテマラにいて、少し助かったかな、というところ。その代わり、最後の日に対抗車が中央車線を越えてこちらの車に側面衝突。車が横転して、窓から這い出して助かったというスゴイ体験をしました。正面衝突だったら、後部席の真ん中にいたわたしはフロントガラスに首を突っ込んで、死んでいたかも。「いのちは神様のものなんだ」といたく実感した旅でした。

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 8月にカリタスジャパンで支援しているグアテマラの女性のためのプロジェクトを視察しました。36年にわたる内戦で死者行方不明者が20万人、難民150万人でたといわれる国です。内戦で夫を失った先住民女性たちが中心になり、家畜の養育、裁縫、ハンモック編み、菓子作り 等々のプロジェクトを実施し、わずかな収入を得ています。プロジェクトを通して女性たちだけで話し合い、取り組みを決定し、申請書を書くことを覚えたり、やり方を教え合い、励まし合う等のプロセスで、 女性の能力が開発されてきました。あるグループは少しの利益の中から資金を捻出し、今度は自分たちより貧しい人々の支援に使うとのことで、利益を独り占めせずに分かち合うという文カ化を垣間見る思いがしました。
 日本で一番暑い時にグアテマラにいて、少し助かったかな、というところ。その代わり、最後の日に対抗車が中央車線を越えてこちらの車に側面衝突。車が横転して、窓から這い出して助かったというスゴイ体験をしました。正面衝突だったら、後部席の真ん中にいたわたしはフロントガラスに首を突っ込んで、死んでいたかも。「いのちは神様のものなんだ」といたく実感した旅でした。


back to top     01.07「JP通信」書籍紹介「北村兼子-炎のジャーナリスト」 大谷渡著  東方出版社  定価2500円+税

 短い生涯を走り抜けたジャーナリスト北村兼子を、簡潔明快にまとめてくれたこの本を読み、いたく感激したので、多くの方にこの思いをともにしてほしいと願ってここに紹介することにしました。

 まず北村兼子の略歴をこの本に従って簡単に追ってみましょう。
1903年11月26日、大阪で漢学者の長女として誕生。
1922年10月官立大阪外国語学校(現大阪外語大)に入学。
1923年10月関西大学で男女共学制が実施されると早速応募。しかし女性は聴講生としてしか認められず、法学部法律学科に聴講生として入学。
1924年3月 外国語学校英語科終了、同じく関西大第一学年終了、試験及第。独法と独語は100点をとり周囲をあっと言わせる。
同年5月 高等試験(司法科)また6月には高等試験(行政科)を出願、女子であるため受験不許可。
1925年4月 法科在学のままで大阪朝日新聞社に社会部記者として正式採用される。
1926年3月 関西大で所定の全科目を聴講終了。
1927年7月 幾多の中傷を受け、大阪朝日を退職。
後、フリーライターとして活躍し数々の国際会議に参加。
1930年暮 立川の日本飛行学校に入学。
1931年7月6日 飛行士の免許を取得。8月14日にヨーロッパへ単独飛行出発予定。
1931年7月13日 盲腸炎になり慶応病院に入院、腹膜炎を併発し、7月26日 27才で死去。

 北村兼子が実社会で活躍したのはわずか7年でしたが、その間に多くの著作を残しました。男性を凌ぐ卓抜した才能を持ちながらも、女性であるが故にそれを十全に生かせない悲哀を体験した彼女は、女性差別の制度に疑問を感じ、力強い訴えをなげかけてました。機知に富み、痛烈な皮肉と歯切れのよいその語り口は私たちにとってパンチのきいた激となります。またこのようなリベラルかつラディカルな思想をもつ女性を受け止めた時代が日本にもあったことを思い、あらためて賞賛と羨望を感ぜずにはいられません。
 夭折であったが故に忘れ去られようとしている北村兼子のその主張を今こそ見直し、それを引き継いでいくことがこの本を読んだ私たちに課されるのではないでしょうか。

 以下、この本に描かれた彼女の思いや文章をひろい、その魅力を紹介してみたいと思います。

<下駄直しの授業>
 『こんなことが学校の課題の中にいれるべきものか。こんなことで勉学の時間を費やして歩調を揃えて衆愚を社会へ送り出す。だから女は賢いものがなくなる、と思いながら先生の言はれるとおり、魂のない手を動かして、下駄なほしのマンナーを覚へた。先生から北村さんは手工が旨いと誉められた時、擽ぐったい冷汗が流れた。
 次の国語の時間で、女学校教育は何を目的としますかと言って先生は、その次に来るべき「賢母良妻」といふ答を期待した、その時私は起立して「馬鹿ものを」を対えて皆から笑声を浴びせかけられた。
 家へ帰ってその話をすると、お父さんは「つまらん事を教へてもらうな、そんな時間は欠席して活動写真でも見に行け」といった、その夕、家族づれで新淀川の堤防を散歩した時、石に躓いたお父さんの下駄は鼻緒を切った、ここだと私は手際よく前鼻緒をたててあげると、「女学校で教はったことが役に立ったのは空前じゃ」とお父さんが感心して見ていらっしゃる、「では欠席もできませんね」と私は隙さず打ち込んで、また皆から笑われた。』

<婦人問題を鷲攫みにして>
 『彼女等が教はったことは大きな嘘である。先生は「女は奴隷に甘んぜよ」という耳ざわりの悪い言葉を修身に用いないで「女は女らしく」といったやうな、円滑で狡猾な陰険的感化を以って限定せられた不自由な範疇の内に女性を追い込んでします、、、女学校が門戸をひらいて学生を迎える主たる目的は、奴隷観念の潜入的注射を施すためで、女子教育拡張という美名の下に奴隷の大量生産を試みている。』

 『「婦人運動は純然たる性対性の争いであります。階級闘争とは別ものであります。性別による差別待遇を撤廃して、男性にむかって水平運動を起こしているその中核をなすものは、参政権であります。」』 

 『女性を蔑視する男性の頭の働きが「男性専制」と軍備拡張を生み出している。、、、世の中に何か惜しいといっても、軍事費ほど惜しいものはない、それだけの金を平和事業に使ったら国土は美化され、人類は幸福になり、その半額でも教育に使ったら人知は躍進して有用な発明もできるであろう』

 『「平和を唱えるものがなかったら、どんな時代においても戦争は不可避である」。「婦人参選時代の進展するまで、破裂なしに推移させたい」。「日本の婦選が許されるならば、暗い極東の空から明るい外交の光を放つことができる」』


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98.04「東京正平委ニュース」フィリピン「パンパンガ・デルタ開発計画」に反対する現地陳情団が来日して


「予定通り来日しますか?」「さあー」
「結局何人来るのですか?」「さあー、4人か5人のはずですが....」
「あさっての竹村議員との面会、大丈夫でしょうね?」「さあー、大丈夫であるようにと望んでいるんのですが....」
 これが陳情団来日一日前の会話である。
 夕方になってビザがやっと取れたという連絡が入った。フーッと安堵、しかし疲れがどっと出た。これからが本番なのに。最後の最後まで気をもませ、結局はどうにかなってしまうのがフィリッピンの常。それが判っていても、こちらは気をもんで疲れ切ってしまう。またも「してやられた」という感じ。
          *      *      *      *
 パンパンガ・デルタ開発計画はマニラ湾に注ぐパンパンガ川を拡幅し、洪水を制御し農地潅漑を行うことを目的としている。日本政府の海外経済協力基金(OECF)からこの計画にたいして有償援助金が出され施工される。比政府統計によれば洪水制御の第一期工事によって1732世帯と10の学校、12の教会が立ち退きを余儀なくされる。しかし現地住民組織PINTIGの推定によるとその数は7766世帯、62の学校、54の教会に上るという。すでにマニラ湾から7kmにわたって80mの川が堤防を含めて1000m幅まで拡げられた。そのためマニラ湾から海水が逆流し、塩害が始まっている。今まで1ヘクタール当たり60カバンの米の収穫があったのに、去年は1ヘクタール当たり4カバン、それも質が悪いので精米すると2カバンほどに減ってしまったという。
 この計画は経済性の問題、社会的・法的問題があると指摘されている。つまり憲法や地方自治法に規定されている住民の意見聴取や地方議会での審議がなされていない。また工事施工のために必要な環境審査証明の手続きが特例として大統領令で免除されている。経済性の問題も洪水対策、潅漑の目的のみでは莫大な額を要する工事としては利があるとはいえない、従って洪水対策、潅漑という名のもとに、実はもっと巨大な利益をもたらす「なにか」のために施工されると住民は考えている。事実、川の上流には大きな工場が建設されたり、土地の買い占めが始まっているという。
          *      *      *      *
 この3月に来日した陳情団は被害をもろに受けるカルンピット市の市議でPINTIG議長でもあるパイン・トレンティーノ、当該州ブラカンのバヤン議長で女医のネナ・レイェス、被害者農民代表のプリン・サルミエント、環境発展研究センター所長、パンパンガ・デルタ開発計画反対ネットワーク書記のリサ・ブニングの女性3名、男性1名の一行であった。当初はカルンピット市の市長も来日予定であったが、選挙のため実現しなかった。
 彼らは下記のような日程で、この開発計画に対する日本の資金援助を一時ストップし、まず住民の意見を聴取してから援助を再検討してほしいと繰り返し訴えた。
 陳情行動は到着翌日の11日午前から早速始まった。参議院議員会館で竹村泰子、近藤昭一、斉藤勁諸議員と外務省、OECF担当者、及び経済企画庁の担当者を交えて、パンパンガ・デルタ計画による被害状況を訴え、工事と日本からのODA援助の一時中止と再検討を陳情した。しかし外務省の有償資金協力課佐渡島志郎課長は自らが昨年現地に赴き、人々と話し合って賛成の意を表した住民が多いとの感触を得たという経験をとうとうと述べたので、陳情団の陳情より外務省の説明の方に多く時間がとられ、制限時間になってしまった。それで竹村議員の仲介で翌日、外務省佐渡島課長他に再度面会することが出来た。その話し合いを通して「現地で被害状況を調査するプロジェクト」を日本大使館に提出すればODAの一部、草の根運動への援助枠の中から資金援助を受ける可能性があることが判った。前日と違って陳情団もよく話を聞いてもらえたという印象をもつことができた。
 その夜は四谷の双葉学園同窓会会館で集会。約百人が集まり、浦和教区作成のパンパンガ・デルタ開発計画のビデオを見、訪問団から直接に問題点、被害状況の説明と訴えを聞いた。予想を越えて沢山の方が来て下さったのでおおいに力づけられた。
 13日は衆参両議院議員会館で清水澄子、大脇雅子、土肥隆一諸議員、萱野茂、保坂展人、辻元清美諸議員秘書に面会し、現状と問題を説明して支援をアピールした。一般的に現在ODAのやり方が問題になっているので、一様にどの議員も好意的に話を聴いてくれた。特に清水澄子、大脇雅子両氏は与党であるため、反応が具体的でたのもしく感じた。前日の外務省でのプロジェクトに対する資金援助の可能性についてもさらに説明を受け、確認して、陳情団としてはかなりの成果を得たという感触だった。
 その他、NGOグループとの集会、一橋大学での学生集会、プロテスタント川和教会での礼拝集会、カトリック目黒教会の英語のミサ、アジア共同行動主催の集会に参加し、多くの人々に現状と問題を説明し支援をアピールすることが出来た。
 毎日毎日、二つ三つの集会をこなし、実に精力的に動きまわる陳情団の底力には驚嘆した。きっと自分たちの周りで実際に苦しんでいる人々一人ひとりの顔を思い出して、力を振り絞らずにはいられなかったのだろうと思う。
          *      *      *      *
 最後になりましたが、この開発計画反対と陳情団招聘のために日本の各地から沢山のご支援と署名協力をいただき心から感謝しています。今後ともこの動きに関心をもっていただければ幸いです。どうぞ宜しくお願い申し上げます。


back to top     99.05「JP通信」ドメスティック・バイオレンス(DV)
 女性に対する暴力(以下DV)は、社会、階層、時代を問わずに存在するのに、社会的な問題とみなされず、家庭内や個人の問題として隠されてきた。その背景には「法は家庭に入らず」として法的処罰の対象になりにくいこと、被害者の女性が伝統的な女性役割に縛られていること、男女間の経済的社会的不平等の差別構造などがある。ここでは日本におけるDV、儒教の影響、女性および男性の意識、その対策等について、下記の本を参考にして簡単にまとめてみた。
日本に於けるDV
 「家庭の問題は何であれ、家の中で解決する」という考えによってDVは中々表面化しない。暴力を受けた女性は暴力の犠牲となったことを恥ずかしいと感じ、また恥は家族全体に及ぶと考えてしまう。
 また「警察の民事不介入の原則」で、DVは夫婦の間の痴話喧嘩でありそれに介入できないとして、暴力を受けても警察沙汰には中々ならない。また日本社会には「男は支配するもの、女はそれに従うもの」という規範が浸透して、DVの被害者は「もうちょっと、あの人をたてなさいよ」、「あなたが家の中をめちゃめちゃにしているから、そうなるんじゃないの」、「そういう言い方をすれば、そりゃ怒りますよ」と家裁の調査官にさえ言われる。これらの言葉はDVの原因があたかも被害者にあるような印象をもたせる。
 性差別に起因する「夫の暴力」は「支配、征服、所有」の実行で妻の奴隷化であり、その人の人格を殺していくことであるのに、ほとんどの人や社会はそのことに気がつかない。夫の方も暴力をふるったとは思っていないし、妻も被害を受けているとい「う認識がない。
 ある二つの裁判の例が日本に於けるDVの意識を垣間見させてくれる。一方は妻が視覚障害者の夫の暴力を受けて死亡する事件(1996年)。死因は全身打撲。懲役3年、執行猶予5年の判決がでた。他方は妻が夫の暴力に耐えられず、寝ている夫を金属バットで殴り殺した事件(1997年)。殺人事件として裁判が行われ、懲役6年の実刑判決がでた。加害者は片方は男性で片方は女性、傷害致死事件と殺人事件という刑法上の違いはあるが、そこにあるのは夫からの暴力である。
 また98年5月NHK「クローズアップ現代」で夫婦間暴力を放映した後、<みずら>の相談室(横浜で90年に発足した女性相談室)に約2時間で60数件の「夫からの暴力」の被害を訴える相談電話があったという。<みずら>での普通の相談電話のうち暴力は全体の中で20%位で、シェルターの利用者の60%が暴力の被害者という。
被害者である女性特徴
 被害者は自己評価が低い、自分を責めやすい、伝統的性役割の固定観念をもっている、無力感、恐怖、怒りの感情、暴力をそらすための配慮、だれも助けてはくれないと思い込んで社会的に孤立し、相手に服従するなどの特徴がある。女性たちにとって理想的なのは、我慢強いこと、くじけないこと。女性は家庭内の責任を負っているので、夫のことで苦情をいうとたとえ家庭内暴力のことであっても、家庭内での役割を十分果たしていないからだと責められる。
加害者である男性の特徴
 暴力を振う側も共通した特徴や信念をもつことが多い、しばしば伝統主義者であり、性別役割の固定観念、男はかくあるべき、女はかくあるべきという「男らしさ」「女らしさ」にこだわり、男性優位、家族に対して支配的であることが男らしいと信じている。自己評価が低い、依存的感情、嫉妬深さ、とても暴力を振るうようには見えない極端なおとなしさから極端な攻撃性に転じる二重人格性をもつことが多い。
儒教の影響背景にある
*男は強きを以て貴しとし、女は弱きを以て美となす。(『女誡』)*女子、才なければすなわち是れ徳。
*夫は妻の天なり。(『儀礼』喪服篇)*婦に三従の義あり、自分勝手の道なし。まだ嫁がざるは父に従い、嫁いでは夫に従い、夫が死せば子に従う。(『儀礼』喪服篇)*婦に七去あり、父母に順わざるものは去る、子無きものは去る、淫なるものは去る、妬なるものは去る、悪疾あるものは去る、言多きものは去る、窃盗のものは去る。(『大戴礼』本命篇)等々の考え方が、日本人の発想に影響している。
 また教育目標などで良く言われる「良妻賢母」:家庭を守り、子どもを生み育てる」というこの言葉は、明治時代にさかんに提唱され、今日の日本での理想的女性像として言われるが、これは「女性には妻と母という役割しかない」ことを正当化すキるために使われたという。
DVへの対策
1.DVとしての認識を徹底すること。
^「あれは暴力だ」_「あの行為は私の尊厳を踏みにじる行為だ。」`「私はあの人からコントロールされている」a「これは私だけに起きた、たまたまひどい男を結構した私が悪かったということで済む問題ではない。公共の問題なんだ」との認識。
2.DVは加害者になる男性の問題であるとの認識を徹底すること。
3.あらゆる「女性に対する暴力」に「ノー」と言いつづけること。
4.社会の仕組みの中で、物事を暴力によって解決する手法を許さないこと、暴力は犯罪である、というきちっとした対応をすること。そのような社会構造、世論を作っていくこと。
5.警察は夫からの暴力の被害を訴えられたとき、それに対して正しく対応すること。暴力をふるう夫が被害者に近付かないようにする裁判所の仮処分の申請をすること。
6.民事不介入という警察の言い訳を正すために、妻が被害届を出せば刑事事件として扱えるので、そのサポートをすること。
DVの被害者は以下のことで周りのサポートを必要としている
*どうやって離婚できるのかわからない。離婚にいたるまでの精神的な圧迫を受ける。
*本当は離婚したいのだが、子どもの将来のことが不安で踏み切れない。
*離婚後の生活の厳しさ、住む家さがし。保証人さがし、仕事さがし。
*収入が少ない。(母子世帯の収入は一般世帯の三分の一)
*「自分がそういう男性を選んでしまった」という責任を背負っている。誰にも相談できない。
*暴力のひとつとして、親、兄弟、友人との付き合いを規制される。彼等に頼れない。
*実家に逃げてきても、夫が執拗に追い掛けてくることがあり、家族もなかなか関わりたがらない。
*「外」と「内」の夫の顔が違う。誰も暴力を信じてくれない。力になってくれない。
*周りの人の理解が得られないだけではなく、周りが被害者を批判する。
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参考資料
1.女性に対する暴力--フェミニズムからの告発-- 森田ゆり、福原啓子、渡辺和子
 ウィメンズブックスブックレット5  (ウィメンズブックストア松香堂)1998.11.10発行
2.女の叛逆 No.46 --特集:「夫の暴力」は犯罪です-- 久野綾子発行 1997.12.30
3.アジアの女たちと宗教    山下明子著。解放出版社。1997.8.15
4.「女性への暴力」--アメリカの文化人類学者がみた日本の家庭内暴力と人身売買-- シャーマン バビオー著 (大島静子等剿) 明石書店


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02.08 聖書と典礼 平和旬間 

 目はうつろで口もきけなく、 空爆によるトラウマに苦しむ女性。寒さに震え、援助物資を待ちこがれる老女。履き物もなく、よごれのこびりついた足で寄ってくる子どもたち。これはアフガン難民のキャンプで出会った人々です。この空爆で殺された人への賠償金が10数万円、でも9.11で殺された人には億単位が支払われるとか、この爆撃によって莫大な利益を得た武器製造会社の筆頭株主が元大統領とか聞きます。
 一方コロンビアでは、農民の土地問題に奔走していたドゥアルテ司教がこの3月に暗殺されました。庶民の立場に立って、ゲリラにも軍部にも恐れず発言していた方でした。超大国が麻薬とテロ撲滅という大義名分でコロンピア・プランを設置し、政治、軍事、経済上のてこ入れをしているのです。
 世界の様々な地域で未だに悲惨な紛争が続いています。あんなに戦争を続けて、どうして武器が底をつかないのでしょう?
 今こそ、エル・サルバドールのオスカル・ロメロ司教の強烈な挑戦を思い起こしたいものです。「兵士の皆さん、聞いてください。軍の人殺しの命令に服従する必要はありません。今こそ命を大切にせよという神の掟に従うべきです。」と説教し、20余年前、ミサの最中に殺されました。
 平和ボケしたと言われる日本では、戦争法制がまかり通っています。これによって戦争に加担することにはならないでしょうか。加害者にも被害者にもなりたくない私たちのはずですが、、、
 平和のために働きたいものです。まず気づく、どうして?って不思議に思う、尋ねて事実を知る、そして自分に出来るところから始める、平和を築くために。この「きづく〜きずく」プロセスが大事ではないでしょうか?
石川治子(カトリック中央協議会)


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99.06「福音宣教」荒野にて   バングラデッシュ                  

 初めて訪ねる南アジアの国、バングラデシュ。新しい出会いへの期待と一抹の不安をもって飛行機から降り立ちました。熱気がむっとします。日ざしは強烈で目をさすようでした。
 飛行場から首都ダッカの中心街への道、車のクラクションがすごく、とりわけ自分が乗っている車のフクラクションの音が耳をつんざくようでした。道路のまん中を走るリキシャ(戦後日本にあった人力車のような乗り物)を追い散らすため、運転手がガムシャラに鳴らすのです。先進国のお客をのせているんだぞ!といわんばかりで「そこのけ、そこのけ」です。ですからクラクション唐ェ鳴るたびに胸がキュットしました。それでもリキシャはかまわず(それがせめてもの『救い』でしたが)自動車の間をうまくぬって走ります。赤信号で後ろを見ると、いつの間にかリキシャが何台も何台も追い付いてきていました。骨と皮だけのような痩せこけた人が客を2、3人はヘ乗せていました。信号を待つその白目がギョロッとひと際目立ちました。
 今回の旅はカリタス・ジャパンから派遣されて、カリタス・バングラデシュのプロジェクトを視察することでした。
 あちらのカリタス事務局に到着するや、スタッフから当地のカリタスの組織、運営、活動ョについての説明を受けました。そして翌日からは訪問スケジュール満載で、田舎や都市スラムの教育施設、病院等々をいくつも案内されました。その中の親のない少女たちのための施設が、なぜか出てきたスタッフが男性だけだったのがひどく気になりました。
 昨年の大洪水の後の復興プロジェクトも見て回りました。木の幹に着いた痕跡で水位が判り、その洪水のすざましさを想像することができます。しかし皮肉なことに今年は雨がなく、旱魃に苦しんでいるということです。確かに広い田畑の中に掘られている用水池には水がほとんどありません。濁った泥水で洗濯している人々の姿が痛々しく映りました。
 洪水の時に救援活動がなかなかはかどらず、被災者が多くなった理由のひとつとして、女性意識の問題があったと聞いていました。厳格なイスラム教徒は、昼間女性が一人で外出することを許さないので、水没した村落にボートで救援に行っても、一人で家にいた女性は夫の許可なく外に出られないと言い張ったそうです。それで救援の手間が二倍、三倍もかかり、被害が倍増したという話でした。
 そんなこと!と半信半疑だったので、このチャンスにカリタスのスタッフに確かめてみました。即座に、原理主義の人々の間ではそのようなことは多いにあり得る、との応えが返ってきたので、今さらながら愕然としました。さらにこんな話もしてくれました。
 ある朝、一人の女性が自分の畑に行くと昨日まであった桑の木が全部根こそぎ切り倒されたいたというのです。市民運動グループの指導でナ100本の苗を植え、丹精に世話をし、やっと葉も茂り、それを養蚕業者に売って生計がたてられるようになった矢先のことでした。しかし女性がその様なことをするなど、原理主義者にとっては絶対に許せないことです。夜の間に他人の畑にやって来て、怒りまくって100本全部切り取ってしまったということです。信じられないようなことが当たり前のように起こっているのでした。
 ですから女性の意識向上のために働いている市民運動グループはこのような原理主義者の標的になり、攻撃を受け、危険にさらされることがしばしばある、とも聞きました。
 カリタス・ジャパンもバングラデシュの女性の地位向上プロジェクト、識字教育、自立プログラム等の援助申請をよく受けます。今回の旅でこの申請の背景が少し理解できるようになったと思います。このような実情をかいま見て、何かしたいと心に燃えあがってくるものを感ぜずにはいられませんでした。


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98.12 聖書と典礼 クリスマス「喜び」

 キリストの誕生は「喜び」だ、「祝い」だ、「救い」だ、という。でもクリスマスのミサにでて嬉しくって小躍りしたことがあっただろうか、「ああ救い主が来てくれた!」「救われた!」って心から有難く思ったことがあっただろうか。     .......<自戒をこめて>........
**************
 最近エクアド−ルのリオバンバという町で国際連帯会議があった。並行して中南米の司教/神学者会議も開かれていた。会議の最後に町の体育館で合同ミサが捧げられた。6千人収容のスタンドは人また人でうめ尽くされていた。階段も座席も見分けがつかず、隙間のある所をかまわず上り、どうにか座れる所を確保した。反対側のスタンドを見ても超満員で、先住民の人が多く民族衣装が色鮮やかだった。そして子どもたちが器用に人垣をかき分けて典礼文や本を売って歩いていた。
 ミサは歌、踊りが満載だった。司教の挨拶や説教には拍手をしハンカチを振るし、説教の途中でも合いの手が入り「司教は貧しい者の側にいてほしい!」等々大きな声のうねりとなった。またここぞという時には横断幕を一斉にあげたり風船をあげたりで、しっかりと「お祭り」になっていた。クライマックスは司教会議声明文「リオバンバからの叫び」が発表された時だった。声明文は現在の自由市場の経済システムによって排斥されていく人々の叫びを代弁していた。中々なりやまない拍手をきいて、今、実際に苦しんでいる人々の心の叫びが痛いほど伝わってきた。「判ってもらえた」「希望が見える」「頑張っていこう」と、経済社会から置き去りにされた人々のこんな想いが天に上っていくようだった。
 ミサは3時間以上かかったが、時計を見ることもなかった。希望に溢れた。嬉しくなって隣の人と友だちになった。そして皆元気になって帰っていった。
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 今年こそ「喜び」のクリスマスでありますように。


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98.03「福音宣教」荒野にて  [過去と真摯に向き合って]                   

 先日、南アフリカの話を聞く機会があった。アパルトヘイトで苦しんだ人々がその過去とどのように向き合っているか、という話だった。95年7月に制定された「国民の和解と統一を推進する法」によって「真実和解委員会」が設立された。それはアパルトヘイト体制下で行われた政ュ治的抑圧や人権心外の真相を明らかにし、被害者の復権をめざすと共に、民族j和解たっせいするために設置された委員会。時代の「重大な人権侵害」について(1)事実を明らかにすること、(2)事実をすべて明らかにした「加害者」にアムネスティ(免責)を認めること、(3)「被害者に」補償を行うことを目的としている。その特徴は「真実の追求」と「アムネスティ」の二つである。真実に過去を語ることを重視する。被害者は申し立てをし、実名で公開ヒヤリングが行われ、調査が綿密に行われる。被害者と加害者が直面する。そこでは今まで全く無視され、排除されていた人がミスター◯◯と呼ばれる。これだけでも名誉回復となり、被害者/遺族側に許そうという気がおこってくることもあるという。加害者として訴えられた人は「真実を語る」ことを要求される。真実を語っていると認定された者にだけその過去の過ちが免責される。B「真実和解委員会」は裁く機関ではない。真実を語っていると認められなければ委員会の裁定で通常の裁判へまわされる。因みにボーク元大統領は委員会の呼び出しを拒否している。再度拒否すると真実解明に協力しなかったということで投獄されるという。この委員会の設置は国会でナ決めたことなので、これに遵わなければ法的制裁が科せられるのである。
 この委員会の委員長はあの有名なツツ大司教である。さらに調査、聞き取りの段階で、農村にいって、読み書きのできない人々に対して、この制度のキャンペーンをし、地道に聞き取り調査ができるのはイスラム、ユダヤ、キリストの諸教会であり、それらが重要な役割をはたしているという。
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 この話を聞きながら、中米グアテマラを思い起こした。二年前に訪れた時、どこの教会も活き活きしていたことを。
 グアテマラでは70年代から80年代に15万人lもの人が虐殺された。そのほとんどがせん住民の人々である。犠牲者の90%が政府軍によって10%がゲリラによって殺害されたという。

グアテマラのカトリック教会では「歴史の記憶回復プログラム」という人権侵害の証言をまとめる運動を全教会レベルで行っている。親、兄弟、友人が虐殺されたのを目撃しながらもその記憶を心の奥底に秘めていた人々が、ぽつりぽつりと語り始め、25、000人もの自発的告発者がでてきたという。当初、教会が意図したことは犠牲者が語ることによって心をいやすことにあった。しかし蓋をあけてみると被害者ばかりでなく、自らが虐殺にかかわりその行いの重みに耐えかねていた加害者も、真実を語るために教会を訪れて来たという。聞き取りは一応ひと段落つき、今春その報告書がでる予定である。 
どちらも真実に向き合うことにより、いやしがうまれることを証している。

真実と真正面から迪き合いながらも、 「復讐」から「共存」へという戦争責任論の展開に、教会が新たな方向付けを見い出した一例ということができるのではないだろうか。


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1997年12月7日 待降節第2主日 ルカ福音書 3:1ー6

「荒れ野で叫ぶ声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘とはみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを見る。』」_ 今日の福音を読んで一番始めに思ったことは「山と谷がなくなってみんな平らになってしまったら、なんて殺風景な景色になっちゃうんだろう」ってことでした。神の国、神の救いはおいしものがいっぱいある宴会にもたとえられ、すっごくステキなはずです。山あり谷あり、緑がいっぱいの景色の方がずっとステキではないですか。_ こんなことも言っていられないので、「山が低くなるってどういうことなんでだろうか」と思いながら何度も読み返してみました。バルクの預言では「すべての高い山、はてしなく続く丘は低くなれ、谷は埋まって平地になれ、と神は命じられた」と神ご自身が命じられる業であることがいわれています。 _そこで聖母マリアが懐胎した後、エリザベトを訪問した時に歌った神への賛歌がふっと思いうかびました。今でこそマリアは聖霊によって身ごもったと簡単に言いますが、あの時代では普通に考えれば大変なことです。現代のシングルマザーに対する差別の比ではありません。当時の片田舎、狭い社会の中で、疑いと軽蔑の目でみられ、噂は噂を呼び、ひそひそといやなことを囁かれたでしょう。ヨセフからさえ初めは疑われ、婚約解消までいきそうでした。_ そのように周りからメッチャクチャに打ちのめされたマリアは、エリザベトを訪れるのですが、そのエリザベトに何と言われるかちょっと心配だったかもしれません。でもエリザベトは「主のお母さまが私のところに来て下さった」と叫びました。その言葉こそマリアを救いました。マリアの信仰は強められ、主への信頼も深まりました。山が低くなり、谷は埋められることを実感できたのです。それは本当に良い知らせだったにちがいありません。だからこそ心底から神の業を讃える詩がほとばしりでました。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。_権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高くあげ・・・・・」と_ 現代はますます山がそびえ、谷底が奈落の底になっています。私たちは谷底にいる人々が「神はわたしたちに偉大な業を行われ、わたしたちは喜びにあふれた」といえるようにと、キリストを待ち望み、その道を準備するヨハネになるのです。でもちょっと待って。私も崩される山の真っ只中にいるのではないかと思えてきました。   

  _ _ 日本カトリック正義と平和協議会 石川治子


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97.11「福音宣教」荒野にて 顔の見えない開発                       

 久しぶりに訪れたフィリピン。きれいになっていた。マニラは高層ビルが軒並みそびえている。タクシーはドアもちゃんと閉まるし、床から道路がみえることもない。商業街マカティには至る所にスーパーやファーストフードの店があり、週日なのに人が沢山たむろしている。道路もなにかすっきりした。スラム街があまり見えなくなったような感じがする。飛行場からの道は大渋滞のはずだが意外とすいすい走る。環状線ができて便利になったのだ。
「ここで焼き討ちがあってね、それでこの道が開通したの」と道中言われた言葉がガーンとニ響いた。
* * * * *
 マニラ北に位置するパンパンガ。そこでは日本政府の開発援助(ODA)によるパンパンガ・デルタ開発計画の第一期工事が進められている。それは洪水防止と農地への潅漑を目的にした大規模な河川拡幅工事である。マニラ湾河口から22.7キロメートルの長さにわたってパンパンガ川が750メートル幅になる。そのため約7800世帯、約4万7000人の流域住民が立ち退きを迫られている。すでに壊された家屋もある。72の学校、64の教会も破壊される。そして2万ヘクタールの農地が失われる。そこにあるマングローブ、ファイアーツリー等の樹木の損失もはかりしれない。
 第1期工事だけで100億9千万ペソの直接損害があると試算されている。それに対して、この計画によって獲得される予想利益総額は190億ペソ、それも43年の長きにわたってもたらされる利益である。
 そしてこの開発計画が完成したあかつきには、洪水対策の利を受けるはずの住民の多くは強制撤去ですでにいない。潅漑の受益を享受するはずの農民も農地を奪われてしまっている。
 確かに70年代には大きな洪水が何度かあった。しかし82年に造られたラバンガン水路によってその後は以前Oのような大きな洪水はおきていない。
 真の洪水対策ならば、洪水を引き起こす原因を究明した方がよい。まず森林伐採。無秩序な森林伐採によって山は丸裸にされた。保水力はなくなり大雨の際に土砂が流れだし川底が浅くなった。次にマニラ湾河口近くに違法に造られた養魚場。輸出用の魚を育てるためにいくつもの養魚場が建設されている。川の中にはみだすように造られた養魚場によって川幅が狭くなり流れが止められた。
 そのためには、丸裸の山に植林すること、川底の泥を取り去り流水量を増やすこと、既存のサン・アントニオとカンダバ遊水池を浚渫・再整備し水量調整すること、堤防の石積補強をすること、さらに違法養魚場を撤去することが先決である。開発計画よりもずっと安上がりだし、住民も祖先から引き継いだ土地で今までの生活を続けることができる。
 それなのに開発計画は一人歩きする。それはルソン北部の工業化をめざす人々にとっては、はかりしれない利益をもたらすからである。
 また養魚場も手がつけられない。養魚場を経営しているのは金持ちの特権階級だからである。
* * * * *
 「『開発』とは単に経済的I発展をめざすものではない。人間と自然を大切にする福音の教えに基づいて、人々の文化・習慣を尊重しながら、生活を向上させていくことだ。そこに住む人々の「生きざま」を無視した開発は真の開発ではありえない。」
 この開発計画によって生活の基盤と手段を奪われ、隅においやられている多くの人々を教区内で目の当たりにしているティローナ司教のこの言葉はずっしりと響く。


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97.05 「福音宣教」荒野にて −現場に身を置く司教たち−       
◆「あれ!この写真あのガンバ−トン司教では?」 アメリカから送られてきた冊子をパラパラとめくっているうちに一枚の写真に目が釘づけにされました。それは警官から後ろ手に手錠をかけられている骼i教の写真でした。
 1989年グアテマラでアメリカ人のシスタ−・オルティスが軍部によって拉致、拷問されレイプされました。この事件の背後にはCIAがからんでいると知って、昨年4月に彼女はその解明と情報公開を訴えるためにホワイトハウス前でハンストをしました。シスXターを支援する人々も請願デモをしてそこで逮捕者がでたのです。その一人が数週間前パナマで開かれた「ラテンアメリカの民衆と連帯する国際キリスト者会議」で言葉を交わした司教だったのです。
◆エクアドルの司教ドン・ビクト−ルはこの会議の前日になって出席をキャンセルしました。それは教区の先住民たちが政府の農業政策に反対して町の広場を占拠、カテドラルは広場に面しているので司教はその人々のために聖堂を開放したからです。このような事態で司教は人々と共にいることを望んだのです。あくまで先住民を守るためでした。「あなた方こそ新生エクアドルに不可欠な力です。町の中であなた方をみかけるのは嬉しいことですし希望も湧いて来ます。どうか聖堂を占拠してください。神の存在のシンボルである聖堂はあなた方のものです。あなた方の中に神がおられるのですから。」とミサの説教で司教は彼等を力強く励ましています。
◆この会議の会長であるドン・サムエルはメキシコのチアパス州の司教です。35年以上前に司教に任命された彼はすぐに先住民の言語を習い先住民文化を大切にしてきました。言葉が通じる司教として先住民から絶大な信頼を受け「タティック(私たちのお父さん)サム」と呼ばれています。
 1994年1月1日メキシコで先住民蜂起がありました。これは政府転覆をはかる革命ではなく、先住民の土地、住居、食料、医療、教育、正義、自治等の基本的人権を認めさせることを意図していたので、数日で武力蜂起は終わりすぐに話し合いに入りました。先住民と政府の間にたってその仲介をしてきたのがこの司教です。司教は徹底して貧しい先住民を守る姿勢を貫いているので、富裕階級にとっては邪魔なけむたい存在です。この蜂起を挑発したのは司教だと中傷されもしました。司教館の外壁には金持ちに雇われた民兵が司教を罵倒して騒いだ時に投げ付けた卵や果物の跡がシンボリックに残っています。
◆このサムエル司教がいわゆる「社会派」なので牽制の意味もあってか1995年秋に補佐司教が任命されました。司教更迭の噂のなか肩に力のはいった「保守派」の補佐司教ドン・ラウルが赴任してきました。司教の方は広い心で彼を受け止め、すべてオープンにして自由に現実を見るように計らいました。ところが現状をつぶさに見、先住民の悲惨な状況を知った新司教はあっと言う間に回心してしまったのです。特に軍部の手先によって自分の車が焼き討ちにあってからというもの彼の態度は決定的になりました。「私でも言わないような事を彼は軍部に向かってはっきりと言う」とは後継司教の姿勢に安堵したサムエル司教の言葉です。

 この会議には世界16ケ国から約50人が参加しました。司教ばかりでなく信徒も修道者も司祭も現場に身を置き、現場からチャレンジを受けて深い信仰を真摯に生きている人々でした。それぞれの現場での悲惨な人権侵害を語りながらもゆるぎない希望をもって祈る姿に底力を感じ圧倒された思いでした。back to top