| 神との内的一致を求めて | |
| 祈りの七景 | |
| 聖書で祈る |
神との内的一致を求めて
「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」(マタイ6・6)
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11・28)
■系譜
私たちが自分自身の内面とそこにおられる神の現存に心をこめて耳を傾ける時、心の中におられる愛する方へとみちびかれます。それは、キリスト教的観想の系譜の中で、心の祈り、後に観想の祈りとして、知られるようになりました。大聖グレゴリオ教皇は、これを“愛によって注がれた神の知識”と呼びました。
古代の砂漠の修道者たちは神の国で完璧な生き方をするために神を求め、イエスが教えられた貧しい生活を求めて、ローマの文明都市を後にしました。しかし、まもなく、彼らは自分たちが蔑んでいた都市生活、文化、価値観などを捨て去ったつもりでいたにもかかわらず、実際には、それらのものを携えて砂漠に来ていたことに気づきました。そして、神を探し求める者が、神の現存のうちにとどまる生活をしたいならば、自分の誤った考えや望みから解放されなければならないということを学びました。神を探し求める人は、理性や知性で神を理解するのではなく、心の祈りを通して“心”の中におられる神に自らを開いて、そこにとどまることを学びました。
聖書のことばやイエスのみ名を呼吸に合わせて繰り返すことは、心の中の気づきや意向につながる手段として用いられます。そして、この“ことば”を通して内なる神の現存へと自分自身を明け渡すことによって、絶えず内なる神の国にとどまることができるのです。
■実践
人間の自然な動きとして、私たちは人生の方向性や決断といったものを自分自身の存在の中心、内的源泉において求めるものです。
M.トンプソンは、心の祈りを頭から心へと私たちを移行させる祈りだとしています。
ジェラルド・メイは、ことばやフレーズを祈りの間に自分自身の内に深く植えつけることが、心の祈りの基本であると言っています。そうすると、一日の他の時間や活動の最中にもそれが続いているのに気づくでしょう。
「不可知の雲」の著者は、観想の祈りを神に向かう赤裸々な思いであるとしています。神に向かって自分のあらゆる願いを集中させたいならば、一つの短いことばを選んでみてください。そして、それがしっかりとどまるよう心の中に植えつけてください。このように、“心の祈り”は、私たちの存在の中心である心の中におられる神との内的一致の実践なのです。祈りに必要な条件は内的沈黙を育てることです。そして、この祈りは私たちの忠実さによってはかられます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。・・・たたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7・7) この祈りの本質は、深い信頼と自己を明け渡すことのうちに“心を尽くして神を愛する”ようにというイエスの命令を果たすことなのです。
■ガイドライン
1. 場所の設定 : 誰にも、何にも妨げられることなく、神と深く交わるのに助けとなる静かな場所を選びます。
2. 時間帯 : 沈黙の祈りに助けになり、眠くならず、誰からも邪魔されないような時間帯を選びます。例えば、早朝や夕方の早い時間など。
3. 姿勢 : 背筋を伸ばして座り、腹式呼吸で深呼吸をします。人によって椅子に腰掛けて祈るのが落ち着くでしょうし、ベンチやクッションの方が落ち着くという人もいるでしょう。手の平は上に向けるか、下に向けるかして、腿の上に置きます。
4. 準備 : 沈黙の雰囲気に入っていくのに助けとなるような短い祈りのことばを選びます。
「主よ、あなたにささげます。」
「神よ、あなたは私の逃れ場。」
「主よ、あなたのうちに平和。」・・・など。
5. 祈りの長さ : 20−30分ぐらいが適当でしょう。
■方法
1. ことばの祈り
神と一致したい、神に自分自身をささげたいという望みを表すようなことばを選びます。短いことばやフレーズであるかもしれません。あるいは、イエスのみ名であるかもしれないし、イエスの祈り(Jesus
Prayer)の形であるかもしれません。何回も繰り返し、絶えず、そのことばに戻るようにします。息を吐く時に、ことばを繰り返して、そこに戻るようにしてみましょう。考えや望み、判断などに取り合わず流して、それらに巻き込まれないようにして、絶えず、ことばに戻りましょう。ことばやフレーズを通して、自己を明け渡す望みのうちに、神の現存と共にあるために。それは“考えることから解き放たれて、ことばに戻る”という絶え間ないプロセスなのです。
2. 呼吸の祈り
ことばの祈りの場合と同様に、解き放たれて、内なる神の現存に自分自身を明け渡すよう、今度は呼吸を頼みとします。特に、多くの人にとって吐く息が頼み綱になります。吸う息は神に対する開きと感受性を象徴的に表わし、吐く息は、神への全き自己譲渡を表わします。それは、心の祈りとしての聖なる呼吸の本質なのです。
3. 見つめる祈り
人によっては呼吸やことばを用いることが妨げになるかもしれません。そのような人たちは内なる意向をもって“神を愛のまなざしで見つめる”十字架の聖ヨハネの方法にひたすら倣うことがよいかもしれません。ただ神を愛をもって見つめ、神からも愛をもって見つめられることを望むのです。
ことばと呼吸を同時に用いて祈ることもできます。祈りのことばとして、ヘブライ語で“イェッシュアー”というイエスの名を選んでみます。息を吸い込みながら、“イェッシュアー”の最初の部分“イェ”を心の中で繰り返し、ゆっくり息を吐き出しながら、“シュアー”と繰り返します。これは、息を吸う時、神を受け入れるという意向を、息を吐き出す時には、神の愛に自分自身を委ねるということを内的に表わすのです。こうして、神の現存と私たちに対する神の自己譲渡の愛を究極的に表現する“イェッシュアー”というイエスの名において神と一致するのです。
■まとめ
上述した三つの方法はどれも心の祈りの生きた形です。一つひとつは、あらゆる考えや知的、情緒的活動から“解き放たれて、戻っていく”という過程を通して神への明け渡しと自己譲渡を深めていくプロセスなのです。そして、時とともに私たちは考えることをやめるのではなく、そこから解き放たれ、自分の考えよりももっと深い神の現存における内的沈黙のうちに憩うことができるようになっていくのです。私たちが考えをもっているのであって、私たち自身が考えではないことを体験するようになります。私たちは沈黙の祈りの実践であろうと日々の絶えざる祈りであろうと、神に自らを明け渡し、そこに逃れ場を見出す自由を持っているのです。私たちは自分の本当の住みかは自らの内にある神の国であり神の住まいである自分自身の心であることを知るようになります。私たちは神の現存とその自己譲渡の愛において神と一致する時に心の聖所において、神と共にあって、自分を与える愛の心の器を育てていくことができるのです。
ギリシャ正教のカリストス司教は“心の祈り”について次のように述べています。「天の国は私たち一人ひとりの内にあります。祈ることは単純にこの心の内なる神の国に入って、神の前に身を置き、神の現存を意識することです。絶えず祈るとは、絶え間なくこれを行うことなのです。扉は私たちの前にあり、その鍵は私たちの手の中にあるのです。」と。
William T. Ryan, “PRAYER OF THE HEART”より抄訳
祈りの七景
一、願いの祈り
願いの祈りは、多分、いちばん多くの人々が実践しているものでしょう。それは、学校で手助けを願う学生の祈りであり、病気の子供の回復を願う父親の祈りであり、また、夫とのかかわりに問題を抱えている妻の祈りでもあるでしょう。私たちは自分自身が何かを必要としていたり、友人が困難に遭遇している時など、神に祈ります。危機の時には、助けを求めて、神に近づきます。
もちろん、願いの祈りには聖書的基盤があります。預言者イザヤは次のように言っています。
「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46・4)
新約聖書では、イエスは、私たちが必要としているものを全て神に言い表すことが大切であると強調しています。ヨハネ福音書16章24節で、イエスは弟子たちに「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」と言いました。使徒ヤコブは、願う祈りをささげなかったために、神の祝福を味わえなかった人々を非難しています。
「得られないのは、願い求めないから(です)。」(ヤコブ4・2)
このような聖書のテキストから、神は私たちの関心事を聴きたいと願っているのだとわかります。「私に話しなさい。願いなさい。あなたが必要としていること、望んでいることを、そのまま私に話しなさい。」と神が言っているのが示されるのです。
二、告白の祈り
願いの祈りが広く一般的になされているのに対して、告白の祈りは多くの人にとって一番難しいものかもしれません。自分の罪や欠点、失敗などを告白し、ゆるしを願うことは決してやさしいことではありません。それでも告白することによって、人は情緒的、霊的清めへと導かれていくのです。
旧約聖書は、告白することから湧き出る恵みについて語っています。
「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。」(箴言28・13)
この告白の祈りをささげるのに困難をおぼえるなら、ルイス・カーセルスの次の言葉を思いめぐらしてみて下さい。
「告白することによって私たちは自分自身をいやしと和解、回復、そして、私たちがどういう者であろうと、ひたすら愛してくださる神の恵みへと開かれていくのです。」
三、とりなしの祈り
多くの人々にとって重要なもう一つの祈りは、とりなしの祈りです。この祈りは他者のため、とりわけ、苦しみ、傷ついている人々のためにささげる祈りです。聖書にみられる、とりなしの祈りの一つは、モーセの祈りにあります。モーセは、重い皮膚病にかかった姉ミリアムのために祈りました。「モーセは主に助けを求めて叫んだ。『神よ、どうか彼女をいやしてください。』」(民数記12・13)
とりなしの祈りの最近の例として、二人の子供の母親である35歳の女性の体験を紹介しましょう。彼女とその夫は離婚することを決断していました。それによって、8歳と3歳になる息子たちは大変な衝撃を受けました。彼女はそのことでひどく悩んだ末、ついに、隣人に夫婦間の問題について打ちあけました。その人は深く共感して話しを聴いてくれ、自分にできること、つまり、彼女と彼女の夫、そして子供たちのために祈ることによって彼女を助けたいと申し出ました。
その後の展開についての彼女の話――
「隣人の親切と祈りは私の生活に希望をもたらしてくれました。その後まもなく、夫が私たちの結婚生活はやり直すことができるものなのかどうかをみるために、カウンセリングを受けに行ってはどうかと提案してきたのです。カウンセリングに行くことは私たち二人にとって怖いことでしたが、それでも思い切って行ってみました。時に、私たちの話し合いは痛みを伴うものでしたが、私たちはカウンセリングを続けました。そして、一年以上を経た今では、私たちは結婚生活に平和と喜びを見出すことができるようになったのです。私が隣人に問題を打ちあけて以来、彼女は私たちのために祈り続けていてくれたのです。私は彼女が私たちのためにしてくれたことに、いつも感謝しています。」
四、メディテーション(瞑想)
「もし、私が医者であり、世界中の病人のために薬を処方することができるならば、沈黙という薬を処方するでしょう。というのも、たとえ神のことばが現代世界に告げ知らされたとしても、どうして、この喧噪の中で、それを聴くことができるでしょうか? だから、沈黙を創造してください!」
これは19世紀、デンマークのキリスト教哲学者キルケゴールの言葉です。メディテーションは大切な霊的修練です。沈黙において私たちは自らの魂を開いて、神の導きと愛、すすめを感じとることができるのです。神の現存のうちに沈黙してとどまることは、永遠なるものと接触することのできる効果的な道なのです。私たちが内的喧噪を経験している時にも、この沈黙のメディテーションは助けになります。祈りに満ちた沈黙は、悩む魂を安らがせ、騒ぐ霊を鎮静させます。また、それは私たちがもっと明確に、極みまで考え、もっと賢明に祈ることができるよう助けてくれるものなのです。
五、感謝の祈り
神が豊かに私たちを祝福してくださった時、私たちの心と口唇からは自ずと感謝の祈りがあふれてきます。エマーソンは、日常的にこの感謝の祈りをささげていました。
「朝の光のゆえに、父よ、あなたに感謝します。夜の休息と避難所のゆえに、父よ、あなたに感謝します。健康、食物、愛、友人たち、あなたが与えてくださるすべてのもののゆえに、天におられる父よ、あなたに感謝します。」
一つの卓越した例は、ナチスに捕らえられた若きユダヤ人女性、エティ・ヒレスムの祈りです。強制収容所という身の毛もよだつ状況の中から、彼女は、礼拝と賛美の祈りをささげることができました。
「ここでの悲惨さは実に恐ろしいものです。それでも、しばしば、私は足どり軽く、踊るように歩きます。生命は栄光に満ち、すばらしいものであるということが繰り返し繰り返し私の心から溢れてきます。神よ、あなたは私を実に豊かにしてくださいました。どうか、両手を開いてあなたの美しさを分かち合わせてください。」
六、賛美と礼拝の祈り
賛美と礼拝の祈りは、単純に神を賛美したい時にささげられる祈りです。それは、神の大いなる恵みに気づき、心から自然にわき上がってくるものです。19世紀、フランスの司祭マリア・ヴィアンネは、「神を愛する心の中には、とこしえの春がある。」と言っています。
このような礼拝と賛美の祈りは詩編に多く見られます。
「どのようなときも、私は主をたたえ、
私の口は絶えることなく、賛美を歌う。」(詩編34・1)
「私は御力をたたえて歌をささげ、
朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。
あなたは私の砦の塔、苦難の日の逃れ場。」(詩編59・17)
七、奉献の祈り
奉献の祈りは、神の望みと奉仕に完全に自らを空け渡すことを伴います。それは、神への応答に敏感なキリスト者によってささげられます。彼らは求められているのを知れば、それを果たしたいと思うし、傷ついた人々に出会うと、彼らをいやすために働きます。歴史は神に自らを奉献したがゆえに驚くべきことを行った人々で一杯です。インド、カルカッタの貧しい人々の間で働いたマザーテレサ、カナダ、ラブラドールのエスキモーや先住民、白人たちの間で働いた英国人医師ウィルフレッド・グレンフェル、それに、ロンドンのスラムで働いた救世軍の創始者ウィリアム・ブース将軍、フランスの貧しい人々や北アフリカからつれてこられた奴隷のために尽くしたヴィンセンシオ・ア・パウロ、正義への深い感覚をもち、アメリカの貧しい市民のために衣食住を提供する多くのシェルターを開いたドロシー・デイ・・・彼らはそのような人たちです。
もちろん、奉献された生き方は、また、最期を迎えた病床の妻への忠実さを保ち深い愛をもって仕える夫や、わがままな子供のために熱心に祈る母親、そして、悪い行動に誘う仲間の圧力に徹底して抵抗する若者の姿の中にも見出すことができるのです。
むすび
これまで見てきた7つの祈りの一つひとつに深まることによって、私たちは、より円熟し、満たされた霊的生活を送ることができるようになるでしょう。なぜなら、祈りは魂を教育する道だからです。
ドストエフスキーは次のように言っています。
「祈りが本物であれば、祈るたびに、そこに新たな感情や意味が現れてくるでしょう。それは私たちに活力あふれる勇気を与え、祈りが教育であることを私たちは理解するでしょう。」
出典不明のものより抄訳
「 生活の霊性」 〜初心者のために〜 1.霊的同伴とは 2.祈りの道すじ 3. 霊的日記を始めるために 4.意識の究明とは 5.意識の究明――「自由」のプロセス〈 翻訳〉 6.社会的次元における意識の究明のポイント〈 翻訳〉 7.神との内的一致を求めて〈 翻訳〉
1.霊的同伴とは
1.霊的生活
キリスト者として信仰生活を生きるということは日曜日にミサに与って祈るということだけではなく、家庭生活や社会生活をも含んだ自分の生活全体において、それを生きるということです。それは心の奥深いところでの神とのパーソナルで親密なかかわりの上に成り立つものです。その神との内的なかかわりの生活を霊的生活と呼んでいます。
2.霊的同伴とは?
霊的生活は、生涯を通して成長していくものです。霊的同伴とは一口で言えば、一人の人が他の一人の人の霊的生活に同伴し、その成長の歩みを助けていくものです。
人は、祈りと自分の生活全体における神のはたらき、聖霊の導きを識別し、どのようにそれに応えていったらよいかを知ることが必要です。同伴者はそれを助けます。従って、霊的同伴は、同伴される人自身の識別を助けることであり、同伴者からの助言を求めたり、問題解決を目ざすものではありません。この点がカウンセリングやセラピーと異なるところと言えるでしょう。
3.霊的同伴者
最近では、「霊的指導(者)」の代わりに「霊的同伴(者)」という表現が広く使われるようになっています。なぜなら、霊的生活における真の指導者、導き手は神、聖霊御自身であって、霊的指導者ではないからです。霊的同伴者の役割は、神に向かってその人と共に歩み、その霊的成長の手助けをすることであり、またその人の中にはたらかれる神の業の証人となることでもあるのです。
4.霊的同伴の受け方
霊的同伴は、通常、霊的同伴者と一対一で対話を交わすことによって行われます。この対話に照らされて、自分の祈りや生活における神のはたらきに気づき、識別していくことが易しくなるのです。
霊的同伴者とは定期的に(一月に一回、あるいは二週間に一回など)会うことが勧められます。また、霊的成長は、生涯にわたるプロセスですから、一生涯何らかのかたちで霊的同伴を受けることは大きな助けとなるでしょう。
5.霊的同伴の条件
霊的同伴が成り立つためには、神との内的かかわり、霊的生活を生きていることが前提ですから、その人が日常生活の中で何らかの形で祈っていることが必要です。
特に、キリスト信者として真剣に自分の信仰生活の統合を目指したいと願う人、また、自分の根本的な召命や将来の道を探したいと望んでいる人にとって、霊的同伴は助けとなります。
2.祈りの道すじ
祈りには様々な祈り方があります。[日曜日の聖書]や[毎日の祈り]のみことばを祈る時も、自分に合った祈り方を見つけるとよいでしょう。ここでは、一つの祈り方を紹介しますが、助けになればこの道すじをたどって祈ってみることもできます。
(1)祈りの準備
・みことばをゆっくり2〜3回読んでみます――どんな言葉や情景が心に響くでしょうか。心が動くところ、祈りたいと思う箇所に心をとめ、それを今日の祈りの材料にします。
・そのみことばと今の自分の生活状況を重ねてみて、私はどんな恵みをいただきたいと思うでしょうか。それを祈りの意向として意識しておきましょう。
・もし朝起きてすぐに祈りたいならば、この祈りの準備を前の晩にして、心に響いたみことばといただきたい恵みを思いめぐらしながら休むと、朝目覚めてすぐ祈りに入るのに助けとなるでしょう。
(2)祈りの導入
・祈る場所を決めてそこへ行きます。
自分の部屋、庭、通り、公園、教会の聖堂……
どこでも構いませんが、自分にとって心が落ち着き、祈りやすい場所を祈りの場とすることが大切です。
部屋の一隅にローソクや聖書、御絵などを置いて、祈りの場を作ることもよいでしょう。
もちろん、その日によって祈る場所を変えることもできます。
・祈りやすい姿勢をとります。リラックスしていながらもほどよい緊張感のある姿勢をとり、背筋を伸ばし、肩の力を抜きます。
・呼吸に意識を集中したり、周囲の音に耳をかたむけたり、体の各部分の感覚を感じてみるのも、心を落ち着かせ、静けさに入っていくための助けとなります。
ヒント
■ 呼吸を意識するエクササイズ
まず、はじめの5分間、体のあちこちの部分の知覚を意識します。
次に呼吸に移り、これを意識してください。鼻孔をとおって入ってくる空気、出て行く空気を意識します。肺の中に入っていく空気に注意を集中するのではありません。空気が鼻孔をとおるときにのみ注意を向けます。
呼吸は不自然にコントロールせず、無理に深く呼吸しようとせず、自然のままにしてください。これは呼吸のエクササイズではなく、知覚のそれです。浅く息をする性の人なら、普段のままにおこなってください。日常のペースをそのままにおこなってください。息を観察するのです。
このエクササイズにとりかかるまえに、ただ一つの呼吸も逃さず知覚するぞと固く決心すれば、大いに助けになります。
■ 音を意識するエクササイズ
目は閉じてください。親指で両耳をふさぎます。目は手のひらで軽く覆います……。
今、まわりの音は何も聞こえていないはずです。息を聞きます……。
10回ばかり呼吸を聞いてから、静かに両手をひざの上に置きます。目は閉じたままにしておきます。まわりの物音すべてを聞きます。さまざまな音が聞こえます。大きな音、小さな音、近くの音、遠くの音……これらに注意深く耳を傾けてください……。
しばらくそうしてから、注意して音を聞いてください。これは足音、あれは時計のチクタクという音、そしてそれは車の警笛などと識別せず、ただ音を聞くのです。あなたをとりまく音の世界を一つの全体として聞くのです……。
■ 体を意識するエクササイズ
両肩の力を抜き、くつろいだ姿勢をとってください。目を閉じます……。
体の各部分を知覚します。現在あなたは、体の各部分の感覚をうすうす感じてはいるものの、はっきりと明瞭に気づいてはいないのです……。
肩に触れている衣服を感じてください……背中に触れている衣服を感じてください……背中が椅子の背に触れていることに気づいてください……。
互いに触れ合っている両手、ひざの上においている手を感じてください……。
椅子に押し当てられている腿とお尻を意識します……靴に触れている足を感じます……。
座っている今の姿勢にはっきりと気づいてください……。
はじめから繰り返します。肩……背中……右手……左手……右腿……左腿……足……座っている姿勢……。
もう一度繰り返してください。肩……背中……右手……左手……右腿……左腿……右足……左足……座っている姿勢……。
……体のある部分から、他の部分へと動きながら、自分一人で続けてください。各部分にはほんの数秒だけ留まります。肩、背中、腿と次から次へと動きつづけてください。
指摘した部分だけでなく、頭、首、胸、腹など、他の部分を順を追って感じても結構です。
肝心なのは各部分について感覚を得ること、体の各部分、部分を感じることです。
・心を静めながら、神がここに共にいてくださること(神の現存)を意識します。
・祈りの準備の時に意識した意向(求める恵み)をいただけるよう、神に願います。
(3)祈り
準備のときに選んだ祈りの材料 ―みことば― を心の中で繰り返したり反芻したりしながら味わいを深め、そこから生じてくる心の動き(気持ち)を味わいます。それによって神の働きを感じとるようにして、それをゆっくり味わいます。(神は、私たちの心の動きを通して、働きかけておられます。)
祈りが終わりに近づいたころ、この祈りの間に味わったこと、気づかされたこと、感じたこと、また様々な思いや願いなど、ありのままを神に話します。そして、それに対して神がどのように応えてくださるか聞くようにします。あるいは、言葉なしに、ただ沈黙で神の内に留まるのもよいでしょう。
(4)祈りの振り返り
・祈りを終えた後、場所や姿勢を変えて、今の祈りを振り返ります。
・全般的に、祈りはどうだったでしょうか? 神を身近に感じたでしょうか? あるいは祈りが難しかったでしょうか?
・どのような気づきや心の動きがあったでしょうか? 喜び? 平和? 静けさ? あたたかさ? 悲しみ? 怒り? そわそわ? 空しさ?‥‥‥
・それらを通して、神は私にどのように働きかけ、呼びかけてくださったのでしょうか? それに対して私は喜んで応えようとしたでしょうか、あるいは避けたいという思いだったでしょうか?
・祈りに集中することができたでしょうか? できなかったとすればその原因はどこにあったと思いますか?
・祈りを通して何か学んだことがあったでしょうか?
必ずしも、これらのポイントの全てに答える必要はありません。特に印象深かった点や心に残っていることについて振り返ってみましょう。そして振り返ったことを簡単にノートに書きとめておくとよいでしょう。一週間あるいは二週間ごとにノートを見ながら自分の祈りを振り返ると、祈りに一つの流れができていることがあります。
30分祈るとすると、その準備と振り返りにそれぞれ5分ぐらい費やします。(1時間の祈りなら、それぞれ10分〜15分当てるとよいでしょう。)
(5)祈りの反復について
祈り終わって、何らかの霊的な感動、心が深く動かされたり、もっと味わいたいと思うところ、あるいは、気になるところ、ひっかかるところなどは、次の祈りでもう一度、祈ってみるとよいでしょう。そして、そこを重点的に味わい深めてみましょう。その場合、前に祈った聖書箇所全体をはじめからもう一度繰り返したり、何か新しいものを探す必要はありません。
このように祈りを反復することによって、祈りが深められていきます。
枠内: アントニー・デ・メロ 著 / 裏辻 洋二 訳 「東洋の瞑想とキリスト者の祈り」 女子パウロ会より
4.意識の究明とは
神は私たちの生活の中に絶えず、働いておられます。
日常の出来事や仕事、人々とのかかわりを通して恵みを与え、呼びかけてくださる神の働きかけにもっと敏感になり、それに応えて生きるため、意識の究明は大きな助けとなります。
「意識の究明」の仕方
@ 感謝
祈りの心を整えます。まず呼吸を整え、神が共にいてくださること(神の現存)を意識します。
一日をざっと振り返って、感謝したいことは何か? 自然に浮かび上がってくることに心をとめ、神に感謝します。
A 聖霊の光を願う
一日を神の目で振り返ることができるように、神が私に見せたいと望んでおられることを見ることができるよう恵みを願います。
(意識の究明は祈り、つまり神のイニシアティヴによるものであって、自分で自分を分析することではありません。)
B 一日を振り返る
一日の出来事とそれに対する私の反応、心の動き(感情)をていねいに振り返ります。
それを通して神は私をどのように導かれたか? 神は私に何を語ろうとしておられたか? どんな回心を呼びかけておられたのか、を見ます。
それに対する私の反応、態度はどうだったか? 神に向かおうとしていたか? 離れようとしていたか?・・・・これらも振り返ります。
C 感謝、痛悔、ゆるし
神のみちびき、恵みに応えることができたならば、それを感謝します。あるいは神の愛、呼びかけに応えなかったことを痛悔し、ゆるしを願います。いやされていない傷にはいやしを願います。
D 明日への助けとみちびきを願う
Cからの流れとして、明日に向けて、今の私に特に必要な恵みと助けは何か? それを神に願います。
意識の究明は、ふつう、一日の終わりに10〜15分かけて行いますが、ある時には、@の感謝のみで終わることがあってもよいでしょう。
5.意識の究明――「自由」のプロセス
神のはたらきに気づき、愛に成長するための手段
意識の究明は、日々の生活における小さな識別です。それは人生を十全に生きていくための「自由」のプロセス、つまり「〜からの自由」と「〜への自由」からなるプロセスなのです。意識の究明の目的は、日常生活で私たちが様々なことに直面する際に、私たちの中に起こっている内的な現実と霊の動きを見つめ、そこに注意を払うことです。そして、究明をすることの最終目的は、神がどこに私たちを導いておられるかを見出していくために、日々、識別しながら生活していくということです。
神は、私たちを信じる者となるように呼ばれる体験や愛するようにと招く体験の中におられるのです。また、すべての人々、物事、出来事の中に神を見出すことを可能にする体験の中にもおられるのです。こうして、私たちは活動における観想者となり、主が呼ばれる場で愛し、奉仕することができるようになるのです。
識別の根本的な態度は、主に向かって開かれている姿勢と信頼の心です。それは真に自由な人のしるしでもあります。内的束縛からの自由、自分を強制するもの、強迫観念、執着心、とらわれ、所有欲、そして社会的地位や富、物や人の奴隷になることからの自由、また、利己心、わがままなどからの自由、さらに、恐れや怒り、依存、支配欲などからの自由、自らの生い立ちや人生設計、また、様々な外的圧力、偏見、不確実さなどから自由になっていくのです。そして私たちは愛することと信頼することへと自由になっていくのです。愛されることをゆるし、本当の自分自身になり、人とかかわり、傷ついた人間関係がいやされるにまかせるのです。私たちは貧しく必要にも事欠く人々との連帯に生きるため、また、危険を冒して何かに取り組むためにも自由が必要なのです。他者に自らを与え差し出すために、そして神のみに安定感を求めて自らを明け渡すために、自由を必要とするのです。
意識の究明の5つのステップは、人間同士の愛に見られるダイナミックな動きの5つのプロセスと一致します。本当に愛している人に対して、私たちはいくつかのことばを次のような順序で投げかけたいとは思わないでしょうか。 @「ありがとう」 A「助けてください」 B「あなたを愛しています」 C「ごめんなさい」 D「私と共にいてください」 と。
そこで、意識の究明においては、神との関係についてこのプロセスをたどってみましょう。
@「神様、ありがとうございます‥‥あなたは何とすばらしい方でしょう。」
今日いただいたすべての恵みを思い起こしてみましょう。そして、出会った人々、出来事、状況などを通して神はどのように御自身を示してくださったか(神の現存)を意識します。
A「助けてください。」
神の光のもとに、私はどれほど神が共にいてくださったこと(神の現存)に対して鈍感であったか、また、どれほど盲目であり、神に耳を傾けようとしなかったかということに気づき始めます。
私が、見ることができ、聞くことができるよう、神に助けを願います。
B「しかし主よ、あなたを愛します。」
この日、私が盲目であり、また、主に耳を傾けようとしなかったことが自然に意識にのぼってきます。人は愛の関係の中にある時、どれほど自分が愛さなかったかということに気づくために、過ちについての客観的なリストを調べる必要はありません。そこでは、主が共にいてくださったこと(主の現存)に気づかず、応えなかったことを意識するようになるのです。
C「ごめんなさい。」
これは私を気落ちさせる時ではなく、痛悔を通して神への感謝と深い交わりへといたる時なのです。
「主よ、私はあなたにふさわしくない者です。」 しかし、放蕩息子の父親のように、神は、なお、私を宴会の席へと招いてくださっているのです。
D「主よ、私と共にいてください。‥‥あなたの恵みによって明日はもっとあなたを愛したいのです。」
Alwyn Fernandes, GROWING IN LOVE より抄訳
6.社会的次元における意識の究明のポイント
1.最近、自分の使命感を強く感じるようなことがあったでしょうか?
祈りを通して? 出会った人々を通して?
テレビやラジオを通して? 新聞を通して?
受け取った手紙を通して? 仕事を通して?
2.自分自身から出て、孤独な人、勇気をなくした人、悲しんでいる人、必要なことにも事欠く人、見知らぬ人、病気の人などに関心をもつようになっているのを感じますか?
3.今、どのくらい社会的な関心事が、自分の考えや活動の中に比重を占めているでしょうか?
この関心事を他の人々に伝えたり、分かち合おうとしているでしょうか?
家庭で? 職場で? 娯楽の場で? サークルで?
学校や大学で? 人々とともに祈る場で?
談話や会議の席などで?
4.今日の出来事や出会った人々を通して、いかに自分が社会の構造悪に組み込まれているかに気づかされることがあったでしょうか?
どのような人々を通して? どんな出来事が? どんな本が?
どんな映画が? どんな歌が? どんな記事が?
5.経済構造の罪深さを指摘し、批判することをしたでしょうか?
収入の不平等について? 住宅問題について?
贈収賄事件について?
このようなことについて私は祈ったり、何らかの行動を起こしたりしているでしょうか?
6.正義、寛容、平和、愛‥‥などの価値を大切にする神の国を建設しようとしているでしょうか?
それとも、教会の建物の方に関心があるでしょうか?
7.今日、どのような貧しさ、犯罪、差別、搾取などに出会ったでしょうか?
また、それに対してどのように反応したでしょうか?
自分自身や他の人々の意識を目覚めさせるような、何らかの機会が与えられたでしょうか?
私は、どのようにこの機会を用いたでしょうか?
8.不安を感じている人を元気づけたでしょうか?
快適な生活に安住している人にチャレンジしたでしょうか?
それとも波風を立てまいとして、彼らに迎合したでしょうか?
9.私の自由な選びは、どこに私をみちびいていくでしょうか?
貧しい人々や困窮している人々の方へ?
あるいは、富める企業によって与えられる快適さと満足感の方へ?
使徒職で裕福な人々とかかわる時、私は、彼らが恵まれない人々とその富を分かち合わなければならないということを悟れるよう、啓蒙する機会をつかんでいるでしょうか?
10.私の仕事はこの社会の問題にどんなインパクトを与えていますか?
農村社会には? 都会の生活には? 労働者には?
若者には? 教育には?
11.祈りの生活において、詩編の中で “正義は生活の公正さにとって重要である” と言われていることを思い起こすことがありますか?
私は典礼や信仰講座、黙想会などで、そのようなテーマに関する大胆な新しいアプローチを取りたいと思いますか?
私の書く記事についてはどうですか?
また、私の講演や会話は?
それらには意識化への視点がありますか?
秘跡が表している現実を見出すことなしに秘跡主義に陥っていることはないでしょうか?
12.より大きな意味での教会の中で、どのように神のはたらきを意識できるようになってきているでしょうか?
他の様々な教会や信仰では?
自分の国では? 他の国では?
このことはどのように私に影響を与えているでしょうか?
「社会的次元における意識の究明のポイント」の出典:Alwyn Fernandes, GROWING IN LOVE より抄訳
聖書で祈る
2003年 9月14日(日) 十字架称賛 B年
ヨハネによる福音 (ヨハネ3・13-17)
そのとき、イエスはニコデモに言われた。「天から降(くだ)って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上(のぼ)った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
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民数記 (民数記21・4b-9)
その日、イスラエルの民は旅の途中で耐え切れなくなって、神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿(はたざお)の先に掲(かか)げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。
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使徒パウロのフィリピの教会への手紙 (フィリピ2・6-11)
イエス・キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執(こしつ)しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名(みな)にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公(おおやけ)に宣(の)べて、父である神をたたえるのです。
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黙想のヒント
ヨハネ福音書で、イエスは、
「神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである」
と言われます。
この「世」は、律法学者やファリサイ派の人々など
当時の宗教指導者たちに代表されるような
イエスに敵対する社会でした。
決してイエスにとって
心地よい社会ではありませんでした。
しかし、神は、
こういう社会、人々を裁くのではなく、
救うために、
御子をそのただ中に送られたのです。
民数記では、
エジプトを脱出し、
荒野で神とモーセに逆らった民が、
「わたしたちは主とあなたを非難して、
罪を犯しました」と自らの罪を認め、
ゆるしを願ったことによって救われます。
しかし、イエスは、
ゆるしを願うどころか
罪の自覚さえない人々のただ中に
自ら先に来られたのです。
民数記の出来事のように
人々の回心が先にあったのではありません。
イエスは、今も
こういう世界や私たちを裁くのではなく
救うために来られる‥‥
この事実を、私たちは
どれだけ本当にわかっているのでしょうか。
今の世界情勢を見ても、
経済力、軍事力にものを言わせて
相手国を蹂躙(じゅうりん)する大国の論理が
まかり通っています。
社会の風潮も、私たちの個人的な人間関係も、
人を救うことよりも裁くことの方に
重点が置かれがちではないでしょうか。
周囲にちょっと気に入らない人がいると、
すぐにその人の否定的な面を指摘しては
裁いてしまったり、
同じ事柄に対して、プラス志向よりも
マイナス志向が優先しがちなのが私たちです。
人や状況を救いたいという発想が
なかなか優先しません。
フィリピ書にあるように、
「キリストは‥‥
自分を無にして、僕の身分になり、
人間と同じ者になられました。」
「へりくだって、死に至るまで、
それも十字架の死に至るまで従順でした。」
それは、裁く神のあり方ではありません。
イエスに敵対する人々の中で、
イエスは生涯を通してこのようなあり方をもって、
救いを全うされたのです。
イエスは、
「人の子も上げられねばならない」と言われますが、
これには二つの意味が重ねられています。
十字架に上げられることと、
復活したイエスが天に上げられるということです。
つまり、十字架と救いは
分けて考えることができません。
十字架は、
神の子としてのイエスが徹底的に人間となり、
生涯を通して人々の救いのために自らを
ささげつくした生き方のクライマックスであり、
その生き方を
父である神が認め、高揚してくださったのです。
十字架称賛の祝日にあたって、
私たちが礼拝するのは、
まさにこのような十字架なのです。
毎日の生活の具体的な場面で、
私たちは神が望まれる「救い」を選びとっているか、
自らに問いかけてみたいと思います。
そして、
イエスが身をもって示してくださった
この救いの生き方を
自分のものとしていくことによって、
私たちも周囲に小さな救いを
実現していくことができるのでしょう。
それはまた、
ファリサイ派の議員ニコデモにとって
そうであったように、
力の支配するこの社会の中で、
大きな問いかけとなることでしょう。
主よ、あなたと共に
救いの道を歩むことができるよう、
恵みを祈り求めます。
画: La Cruz a cuestas, www.encuentra.com
(日曜日の聖書 2003/9/14)