| 04.07.10 | 農村女性自立支援 |
| 04.01.18 | 東ティモールの大神学校の窮状 |
| 03.11 | 日本管区の皆様 東ティモール・バザルテテより |
| 03.10 | レナト・ステファニ神父と親しかった日本の皆様へ |
| JP通信00.07 | 『東ティモール:祖国再建に賭ける人々』 |
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<東ティモール・リキサ県のドゥルバサ部落の女性グループへの支援への感謝の手紙>
この度は私たちが住む東ティモール・リキサ県のドゥルバサ部落の女性グループへの支援を頂き、心から御礼申し上げます。東ティモールは450年に及ぶポルトガル植民地時代、3年半の日本軍占領時代、そして最近24年間のインドネシアによる不法占領時代を経て、2002年5月に独立したばかりの小さな国です。世界の最も貧困な国20ヶ国に含まれ、アジアで最も貧しい国と言われています。
その国で昨年6月から活動を始めて気づいたことは、東ティモールの貧困の最大の原因は、長年月の外国支配のため人材が全くと言っていいほど育っていないことです。女性の自立など、夢のまた夢、というのが現状です。女性の非識字率は公表されている数字で64%ということですが、山村部ではそれよりずっと多いのが現状です。それで私たちは昨年11月から3カ所で識字教室を開いています。その一つドゥルバサ部落は44世帯の集落ですが、ほとんどの女性が読み書きできません。そこで週3回教室を始めました。皆熱心に勉強に励んでいます。
ドゥルバサ部落にはいくつもの問題がありますが、その一つは、キヨスクがないので、塩一袋買うにも30分〜1時間、あるいはそれ以上かけて歩いて近くの村へ行かなければなりません。雨季にはその道に大木が倒れていたりして行けないこともあります。
そこで、識字教室の先生であり、同部落の住民でもあるフラミニアさんを中心に「キヨスク経営プロジェクト」が立ち上げられました。これは、単調で忍耐のいる識字の勉強の動機付けととして、また部落の人々にキヨスクを提供して生活向上を図ることを目的としています。この度のご支援で、このプロジェクトが実施できる運びとなり、女性達は殊の外喜んでいます。このプロジェクトが成功すれば、別の地域の女性達にも励みとなり、村起こしの起爆剤となるに違いありません。
ご支援に心から感謝申し上げます。(聖心侍女修道会東ティモール修道院中村葉子)
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新年から電気の供給が無くなったため、大層苦労しています!周辺住民はほとんど被 害がない!ので、これは文明人の悲劇と言えましょう。
また、昨日、堀江神父、リカルド神父と会い、3000ドルのご寄付について話しま した。聞けば聞くほど、大神学校の食生活のひどさは深刻で、今雨期なので、それも
あって、神学生の間に次々と病人が出ているそうです。それで特にリカルド神父は、「神学校のニードはあまりに大きくて、日本の支援者のご好意をどう生かすか、難し
い。けれども自分としては、神学生にもう少し体力をつけたいので、一日一杯のミル クに充てさせて頂きたい」とのこと。神学生支援にミルク!とは、とお思いでしょう
が、どうも朝食はごはんだけ、新年と言えどもバナナ一本なし。と言う状況なので、 ミルクという案は悪くなさそうです。私の調べでは、日本でも売っているような250cc位のミルクパック(一人分)は、こちらでは60セントです。それですと神学生48人分、一日一箱で2ヶ月位の栄養補給になります。粉ミルクもオーストラリア製の良い物があり、これだと4ヶ月分位毎日供給できるでしょう。
それで、有泉さんが2月に来られるときにでも現金を「堀江神父宛」にお送り頂ければ、上記が実現できます。堀江さんは「僕がお金を渡し、ちゃんとその目的で使われるか監督したい」とおっしゃっています。私も賛成です。神学校周辺にはアンチ・カトリックもいるらしく、畑にある作物すべてが無惨にも盗まれるそうで、司教の指示で今、針金付きの囲いを作っていますが、どれだけ効果がありますか分かりません。
リカルド神父も堀江神父もこの度のご寄付に深い感謝をしめしておられます。
それでは今日はこの辺で。
中村葉子
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中村葉子(正義と平和協議会専門委員)
昨年9月住民投票をめぐりインドネシア軍と民兵がすさまじい焦土作戦を繰り広げ、現在までに発見されただけでも800名以上の住民が殺され、全S住民の過半数が国の内外に避難を余儀なくされ、社会基盤の7割が破壊された東ティモールを9年ぶりに訪問し、なつかしい人々と再会した。
《フランシスコ・ミランダ・ブランコさん》
サンタクルス・デモの首謀者として9年間獄中生活。受難のキリストを彷彿とさせる。「ここでの9ケ月は9年にも思われた」との説明を、獄中生活の初期を過ごしたコマルカ刑務所で聞く。鞭打たれ、血みどろになって地面を這わせられ、獄舎に着くと水を浴びせられた。「キリストがおられなかったら、耐えられなかった」と静かに語る彼は全国の元政治囚を集めてNGOを立ァち上げた。2月のある日、獄中生活を支え続けたイエズス会のフェルゲイラス神父の指導のもと、この会の発足式を行った。祈りと聖歌と行進による式で、ディリ近郊の町や村から500人の元政治囚が参加した。「十字架は苦しみと栄光のシンボル・・・キリストは苦難に会われたがェ一度も報いを求めなかった。われわれ元政治囚も彼に従う。祖国のために苦しみ、闘いながら。しかし報いを求めずに。」これがこの日の決議文であった。このNGOでは腐敗防止や民主主義と社会正義の確立を求める。
ブランコさんはこの他にも開発禁止地域指定、自動車の代わりにノ自転車の普及、向こう15年間の森林伐採禁止などの運動を行うTO
MAKE GREENという環境団体も創設した。この団体はすでに、国連上級スタッフらが優雅に宿泊している海上ホテルがディリ海岸を汚染していると抗議し、代替仮設住宅を作らせることに成功している。
《アベリノ・コRエリョ・ダ・シルバさん》
東ティモール社会党の書記長、国民協議会メンバーとして小さな小さな国家である東ティモールの建国の理念作りに励む。父が熱心なフレテリンであったため、家族ぐるみ弾圧を受け、長兄が殺されている。青年組織の立ち上げ、指導、闘争の理念構築など彼のこれまでの歩みを真近に見てきた私は、政治的指導者としての彼のたくましい成長振りに目を見張った。UNTAET(国連東ティモール暫定統治機構)と住民の間に労働問題上の摩擦が生じた時など仲介者として駆り出されるのは決まってこの人。「なだれのように押し寄せる外国資本から地元ビジネスを守るのも大切な仕事」と熱弁を振るう彼には、祖国の壊滅状態などものともしない底力がある。彼の組織はリサディラ初め、全国数ヵ所に協同農場を普及させるなど、住民の意識化にも励んでいる。
《ドミンゴス・ソアレス神父》
『Padre Maubere(東ティモール民衆の神父)』と呼ばれ親しまれているレテフォホの主任司祭で、占領時代はブラックリストNo.
1。レテフォホは相馬司教ゆかりの地。1993年司教はここを訪れ、大群衆の信者から熱狂的な歓迎を受けた。その折に植えられたゴンドゥエロの木の葉が熱帯の日差しにキラキラ輝Pいていた。この日は主日。千人を超す信者を前に小柄な神父は相馬司教初め日本の教会がいかに東ティモールと連帯してくれたかを語り、感謝の祈りを捧げられた。現在は1棟しかない教会付属学校を何棟にも増やし、Colegio
Don Soma(相馬司教記念学校)と名付けたい、と夢を語る。
紺碧の海。専門職を一から学ぶおっとりした民衆。Padre Maubereが通る道に駆け寄って「Bencao, Aman(神父さま、祝福を!)」と叫ぶ子どもたち。
UNTAETの並々ならぬ努力を認めないわけではないが、東ティモールの国造りは、一日も早くこの人々の手に渡すべきでナはないか。これが、テイモール・ロロサエ(訳して『陽昇るティモール』。東ティモールの正式名称)を後に帰国の途に着く私の偽らざる気持ちであった。
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to top レナト・ステファニ神父と親しかった日本の皆様へ
2003年10月19日
東ティモールより
シスター中村葉子
今日は日曜日ですが仕事で首都ディリに行きました。帰途、いつもの通り夕日のそれはそれは美しいリキサの海岸を車で通っていたとき、バイクに乗った二組の若い男女が海を見ながら楽しそうに話していました。この光景に接して、私ははっとしました。「東ティモールはこんなに平和になったのですね。ステファニさん、十分働かれたのですから、今はゆっくり天国で休んでください」。神父さんの訃報を知った10月7日午後以来、初めて、神父さんの死を受け入れることができた気がしました。
10月7日(火)は、夫や子どもがまだ西ティモールから帰還できていない女性達5人を車に乗せてディリの国際援助団体を訪れていました。その時、携帯が鳴って、ディリ在住の友人和田等さんから「ステファニ神父さんが事故で亡くなった、というニュースが日本の司教さんから入ったそうです」と聞かされました。「またデマに決まってる!」と自分に言い聞かせたものの、心臓がドキドキし始めて、その日の仕事をこなすのが精一杯でした。堀江神父からも訃報の詳細情報が入りましたので、女性達をバザルテテに送り帰してから、和田さんと二人で急遽アッサベに向かいました。道中もまだ「デマかもしれない!」と二人で繰り返し続けました。レテフォフォ近くにさしかかったとき、私たちがアッサベに向かおうとしているのを知った後続のトラックの運ちゃんが「アム イハ アゴラ イハ レテフォフォ」(神父様は今はレテフォフォにいらっしゃいます)と私たちに言いました。「ほら、やっぱり、生きている!」と喜んだのはつかの間、それは生きているステファニ神父ではなく神父のご遺骸のことだったのです。
事故は10月6日(月)夕刻に起きました。ステファニ神父は2002年1月にアッサベの教会に赴任以来、信徒の信仰上の世話の他に、生活向上の為の沢山のプロジェクトを次々に実行に移しておられました。今年の8月30日に独立記念館の完成式を済ませた後は、遠くから何時間も掛けて学校に歩いてこなければならない生徒達100人を収容できる寮を教会敷地内に建設し始めました。10月2日(木)はそのために私たちの修道院までいらして発電機を借りて行かれました。普通は「アッサベに帰る」とおっしゃる神父が珍しく「迷惑でなければ泊まりたい」とのこと。カテキスタのアンゲリノさんとお二人をお泊めして、楽しい時を過ごしました。これが私たちがステファニさんとお会いした最後となりました。6日(月)、ステファニ神父は寮の建設工員たちのための大量のトウモロコシの袋(50キロ×6袋)やサラダオイル、聖堂用の椅子などを車に積み込んで、高校教師のジョアンさんと共にディリを午後4時頃出発。ディリ郊外で、神父の車の通るのを待っていたカテキスタのカリストさんと若いお母さんのルシアナさん(5才と1才の子どもを同伴)も、一度は乗車を拒否したものの、最終的には乗せてあげ、車はアッサベに向かいました。レテフォフォ教会を過ぎて7キロほどの地点のカーブにさしかかったとき、折からの雨と霧、スピードの超過の3重の不幸が重なり、車は崖から20メートル下の水のない河原に転落。生き残ったジョアンさんの話では、神父とカリストさん、ルシアナさんの3人は即死。自分は頭を抱えたので助かった。二人の子どもはルシアナさんがしっかり抱きしめていたのでほとんど無傷で助かった、とのこと。
私がディリで得た情報では、「ステファニ神父は事故直後も死んでいくカリストさんとルシアナさんを祝福し、聖歌まで歌って、最後はご自分も亡くなった」とのことでした。その後、別の人から「神父さんは3回お母さんの名前を呼んで、事切れた」とも聞かされました。結局、すべては、大事な大事なステファニ神父を突然失った哀しみに沈むアッサベの人々の心の深い願望が生み出した創作だった、と分かったのは上記の通りジョアンさんからの情報を受けた時でした。
10月7日は事故発生場所であるレテフォフォ教会でバジリオ司教他多数の神父による通夜のミサがあり、私も参加しました。“あのステファニさん”が民族織物タイスで覆われた台の上に沢山の花に囲まれている!私はミサの間中、呆然と立ち続けました。お顔は、いつも冗談しか言わない彼とは別人のような“聖人”の表情でした。アッサベから駆けつけた多数の信徒たちが夜を徹してお棺の周りで祈り続けました。翌日、午前10時に白塗りのワゴン車がディリから着いて、お棺はそれに乗り、神父が100回以上行き来されたレテフォフォ〜アッサベの道をしめやかに進みました。先導する警察の車が時折哀しくサイレンを鳴らし、それが周囲の山々にこだましました。葬儀ミサがアッサベで始まったのは12時を過ぎてからでした。ミサが始まると天までが哀しみに暮れて、土砂降りの雨を降らせました。私も頭の先から足の先までびしょぬれになりました。バジリオ司教は「これほど短い東ティモールでの生活の間に、これほど人々のために尽くして下さった神父は他にいない。神父が熱心に新聖堂の設計図を見せに来られたのもつい最近のこと。死は神秘、としか言えない」と声を詰まらせながら説教されました。司教は最後に、カリストさんのご遺族を特別に祝福されたとき、「ステファニ神父さんと共に、長年東ティモールのために尽くして下さった日本の方々をも祝福します」と言われ、和田等さん、古沢希代子さん、東ティモールデスクの徳恵利子さんと私に祝福を与えて下さいました。私は、にわか造りの折り紙の花瓶に「ステファニさん、ありがとう!日本の皆より」と書いて、お花を入れてお棺の前に添えました。神父さんの沢山の日本の友人お一人お一人の気持ちをせめて表したい、と思ったからです。和田さんも折鶴をお棺に捧げました。
何事も悠久の地、東ティモールですが、葬儀・埋葬がこんなにすばやく行われてしまうとは!何かとても似合わないものを感じましたが、人口の3分の1を戦争で失ってきた人々の経験がそうさせているのでしょうか。埋葬は、葬儀ミサに続いて3時頃から行われ、ステファニさんが1ヶ月余りを過ごした独立記念館(信徒会館・司祭館を含む)を見あげる位置に掘られた墓に神父のご遺骸はしめやかに収められました。中央の十字架にはアッサベ郡公務員一同からの一番立派な花輪が掛けられていましたが、それは段ボールの裏を利用して作られた美しいけれどとても質素な花輪でした。ステファニさんの生涯がそのまま形をとったようなこの花輪は本当に大切な思い出となりました。
バジリオ司教も、ステファニ神父に一番親しかったドミンゴス・ソアレス神父も、葬儀の間中「日本の皆さん、アッサベはステファニ神父の地です。神父が始めた支援をどうか続けて下さい」と何回も繰り返されました。私はこの一連の哀しみの行事、その直後にアッサベを訪問された『東ティモール子ども募金』の有泉さん、小熊さん、板元さんとの遺族訪問、警察とのやりとり、などなどで身も心も疲れ果てましたが、アッサベの人々の哀しみ、山全体が悲嘆に暮れている様を思い、何とかできる限りの協力はしていこう、と心に誓っています。1987年以来、共に東ティモールの独立と発展のために頑張ってきた仲間であるステファニ神父への追悼は、私にはそれしか考えられないからです。
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to top 日本管区の皆様 2003.11.20
東ティモール・バザルテテ モニカ中村葉子
+主の平和
ご無沙汰しているうちに早くも待降節がそこまで、という季節を迎えました。皆様お元気ですか。東ティモールにいる私たちのためのお祈り、お便り、様々なお心遣いを本当にありがとうございます。お陰様で、私たちは風邪その他の軽い病気は別として全体的にはとても元気に過ごさせて頂いています。こちらでの生活も4ヶ月半になり、地域の方々にも受け入れられて、少しずつ使徒活動らしきものもできるようになりました。今日はこちらでの生活やそうした活動についてお書きしたいとパソコンに向かっています。
バザルテテはディリから車で1時間少しの所ですが、住民のほとんどは車を持っていませんので、たまに野菜を売りに行く以外は町に出かけることはほとんどなく、従って人々は大変単調な生活を送っています。職業は大半の人が農業(いわゆる自給農家〔=貧困家庭〕)ですので、一年中、トウモロコシ、キャッサバその他の野菜を栽培するのに忙しそうです。一説に国民一人当たりの可耕地の広さは世界一と言われている東ティモールですので、一家族が持っている畑(といってもここでは山の急斜面が大半です)の広さは相当なものです。それを極めて原始的な方法で耕し、焼き、種や苗を植えていくのです。ここの子どもたちは2才位になると、もうそうした作物をかごに入れて紐をはちまきのように頭からかけて上手に運びます。夕暮れ時に煮炊きのための薪を頭に載せて山道を一列になって歩いていく親子の姿には本当に微笑ましいものがあります。子どもの数の多さも世界一では!?と思うほど、どこの家にも子どもが溢れています。それで私たちの修道院も毎日、そうした子どもたちのにぎやかな声や歌声、泣き声に包まれています。テレビやラジオの少ないこの地方では、子どもたちが即興の歌を始終歌っています。それでこの家にいると、とても心が和みます。時々は窓から、馬に乗って駆け抜けていく人を見かけることもあります。馬や水牛や山羊もまた重要な財産です。山道を車でいくときは、気をつけないとこうした馬、牛、山羊を木に結わえてある紐を車でひいてしまいそうになります。人々は日中畑で働き、午後5時位に家に戻ってきて、あとは夕食や団らんをしています。これが大半の人の日常なので、私などは気が遠くなるほどの単調さです。
これが日常ですから、非日常である「慶弔の行事」や「宗教行事」は大きな出来事です。10月末には赤ちゃんだけで50人以上の洗礼式、80人以上の子どもの初聖体がありました。後者は1ヶ月も前からこの晴れの日の典礼の歌の練習に長時間を費やします。修道院は教会のごく近くにありますので、この歌声はよく聞こえるのです。おまけにここの人々の発声は、いわゆる“地声”ですから、そのすさまじさはご想像にお任せします。指導をしている青年に「今日はどうして子どもが少ないの」と聞いたら「頭が痛い、という子が続出なんです」とのこと。こんなに長時間、この歌い方ではさもありなん、と頷きました。でも式当日の民族織物に身を包んだ沢山の子どもたちの晴れ晴れした笑顔は忘れられません。10月はまた、ロザリオの月なので、毎晩、各地域で一軒の家が担当になり数家族が集まって熱心に祈ります。単純ながら深い祈りが日々捧げられていきました。こうした行事のすべてを仕切るのはカテキスタたちです。この人々の大半は全くのボランティアで何時間もかけて遠くの地域に洗礼や結婚の準備に行ったりします。大家族なので畑仕事は他の人に任せられる、という東ティモールの土地柄がこんな悠長な習慣を生んでいるのです。今までここで生活してきて、宗教が人々の生活に占める位置の大きさに改めて驚いています。と同時に、これは、植民地時代に民衆を無知のままにしておくために宗教が利用されたことの結果ではないか、とも感じてしまいます。大人も子どもも文化的な恩恵に浴することがほとんどないので(教育の程度の低さは想像以上です)、悪く言えば、宗教行事しかすることがないのです。上記の洗礼・初聖体の日のためには、私たちの修道院にある小さなコピー機で聖歌のプリントを作ってあげました。どこの家にも未だにこのプリントが大切そうに残されています。これしか、文字になった歌の本はないからです。
そうした環境で、私たちが何をしているか、というと:アナが学校で生徒を対象にポルトガル語や宗教を、別の青年グループにポルトガル語を、私が青年グループ対象の英語と一青年教師の日本語個人教授をしている他、週2回アドラシオンが裁縫教室を修道院で開いていて、これがとても人気があるのです。というのも自分で布を持ってくれば、先生(アドラシオン)に教えてもらえるほか、生徒である他の婦人たちに縫うのを手伝って貰えるからです!この村にはもう一軒別の家に足踏みミシンが一台有る他は、ミシンは修道院以外にありません。このミシンは上野修道院から頂きコンテナで運んだもので、とても調子がよく、毎日元気に活躍しています。アドラシオンは修道院中のカーテンや機器のカバーを、これまたいくつかの修道院から頂いた布を使って全部作ってくださいました。その手早さはすごいです!
上記の初聖体を済ませた子どもたち対象のカテケシスもアナとアドラシオンが毎日曜のミサ(時にはみ言葉の祭儀)の前に一生懸命やっています。二人とも(私も同様)まだテトゥン語が十分できないのに、その宣教熱には頭が下がります。一番若いアナは、主任神父から頼まれている他の3つの村(それぞれアクセスは容易でない)にも時々出かけてカテケシスなどをしています。とても活動的な人で、創立には欠かせない積極性がとてもありがたいです。月一度、初金には教会で聖体礼拝をしています。半分以上は学校の生徒ですが、全体で100名以上が参加します。これはアドラシオンと私の担当です。ここの人々は祈りというと大声で唱えること、と思っている人が多いので、できるだけ沈黙で祈ることも導入していきたいと思っています。また、侍者会を始めたいのでシスター達も手伝って欲しい、と乞われて、去る日曜日に集まりに出ました。なんと100人以上の子どもたちがいるのです。そこにリキサの侍者会からも援軍が来ています。「私たちの出る幕じゃない」とアドラシオンと私は第一部に出ただけで退散しました。何もかもできるわけではないし、リーダーがいる活動には出なくてもいい、との考えからです。
一般の信者達対象にはBEC(キリスト教基礎共同体)を始めています。アドラシオンが中心で、私が一応補佐です。12月にフィリピン人のシスターによるセミナーを計画しており、その後本格的にこの活動が始まる予定なのですが、今日入った情報ではそのシスターは最近スアイに行く夜行バスに乗っていらしてバスが雨で転落したらしいとのことです。指2本を切断する怪我だった、との話ですが、真相はわからず、今情報収集に努めています。早く良くなってここに指導に来て下されることを祈っています。このBECというのは、聖書の分かち合いと深め、それに基づく共同体造りで、多くの信者から期待されています。私も、この活動には意味を見いだしていますので、できるだけ協力したいと思っています。この活動の一環として私が担当するのは『識字教室』です。すでに東ティモール政府の文部省から椅子と教科書を50人分もらい受けました。3つの教室のためで、内一つは修道院の一室を使って開きます(今週の木曜日から)。先生にはニコラウさんになってもらいます。彼もまた、若いのに、畑仕事がわずかにあるだけで無収入の人です。週10時間教えると政府から月額60ドル貰えるので、彼はとても喜んでいます。私も、東ティモール社会の最も貧しい人(=非識字者)と親しく交わえる機会なので、この教室を大切にしたいと思っています。
その他には、バザルテテ郡最大の問題である、町に出る交通機関がないという問題を解決するための協同組合の活動があります。活動と言っても、協同組合に詳しい私の友人をディリから呼んできて、村長さん初め何人かの人々に話をしてもらい、協同組合ができた、というだけのことです。『ラファエラ東ティモール募金』のご協力で近々ミニバスを一台購入し、これを彼らが地域活性化のために使いつつ、数年内に全額返済する、というものです。村長さんが中心になって、とても大きな期待を込めて準備がなされています。これまで町に出るには週一度しかミニバスがなかったので、これで毎日ミニバスを2往復できる、と喜んでいます。町の学校に通うために家から遠く離れて住まなければならない子どもたちが週末などに家族の元に帰るためにも活用できます。病気になってもほとんど我慢を強いられてきた人々も病院に行けます。町で新聞を買ってきて役場などに置き、住民が活字に親しむことにも貢献できるでしょう。どうかこの活動がうまくいくようお祈り下さい。
同様のプロジェクトが、『養鶏』です。これはステファニ神父の突然の帰天で、お鉢がアッサベからバザルテテに廻ってきた!というもので、日本の一NGOからの支援で、ここに小規模ですが養鶏場を作ることになったのです。鶏なんて、肉屋の店先につるしてあるだけで気味悪いと思っていた私が、何故この仕事をしなければならないのか!と思っていますが、地域興しの一環にはとても良いことなので、先日、担当する4人の比較的若い人々を引き連れて近くにある日本のオイスカの養鶏専門家を訪れて話を伺ったり、東ティモール唯一の養鶏会社を訪問したりしました。一番の問題は電気のないバザルテテでどうやって雛を育てるか!です。それについては昨日、友人で養鶏に詳しい酒井さんに良い案を伺ってきました。その方法でやっていくつもりです。それにしてもこの養鶏は、「卵を買えるのは大きなお祝いの時だけ」というここの経済事情の中で、いかにして市場を開発するか、いかにして廉価な卵を生産して一般の住民の日常の食卓に載せるか、という大問題を抱えての出発です。養鶏場なんて、ロスパロスにサレジオ会の農業高専にあるだけの東ティモールで、これが成功するかどうか、多分に疑問ではありますが、どうかお祈り下さいませ。
私が依然やっていた西ティモールからの帰還の問題は、少し前にバリボに帰還した人々が地域の人からひどい目に遭わされた(事実はそうではないのですが)ので、また西に帰ってしまった。それを聞いた西の家族達は恐れて東ティモールに帰りたがらない、という状況のために、一向に進んでいません。ただ、最近、日本政府が一家族200ドルの帰還支援金を出すことにしたそうなので、これに期待しています。
地域からの最大の要望は、この地に幼稚園を開くことです。それでアナとアドラシオンはとても熱心に教材造りなどに励んでいます。彼女たちは1月にもこの家で5〜6才の子ども25名位を対象に託児所を開こう、と言っています。私は子どもは見るのは好きですが、とても幼稚園の仕事をする能力はないので、ひたすらハード面の協力をしています。つまり、幼稚園を開くための支援をしてくれそうな組織を探すことです。どなたかそうしたfunding organizationをご存じでしたら教えてください。ただ、幼稚園をよくご存じのシスター方なら、3人の共同体、しかも全員がこの仕事に向いているわけではない共同体には、たとえ地元の人の中に協力者がいたとしてもとても大変になるだろう、とご想像になれると思います。でも、何とか主の恵みの内に、これが実現できますよう、お祈りくださいませ。シスターたちに中学校や高等学校も開いて欲しい!というのも人々の夢ではありますが、とても主のお望みとは思えませんので、今は何も考えていません。
それではとても長くなりましたので、この辺で。皆様よい待降節をお迎え下さいませ!
ごきげんよう。
中村葉子
追伸:ステファニ神父の帰天に際しては沢山のシスターから、お悔やみを頂きました。遠くに住んでいても、こんなに心配してくださる方がいるのだ、と思うと本当に有り難い気持ちで一杯でした。神父様の支援団体だった『東ティモール子ども募金』の方々は、訃報を聞いてすぐ3名がこちらに来られました。この修道院に真っ先に来られて、涙の対面となりました。アドラシオンもアナもこの婦人達をとても暖かく迎えてくださいました。翌日私は彼女たちとアッサベに向かい、事故を起こした車の中から見つかった神父様の遺品やアッサベ教会のために購入された品々を警察から受け取る場にも立ち会いました。こんな時、東ティモールでは“マドレ”は絶大な力を持っています。警察も私が修道女なので、すべて信用してくれる、という良いような悪いような体験をしました。銀行もそうです。たとえ私たちの共同体もその銀行に口座を持っているとはいえ、こんなに簡単にステファニ神父の代わりに預金の出し入れができるとは思ってもいなかったので、今更ながら東ティモールにおける神父や修道女の位置の絶大さを思い知りました。大きな問題だと感じています。アッサベ行きの最後には、日本で神父様の諸手続のために必要だ、とのことでエルメラ警察で死亡証明書を出してもらうことになりました。『子ども募金』代表の有泉さんと私が所長の前に出ると、彼は神父様の遺体も写っている事故の写真をそのまま、私たちに見せました!有泉さんはあまりのことに泣き出してしまいました。東ティモールでは虐殺やその他で死者の写真には慣れているのでしょう。でも所長は最後には、「すみません」と詫びていました。私にとって、習いたてのテトゥン語から日本語への翻訳第一号が、このステファニ神父の死亡証明書だったことは、本当に悲しいことでした。
今、私が『子ども募金』からお頼まれしてやっているのは、アッサベでの寄宿舎建設、道路修理、小学校校舎修理、奨学金付与の手伝いです。と言っても遠いアッサベまではなかなか行けないので、各プロジェクトの担当者がディリに出てくるときに、私もディリに来て、工事の進捗状況を聞いたり、お金を渡したりしています。思いがけない仕事ではありますが、同じ東ティモールへの奉仕なのでできるだけのお手伝いはしたいと思っています。