女子修道会

JPICとは Justice, Peace, Integrity of Creation

UISG No.134

すべての人に命と希望が生まれる新しい霊性の糸を織る挑戦を迫められて

現代における奉献生活:危機とチャレンジ 東京 2007年
ティモシー・ラドクリフ、
OP
国際女子修道会総長連盟(UISG)2007年総会宣言
2005年8月 広島・長崎60周年「平和の誓い」「彼らはその剣を鋤きにうちかえ、そのやりを鎌にうちかえる。」日本女子修道会総長管区長会
女子修道者リーダーの声明 2004 女子修道会総長連盟
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UISG No.134

すべての人に命と希望が生まれる

新しい冷製の糸を織る

挑戦を迫められて

Thomas Hughes、神言修道会士

 トーマス・ヒューズ神父は1947611日アイルランド、ダブリンで生まれる。1964年、神言修道会に入会。1970年、叙階。翌年ブラジルで小教区と修道会会員養成のために働く。1992年、聖書使徒職に献身。1992年から1998年までパラナ州CRB(ブラジル修道者連盟)の会長。現在、神言修道会パナマ地域聖書使徒職の調整者。
原文:英語

  

はじめに、この総集会で話をするよう招いてくださった企画委員会のみなさんに感謝を述べます。わたしはこの招待をしぶしぶお受けしました。と申しますのは、わたしは男子修道会の会員であるからです。ただそればかりではありません。これまでわたしは「総長」、言ってみれば「連隊長」であったことはありません。つまりわたしはふつうの歩兵にずっと近い者です。ですから神言修道会宣教者としての40年の修道生活−その35年間はブラジルで過ごしたのですが−の背景をもつ、みなさんと同じ旅路を歩む一人の兄弟として、あるがままにお話したいと思います。世界中の修道生活ばかりでなく、教会にとっても、したがって神のみ国にとっても非常に大切なこの機会に、わたしを迎えてくださったみなさんに感謝しています。

織るとは新旧の糸で新しい模様を生み出すこと

  この総集会のまさにその標題がこの考察をすすめていくうえでいくつかの指針を示しています。つまり、まず「挑戦を迫られて」ということばですが、挑戦は何もない空白からは起りません。それは具体的な情況から起きます。今日、修道者であるわたしたちに迫る挑戦とは何でしょうか。その挑戦はふたつの流れの源である具体的情況から起っていると思います。その流れのひとつは奉献された修道生活の本質から流れ出ています。もうひとつは、地球的規模で拡大している新自由主義経済に支配された社会の典型的様式に見合った生活から除外されて苦しんでいる、人類大集団の現状から湧き出でいます。ヤーウェが数千年前のエジプトで叫びをあげるその民に挑戦を迫られた、まさにそのように、この神ヤーウェのご計画に徹底して従う生活、みことばに受肉された生き方として理解されている修道生活は、今日何百万あるいは何億もの苦しむ人類の耳を聾する存在の叫びに挑戦を迫られています。修道生活の本質からもうひとつの挑戦が起ります。わたしたちの真のアイデンティティーは、誓願と仕事への忠実を何よりも第一とすることによって実現するのではありません。その実現は何よりもまずキリスト者であるわたしたちの生き方によるのです。第二バチカン公会議の幕が明けて数年の間、わたしたちは刷新の時期を過ごしました。しかし注意深く見守っていればだれにでも明らかですが、今では刷新の動向は衰退し、現実にわたしたちには危機的状態がつづいており、これまで以上に、修道生活の真の在り方とその意味を明らかにする必要が逼迫しています。

 考察の鍵となる標題のもうひとつのことばは「織る」です。織る行為には新しい何かを創造する意味が含まれています。織る行為によって異なる糸で新しい布が創造されます。現代社会生活の複雑な糸で天然色の布を織る挑戦をしっかりと受けて立ち、すべての人に命と希望が生まれる霊性を織りたいとわたしたちが真実に願うなら、その霊性に欠かせない要素が何であるのか、どうしても見定めなければなりません。新しい霊性の多くの要素は、実はそれほど新しいものではなく、むしろ数世紀の間おろそかにされたり、放棄されたりさえしてきた、きわめて古くからのものであるのがよく見えてくるでしょう。わたしたちは「生まれる」霊性を探しています。生まれる霊性は前もってすべての答えを整えて考えられるものではありえません。それは、自分が創造のみ業をつづけておられる神の原動力に組み入れられたいと切に望む霊性です。神は第二イザヤ預言書のなかで小言を述べておられます。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか」(イザ43,19)。パウロは述べています。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(ロマ8,22)。つまりわたしたちも霊性のこの産みの苦しみを味わっています。またわたしたちは命と希望が生まれる霊性を探究しながら、イエスとの調和のなかで生きます。イエスは第四福音書のことばのなかで、ご自分の使命はすべての人が「命を受けるため、しかも豊かに受けるため」(ヨハ10,10)であるとされます。わたしたちは非常に多くの人が、多くの国さえもが新自由主義スチームローラーの圧力に直面して希望なく受身であるのを見ています。希望なく受身である受動的霊性が今日ほど必要とされる時代はおそらくこれまでになかったのではないでしょうか。受動と無能力は今日わたしたちがよく味わう感性です。教会と修道生活の大きな部分でもそれを味わっています。エマオへの途上、弟子たちはこのような情況のなかにいました。再び同じ情況がわたしたちの心を燃え立たせ、わたしたちの目を開くよう迫っています。

神のことばはいつも新しい

 刷新された霊性はわたしたちには明示されています。今日の教会はここ数年にわたって新しい霊性が、それが新しいと呼ばれようと呼ばれまいと、神のみことばであること、そしてわたしたちがみことばの土台に立って霊性を考えるよう強調しています。記念すべき文書「神のみことば」(啓示憲章‐訳注)(記念すべき理由はその長さではなく、その重要さです)は、神のみことばがすべての教会の、そしてその神学と説教の魂となり、聖書が一般信徒の手にもう一度戻されるよう強く要請しています。以来40年もの年月が過ぎましたが、いまだにこの要請の領域では、明らかに遂行しなければならないことが多く残されています。それは一般信徒ばかりでなく修道者にも関わることです。多様な情況にあって、世界的広がりで、これまで修道生活が多くの異なったタイプのプログラムを試みてきた努力については誇張しすぎることは困難でしょう。そのような試み(ブラジル修道者連盟の7年にわたるプログラム、「あなたのみことばは命です」、あるいはラテンアメリカ修道者連盟のプログラム、「エマオへの道で」)には実りがありました。その実りは、少なくとも量的見地からは、とくに男子修道生活ではわすかなものでしたが...。2005年9月、この近くにあるカンファレンスセンターでカトリック聖書連盟の特別集会が開催されました。「神のみことば」(啓示憲章‐訳注)の40周年を記念するために召集された集会でした。そのテーマは「教会生活の中の神のみことばの場」でした。次回のシノドスのテーマとして「神のみことば」(啓示憲章‐訳注)を選んでくださるよう教皇さまにお願いしました。その要望については聖公会のいくつかの重要な諸集会の支持を得ていました。教皇ベネディクト16世はその願いを受け入れてくださいました。この総集会にも関連するものとして、ここでわたしたちが「みことば」という言葉に重点を置いた概念を深く考察するのはふさわしいことであると思います。

 わたしたちが参照する第一のポイントは、神のみことばです。聖書をとおして伝えられる神のみことばがとくに強調されます。旧約聖書では、神のみことばはアレキサンドリア派の哲学者たちの「ロゴス」のように、哲学的事象では当然とされている抽象的思索の対象ではありません。神のみことばは第一に体験なのです!神は直接に男女に、同じようにその民に、そして全人類に話されます。

 神のことばは神ご自身の表現‐啓示であり、交わりであり、そして救いの出来事です。「というのは雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように口から出るわたしのことばも空しくはわたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザ55,10-11)。

 そこで神のみことばは確かに二つの面から、それぞれ個々に、しかも別々に離すことなく考えることができます。つまり神のみことばは啓示し、そして行います。真の神がだれであるかを行うという手段によって啓示します。ヘブライ人の神は遠くにいる、固く、動かない神、冷たい、客観的分析の対象物のような哲学者たちの神ではありません。ヘブライ人の神は人類の歴史のなかで、創造し、解放し、集めるみことばの働きのなかでご自分を啓示されるひとりの神であられるのです。このことは全聖書の鍵とみなすことができる箇所−というのは聖書のほかの部分ではこの箇所に述べられている出来事の結果が歴史のなかで最後まで演じられていくのが記されているのですから−で明らかにされています。「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使うもののゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す」(出3,7-8)。

「わたしたちの間にその幕屋を張られる」みことば

 ヨハネ福音書の序の部分で読まれるように聖書の神が降ってこられた出来事のその頂点は受肉です。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。...言は肉となって、わたしたちの間に宿られた(その幕屋を張られた)」(ヨハ1,14)。人類のための神のご計画はみことばが肉となられ、「その幕屋をわたしたちの間に張られ」たときに実現されました。ヨハネ1,14で使われているギリシヤ語、「eskenosen」は「sukene」からの派生語です。その意味は幕屋です。第四福音書には出エジプトの出来事のこだまが聞かれます。ヨハネ福音書の視線では神のみことばは「わたしたちの間にその幕屋を張られた」のであり、つまり、「その神殿を建てられた」のではありません!神殿は固定されています。幕屋は動きます。ほかの表現をすれば、その民がいるところ、どこにでも神のみことばは、ともにそこに、受肉された人間、ナザレのイエス、そしてそのみ業のご計画のなかにおられるのです。イエスのなかに、イエスをとおしてみことばは働き、ここ地上でその救いを成し遂げられます。みことばの神秘の中心は、ご自分の使命とそのみ業のご計画から分離されえない人間であられるイエスです。

 ここにわたしたちの新しい霊性を織るうえで欠かせない糸の一本があります。これは人であるナザレのイエスと、人類のためのそのみ業のご計画です。わたしたちは次のように自らに問うはずです。イエスはこのビジョンをどこから得られたのでしょうか。イエスの霊感は、イエスの動機は、何であったのでしょうか。神のみことばが人となられたというスキャンダル、つまり2000年前、ガリレアの貧しい人たちの間に幕屋を張られたという受肉の事実はきわめて真剣に受け取られなければなりません。神のみ旨を見出し、そのみ旨にたえず従う生活のプログラムを織ることは、イエスにとって挑戦でした。それはわたしたちにとっても挑戦です。イエスは何か自動機械のようにご自分の使命、ご自分のアイデンティティーを見出されたのではありません。そのことはわたしたち今日の修道者にとっても同じです。イエスが通って行かれた過程をヘブライ人たちは、はっきりと強調して宣言しています。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれた」のです。(ヘブ5,8)

神のみことばは導く役割を果たします。みことばの導きの過程はヘブライ人への聖書のなかでイエスの内面に現れます。30年の間イエスはご自分の霊性、信仰をパレスチナの内部で苦しむ人たちと同じ源泉から学び、深められます。つまり第二、第三イザヤ、第二ゼカリヤとゼファニヤの教えにとくに強調されている「アナウィーム」、「ヤーウェの貧しいもの」の信仰の霊性です。イエスがご自分のアイデンティティーと使命を明確にされ、それをご自分のみ業によって実現されていかれたのは、上記の預言者たちの声と圧政下で苦しんでいる貧しい人たちをとおして聖書に現示された神のみことばとの対話によってでした。

ルカはイエスがナザレのシナゴーグを訪ねられたときの出来事を記しています。その箇所に、イエスのご自分についての理解が述べられています。イエスはナザレで育ちました。これをほかの表現に言い換えれば、ナザレでご自分の信仰を見いだし、成長されたということです。シナゴーグの集会で、イエスは第三イザヤの箇所を選ばれ、ご自分の使命をヤーウェの僕の使命とひとつにされました。(ルカ4,10-19)聖書の残りの部分では、イエスが受肉された神のみことばであるご自分の使命を理解され、それを生きて成し遂げられること、そして、その使命は今では聖霊に促されて与えられた恩寵と賜物をみ国の奉仕に献げるイエスの弟子たちによって、交わりの生活のなかでつづけられていることが述べられます。イエスの弟子たちは、聖書のなかの神のみことばとみ国の奉仕に自分を献げる現実との間で対話を交わしつづけながら、「すべてが命を受けるため、しかも豊かに受けるため」(ヨハ10,10)に肉となられた方の使命を生きてつづけることに、自分たちの使命を見いだすのです。

ミリアムから今日の修道者へ:預言のことばを黙させてはならない

 弟子たちのこのネットワークをつづけるとくべつな手段は奉献された修道生活です。みことばによって生まれた修道生活は、それぞれに与えられたカリスマにしたがって時代を築いていく多様な道で、みことばを直感し、その体験を深める霊性に根を下ろしています。

 歴史をとおしてみことばは神の民を産みだし、集め、活気づけ、そして支えられます。第二イザヤのことば、「虫けらのようなヤコブよ!」(イザ41,14)にあるように、世の舞台ではほんの小さな、取るに足りない民でしたが、みことばは民の理想的思いを支えられます。エリート圧政者が自分たちの政策を隠すために時どきに宗教を利用しようとした、その努力にもかかわらず、神はご自分のみ業がイスラエルの記憶から拭い去られるのをけっして許されなかったのです。勢力者たちが不正と圧政を繰り広げていくにつれて、みことばはその民のさなかに預言者と呼ばれる男女の人たちをとおして、率直な抵抗を繰り返されました。神のみことばは好機を捉えて裁判官デボラ、賢者イザヤ、詩人ホセア、牧者アモスのような多彩な人物の教えと模範をとおして民の抵抗を生かしつづけられました。神のみ業を告げ知らせ、それに反するすべてのものを拒み、迫害され、押さえつけられながらも弱い人たちを守り、権力者に相対する人たち、それがみことばの男女の人たちなのです。その人たちをもっとも特徴づけるのはその熱心さです。その人たちは情熱にあふれています。自分たちのメッセージを確信しているので、ほかの人たちを確信させ、危機にある社会を露わにうつしだします。聖霊を注がれてそのみことばを表現します。

 社会のほかの評論家と違って、預言者たちは神との関わりによって自分たちの立場をはっきりさせます。今日の修道生活の預言者たちもそうでなければなりません。預言者たちのことばは神のみことばから成長します。自分たちの姿と使命は、アモス7,10-15;ホセア1-3;エレミヤ1,4-10;イザヤ6,1-13;エゼキヤ6,1-13,11;イザヤ40,1-11などの箇所で読むことができますが、すべて深い神体験に根を下ろしています。この深い神体験なしには預言者たちの生き方は単なるイデオロギー、あるいは民衆煽動運動へと容易に傾斜していたでしょう。今日の修道生活も、実際、神体験に、イエスに従うことに根付いていなければなりません。預言者の伝承はイエスのなかで、軌道上、もっとも地球から遠い最高の極点に到達したのです。修道生活の霊性は洗礼の召命の継承です。刷新された修道生活の霊性が預言者の具体的生き方と異なっているとは考えられません。事実、修道生活が教会のなかで誕生した、そのこと自体が預言の現れでした。預言者は人類のための神のご計画が危険に行き詰まるのを見るといつもみことばを告げ、行います。この意味で、わたしたちは修道生活が教会のなかで創始されたことを理解できます。

 初代教会は困難な迫害時代にありましたが、それにもかかわらず、力強く活気にあふれて熱心でした。当時キリスト者は不穏分子とみなされ、殉教の恐れと向き合って生きていました。しかし312年のミラノ勅令後、教会はカタコンブを去りました。キリスト者は世から受け入れられたばかりか、それ以上の存在となりました。その時キリスト者の数は増加しましたが、教会は「初めのころの愛から離れてしまった」(黙2,4)のです。こうしてかつて殉教によって証しされた、徹底して信仰に生きるキリスと者の姿は曖昧になりました。教会にはキリストに徹底的に従う新しい証、世界に関して強い預言の声である教会自体と同じような証が必要でした。この情況から教会に新しい現象が芽生えました。つまりそれが砂漠の教父から始まる奉献生活です。ほとんど社会に支配されていた教会のなかで、教父たちは信仰と教会の教えを徹底して証しする次元を回復しようと試みました。奉献生活の最初のこの覚醒自体は、道を見失ってしまった教会、つまりその預言的役割、イエスに従う具体的選択についてまったく配慮せずに、すっかり社会の支配下に統合されてしまって、大衆を圧迫し除外していた教会への挑戦として理解されます。

こうして見ていくとまたわたしたちも自分たちの男女創立者を理解できます。創立者たちは教会の生活と証の空隙を見つけて反応したのです。創立者たちは神と人たちが訴えていることに敏感でした。人たちは社会制度から忘れ去られ、窒息し、あるいは沈黙していました。アシジのフランシスコとクララは、大勢的には富者と手を結んでその人たちに支配されていた教会のなかで、貧しい人たちの叫びを聞きました。パウロ・ヴィンセント、ルイズ・マリアックは、パリの街から追い出された人たちの叫びに敏感でした。わたし自身の修道会の創立者、アーノルド・ヤンセンと創立に関わった男女のグループは、ドイツ語を話す教会のための宣教組織をたったひとつももっていないという事実から、呆れられ、中傷され、いろいろな迫害を受けました。創立者たちがいつも修道会を創立する意向をもっていたとは限りません。修道会創立はしばしば創立者たちの働きの第二段階で起きています。制度上の事情から聖霊の訴えよりも組織の維持を気遣う教会が、しばしばおろそかにしてきた神のみことばに、創立者たちはことばと行いで従いつづける人たちでした。神のみことばの道具であるこの男女の人たちがいつも教会に歓迎されたとは限りません。その理由は、だれによって告げられようと、そのために神がだれを選ばれようと、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、こころの思いや考えを見分けることができるからです」(ヘブ4,12)。

 奉献された多様な修道生活は、神の解放のみ業であるイエス・キリストのみ業のご計画を継承するために、聖霊によって教会と世界に与えられたカリスマをとおして創始されました。その生活の実践による実体験なかで神のみことばは受肉されます。ここにわたしたちがたえず想起しなければならないことがあります。それは、真に大切なのはカリスマであり、修道会ではないということです。みことばは永遠ですが、厳律修道会、あるいは活動修道会、あるいは奉仕会の組織が示す姿は必ずしもそうではありません。わたしたちには、自分たちの生活の実践が新しい情況のなかで、今なお人たちと教会の必要と調和しているか、自分たちのカリスマを生きつづけているかを、たえずいつも識別する必要があります。わたしたちの奉献の根元はわたしたちが組織的に生きながらえることにありません。奉献生活の根元はわたしたちの預言的使命にあります。

わたしたちのカリスマをとおして、新しい現実を生き抜く弟子としての在り方

 こうしてわたしたちの新しい霊性の布地に織り込むさらに何本かの糸を見定めることができます。その一本はイエスの弟子としての身分です。その身分とは神がすべての意味で人たちが自由になるのを助けようとされたように、貧しい人たち、追いやられた人たちの見地から、「聞くこと」、「見ること」、「知ること」そして「降りること」によって、現実を読み取る姿です。わたしたちはカリスマ、つまり教会と世界に与えられる聖霊の賜物を時代を築くために使います。弟子たちの姿はその時代の教会と世界への預言の声でした。このような弟子としての本分の一つひとつはたえず刷新して最新化し、深めていく必要があります。そうすることで、修道生活が、もはや現代の人たちへ訴える力のない、過ぎ去った栄光の記念、古びた制度や信心の形に捕らわれた過去の時代の単なる遺物ではなく、受肉された神のみことばの弟子としての真の姿を現す生活となれるでしょう。

 わたしたちが今日霊性の領域で直面している諸問題には、イエスの弟子としての自分たちの使命を生き抜くということ以上に緊急の問題はありません。わたしたちの使命には救世主である方とそのみ業への真の熱情が含まれます。それは過去の多くの信心に典型的に見受けられる感情ではなく、ナザレのイエスという方とそのみ業を深く体験することから湧き出る熱情です。この点で第四福音書のなかのイエスと最初に従った弟子たちとの対話が助けとなります。(ヨハネ1,37-39)ついてきたアンドレと名が示されていない弟子にイエスは尋ねます。「何を求めているのか。」これがあらゆる修道者と修道会への根元的問いかけです。現実にわたしたちは何を求めているのでしょうか。二人は答えました。「先生、どこに泊まっておられるのですか。」二人はイエスの住所を知りたかったのではありません。イエスがどのような生活をしておられるのか、イエスのライフスタイル、実行されていること、大切にされていることを知りたかったのです。イエスは神学的には答えられずに「来なさい。そうすれば分る」と言われます。つまり、イエスについての深い体験は勉学と神学をとおしてだけでは得られません。それは先生である主との親しさのなかで弟子としての実践をとおしてはじめて与えられます。ナザレのイエス、聖書のイエスの再発見はわたしたちの極限の緊急事です。しかし極端に保守的な伝統主義のグループがしばしば宣伝しているように、経済的思惑でイエスを利用しようとする計算から緊急事であるというのではありません。神は男女をご自分の似姿に創造されたと聖書は述べていますが、事実、わたしたちは実にしばしば神を自分たちの考え、似姿につくり上げてしまっています。イエスに関しても同じです。わたしたちは現実のナザレのイエスとはほとんど、あるいはまったく関係のないイエス像をつくり上げてしまっているのです。つまりわたしたちは、ほとんどあるいは全然聖書に立脚していない感情的な信心がつくり上げるイエスの姿に固執し、わたしたちの注意を神のみ国から、また貧しい人たちからそらせて、マスメディアが好む「光」版イエスへ、つまりわたしたちの邪魔はしない、わたしたちの社会について、あるいはわたしたちの選択について追求はしない、個人的目先の満足が露わな自分たちの望みと気ままを許し痛みから助けるイエスへと向けてしまうのです。十字架は脇に置き去りにされています!

 このようなことは実際には驚くに値しません。それは実に最初の弟子たち以来の問題でした。もっとも早く書かれたマルコ福音書の8,27-35で、この大問題の核心が述べられています。フィリポ・カイサリアからの帰路での出来事が述べられている箇所です。イエスは「人びとはわたしのことを何者だと言っているか」と問われました。その場のだれかに答えを求めてはおられないので、だれも困らせない質問でした。イエスはすべての時代のあらゆる弟子に根元的問いかけをされたのです。「あなたがたはわたしを何者だというのか。」その箇所でのペトロの答え、「あなたはメシアです」は正しかったように見えます。しかしつづく対話では、ペトロは正論を答えていて、生活の実践による実体験から答えていないことが分かります。ペトロにとってメシアが苦しむのは到底受け入れられないことでした。これは実に現代世界の今の見解です。そこでは犠牲以外はすべてが許されます!真のイエスを理解できないペトロのこの無能力と、イエスの弟子であろうとする挑戦がペトロに叱責をもたらしたのです。それは聖書のなかでのイエスのもっとも激しい叱責のひとつでした。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず人間のことを思っている。」この箇所でイエスは計算からではなくご自分に従おうとする人たちの結果的生き方をすぐに明らかにされます。「わたしの後に従いたいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」(マル8,34)。

 わたしが生きている今この時、「わたしにとってイエスはだれか」、そして今日奉献された修道生活のなかで、「イエスの弟子であるとはどのような意味か」。これが霊性を刷新しようとしているわたしたちが答えなければならないもっとも差し迫った問いかけです。

 この問いかけに対して、現実にわたしたちは自分たちの手と足で答えます。あまりことばでは答えないでしょう!日常使命を実践していくなかでわたしたちの答えが示されます。わたしたちの使命は、結果的には、弟子としての霊性の実践です。このことについて聖書はけっしてわたしたちを疑いのなかに置き去りにはしません。イエスの使命が、それはイエスの使命である理由でわたしたちの使命でもあることを、聖書は明確にします。おそらくこのことに関する最良の例は、イエスがご自分の使命のプログラムをはじめるにあたって、ご自分の文化的、社会的、宗教的ルーツ、ナザレに戻られ、そこのシナゴーグを訪問された時のルカの説明です。イエスはイザヤ61,1-3の箇所(ルカはこの中で国家的解釈となり得る部分を自由に省いて記しています)を選ばれます。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4,18-19)。

 イエスに従うことに根ざす霊性は、必然的に福音宣教活動を志向します。その活動は福音の上記の箇所で明らかにされているイエスの使命の要素を統合します。わたしたちはみな聖霊によって油注がれています。ですからわたしたちはみな第二のキリストであるといえます。こうしてわたしたちは個人の、そして修道会の両方のレベルで、今日「捕らわれている人たちの解放を告げるために」、「目の見えない人たちが視力を回復するために」、「圧迫された人たちを自由にするために」、「主の年の恵みを受けるために」、「貧しい人たちに良き便りを告げるために」ということがどういう意味なのか、それを明らかにする識別の過程に真実に取り組まなければなりません。この宇宙的使命をもつ教会内で修道生活にはぶどう畑となる義務があります。わたしたちの霊性は貧しい人たちがわたしたちの宣教と使徒的働きをまず第一に受ける人であるとしなければなりません。ルカが貧しい人たちのために選んだことばは「plochois」であり、それは実際には「欠けて窮乏している」という意味であることを忘れないようにしましょう。貧困と除外が地球規模化してきた世界で、いわゆる「第一世界」といわれる国々のなかでさえも、使徒として生きる霊性がわたしたちにきわめて具体的な問いかけに答えるよう挑戦しています。現実に宣教の働きのなかでわたしたちの第一の関心は貧しい人たちでしょうか。あるいはわたしたちはマスメディアによってほとんど浸透化するほどにまで流布されて覇権を握るイデオロギーに吸い込まれ、消費的、享楽的社会の価値観を引き受けてしまっているのでしょうか。わたしたちの霊性はエゴイズム、消費主義、権力、所有、快楽の偶像の鎖からわたしたちを自由にするものでなければなりません。それは福音のメッセージと預言的証を徹底して生きようとする霊性であり、その生き方は水で薄められたようになって、ある容易さでわたしたちの生活と活動に沁みとおっていかなければなりません。それは第一にわたしたちのビジョンを回復させる霊性でなければなりません。共観福音書のなかのイエスに癒された目の見えない人が(ヨハネ9章に述べられているような)生まれつき見えなかったのではなかったこと、そして目の見えない人たちが視力を失った人たちであることは、とくに注目に価します。同じ現象がしばしば修道生活に見られます。自分たちの働きが時には単に新自由主義社会に奉仕する、もうひとつの効率のよい仕事の歯車を動かしているにすぎないのですが、その働きの実績に満足するようになって、創立当初の時代のビジョンを見失うことがありえます。「目の見えない人たちを導く目の見えない人」にならないように、わたしたちの霊性は目の見えない人、バルティマイが訴える叫びをその霊性としなければなりません。「先生、目が見えるようになりたいのです」(マル10,51)。わたしたちはイエスの目で見なければなりません。イエスはご自分の世界の現実を聖書の神のご自分の体験とご自分の民の痛ましい現実、−それは宗教、政治を支配するエリートによって、そして神学のように胸が悪くなるイデオロギーによってしばしば正当化されていますが−その現実の分析から立ち上がってくる批判を踏まえて説かれました。結果的に具体的なものがもたらされなければ、それは霊性ではありえません。ルカ福音書の箇所(ルカ4,18-19)は使徒的働きの本質を分析して、霊性の正真性を見定めるうえでわたしたちが用いる道具となります。

修道生活‐神のみ国の道具

 わたしたちの霊性について考えながら、修道生活は教会自体と同じようにそれ自体に目的があるのではなく、み国の道具であること、そしてわたしたちのさなかにある神のみ国は、わたしたちみなが逆説的な体験をしているように、「すでにここにあって同時にいまだに実現されていない」ことを想起しなければなりません。修道生活はみ国のために教会と世界に与えられた神の賜物です。こうして新しい霊性はふたつの現実(教会と世界‐訳注)の間の実り豊かな筋の通った対話にわたしたちを導くでしょう。

 近年教会の組織は多くの領域で後退してしまっているように思われます。その結果、多くの場所で、とくに修道者を含む若い聖職者の間で、多くの人が信仰について、信仰の帰属について現実に危機を経験しています。聖職者中心の教会政治の禍が花を開いています。聖職者中心主義は大きな賜物である叙階された司祭の奉仕の務めとはきわめて違ったものです。実にしばしば見受けられることですが、修道者である司祭たちの生活が司牧の仕事の下敷きになって、その修道者としての姿がほとんど消えてしまっています。この点で女子修道者は、修道生活のなかで信徒としての本分を証ししながら、自分たちの修道生活を単なる教会位階制度の延長として統括しようとする動向に抵抗しながら重要な役割を荷うことになります。女性が教会の決定権に関して除外されつづけていることは、時には大きな問題となっていて、それは恥ずべき数に上っています。ある国々でこの頃取り沙汰されている聖職者の間での性的スキャンダルが引き起こした損失−信じられることの喪失は重大です。近年のきわめて否定的な要素はカトリック信仰復興の運動、集団、発起に見られる貫生(生長の終点である花から新たに茎や芽がのび出すこと‐訳註)です。それは個人主義者、偏向神秘主義者、極端に保守的な伝統主義者、敬虔な信心家にみられる疎外された、しかも勝ち誇ったタイプのキリスト教信仰をはっきりと表立って選択するものです。少なくともラテンアメリカではかなりの人の命が失われ、苦しみを伴った熱烈な預言的福音宣教活動が数十年つづきました。それは教会と修道生活に開花をもたらしました。その後、時代は変わりました。新しい風が大陸を横断して明らかに教会と修道生活の頭上を吹き抜けました。いくつかの例外はあるとしても、わたしたちはもう血を流す殉教の危険は冒しません。帝国(多くの民族を含む広大な国)が支配と圧政をつづけています。現実には大多数の人たちがその経済と軍の権力で粉々に砕かれています。もっとも重大な決定が世界の経済センターでなされています。その決定は人たちの現実の必要に照らして考慮されることはなく、非常にしばしば腐敗した、経済的新自由主義原理に調子をあわせた政治家たちによって実行に移されます。全民族が利潤追求の犠牲となり、家族と文化的、宗教的ルーツを破壊されて、住んでいる土地から追放され、散らされています。このすべては「進歩」「発展」あるいは「現代性」の名のもとに行われています。この情況では人口の、市民社会の、そして諸教会の広い領域で憂鬱、活力減退、不信と懐疑の症状が見られるのはまったく不思議ではありません。これまでにない緊急事は、修道生活が生気にあふれた熱心な、そして預言的な神のみことばのチャンネルであることです。その生活は吸い込まれそうになる誘いに抵抗し、消費、物質主義の社会にあって、その本来の存在の意義を再発見するでしょう。

修道生活は、教会自体と同じように、どのようにして世にあって世のものではない存在であることができるかという問題に立ち向います。数世紀の間、教会は、したがって修道生活は、世は神との出会いの場よりむしろ悪魔のいる危険な悪い場であるとみていました。バチカン公会議は現代世界憲章などをとおしてこの見方を退けることを断言しました。世界は悪に支配されている場であるどころか、神が救いのために働かれる場であり、したがって修道者が働く場なのです。「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」(ヨハ17,18)。わたしたちは「世の匂いが」むんむんと立ち込めている世界の中へ「地の塩」、「諸国の光」、「パン粉の中のパン種」として入り込むよう招かれています。世界が福音化のためのわたしたちの活動、預言的証のシナリオになります。わたしたちは世界のなかで、文化のなかで、諸宗教のなかで「みことばの種」を見つけるよう招かれています。

世の中で、そして世のために、しかも世のものではなく...

「世にあって世のものではない」ことに、わたしたちはいつも成功するとは限りません。初めの熱心な時代が過ぎると多くの修道共同体、修道者個人は社会を支配しているビジョンと価値観を受け入れて現実世界と手を結びます。つまりわたしたちはしばしば周囲の世界と見分けがつかないものとなります。世界に挑戦するどころか、世界がわたしたちを馴染ませて同化するのを許すのです。わたしたちは預言的な声と福音の証を弱めて、圧政と除外の社会に問いかけ、動揺させ、解放するイエスとそのみことばに生きる存在であることを止めます。わたしたちが現代後期の世界の流れに触れないようにするのは可能でも好ましいことでもないでしょう。人類の流れのあらゆる過程に見られるように、現代後期の流れの跡にも相反する感情が両立していて、そこには多くの肯定的な物事が運ばれています。しかしその物事を全然分析批判しないまま、わたしたちは非常にしばしばそれを受け入れます。しかもそれがいつも肯定できる物事であるとは限らないのです。自己本位の主観は個人主義へ、自由は倫理的無秩序へ、物質尊重は生粋の消費主義へ容易に流されます。イエスに従った初代の人たちを迫害したようには、ふつう世はわたしたちを取り除こうとはしません。その理由は世にとってわたしたちの存在が何の脅威にもならないからです!脅威的存在であるどころか、反対にわたしたちは感情的な、神秘好みの、社会変革に身を献げようとしない、聖書の伝統的読書方法を養うばかりの宗教をつくり出しながら、何としばしば周囲の悲惨から目をそらしているのでしょうか。それではイエスとその福音がその現状が容認された、わたしたちから遠く距離を隔てたところへと拉致されるのを許し、わたしたちは最初の世紀よりさらに偶像崇拝的な世の召使となるのです。というのは、その世は利潤を聖化し、競争のよき便りを説き、神の娘と息子の大多数を追放し、欲望と蓄積に礼賛の拍手を送っているからです。キリスト教諸教会はイエスの名を呼び求め、礼拝祭儀を盛大に行っています。さて、ところで世のこの現状を糾弾しないで容認する宗教はすべて偶像崇拝です!

わたしたちは初代キリスト者たちのように、世の中にあって、しかもその流れに逆らって生きなければなりません。それは、わたしたちが狭量な宗派的立場にあるからではありません。わたしたちには神のみことばから生まれたもうひとつのビジョン、新約聖書にきわめて明らかに示されているイエスの、み国の、兄弟愛の、連帯の、正義と寛容のビジョンがあるからです。主の祈りを唱えるとき、わたしたちは人種差別、男性優位、女性蔑視、聖職者中心、外国人排斥、そしてわたしたちを分け隔てるほかのどのようなイデオロギーにも抵抗して自分を献げます。神のみ国の建設をたえず求めながら、わたしたちは社会、文化、宗教的伝統との真に預言的対話をつづけるよう迫られています。わたしたちは、肯定できるもののように装った神のみ国に敵対する価値観によって、わたしたちの目が自分たちの真のアイデンティティーと使命からそらされることがないよう油断なく警戒しなければなりません。わたしたちには「新しい霊性」、奉献された修道共同体のビジョンを探求する場はあるのですが、それはわずかな場です。現代後期の考え方の強い影響下にある世界のなかでは、神を「宇宙の力」、エネルギーの恩恵、即満足をもたらす救済に置き代えてその存在を探究しようとするのはそれほど珍しくありません。しかし、このような見方をすると迫害された預言者ナザレのイエスは十字架のない、人類のためのみ業を行わない、具体的に貧しい人たち、圧迫された人たちをまったく選択しない「キリスト」に置き代えられます。他方で、わたしたちは言葉と物質的世界に属するあらゆるものを、悪魔的とする傾向をもつ、二元論的、あるいはマニ教的でさえある新ペンテコステ・タイプの感情表現に避難する修道者にしばしば出会うことになります。時には聖書に神のみことばを聴く聖なる静かな黙想を超えて、存在を爆発させて求められる具体的行動を貧しい人たちのために行うことが大切です。わたしたちみなが直面した最初の危機は、もはや終生的奉献は不可能であるとする現代後期の学説を表面的に受け取り、それを確かなものとして葛藤も見定める識別の努力もなしに、修道生活を見限ることでした!現代後期の、ニューエイジの、あるいはほかの伝統のあらゆるものを悪魔的なものにしないよう注意するのは当然です。しかし現代後期の文化との対話の不安のなかでわたしたちの存在認識が危うくならないよう慎重に識別しましょう。ヘブライ人への手紙はわたしたちが道を見失わないよう指針を与えています。「いつもイエスを見つめながら自分に定められている競争を忍耐強く走りぬこうではありませんか」(ヘブ12,1)。

ほとんどあらゆるものを自由に入手できて「あること」より「もつこと」を大切にする上辺と即効に価値を置く社会では注意深くあることが大切です。シノドスの後に出された文書「奉献生活」のわたしたちへの警告は、「数のうえでの減少ではなく、主に対する、また個人的な召命と使命に対する確固とした霊的な愛を失うことによる崩壊」です。(奉献生活63)

過去に根を下ろし、未来を熱く希望し、現在は音を出して元気に振動する

 聖職者ヨハネは自分の共同体のなかで不安に揺れている共同体に宛てて手紙を書いています。「どのように受け、また聞いたか思い起こしなさい!そしてそれを守り抜きなさい!」(黙3,3)この励ましは現実に生きている修道生活を探究していくなかでわたしたちの指針となることができます。忠実であるためには根元に、存在の意味に立ち戻ってわたしたちの自己認識を再度確認し、それを深める必要があります。重ねてわたしたちを覆う暗闇のなかで信頼をもって神のみ前を歩く勇気が必要です。それは困難な体験であり深い神体験があってはじめて可能になります。それに代るものは支配的社会の奉仕に自分たちを提供することです。そうすることで仕事のうえで、おそらくわたしたちの数のうえで、経済上の保障が得られるでしょうが、一方、修道生活は「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」(黙3,1)という危険に冒されるのです。これこそがまさに危機です。その理由は世は挑戦しないでその関心事に仕える教会と修道生活をいつも誉めそやすからです。隠れているものの正体を明らかにして、圧迫された人たちが訴えの声を上げるよう仕える修道生活には、実際には、数百万に上る搾取の現実に土台をおく組織機構は何の興味も示しません。この流れのなかで2600年前の危機的時代のように神のみことばの鐘が鳴り響きます。「あなたの未来には希望があります」(エレ31,17)。それはエレミヤ預言者がその民に宣言した神のみことばです。この希望にはしっかりとした土台があります。つまり神は存在され、行われるという事実、新しい世界の唯一の土台です。その神は、極右の保守的キリスト者が聖書を読んで公言しているような、圧力を正当化し合法化する神ではなく、聖書の真の神、イエス・キリストの神、世界のなかで苦悩する民の悲惨をつぶさに見て、その叫びを聞き、その苦しみを知り、そして民を解放するために降りてこられる神です。(出3,7-10参照)

 総集会、管区集会からの一連の多くの文書にもかかわらず、多くの修道者と共同体にとって神のみことばはその霊性のなかで末梢周辺の外面的な役割を占めつづけています。これは気になることです。その憂慮の理由は、この事実が修道生活の意味深い部分とその実生活が永続する要素なしで営まれていることを示しているからです。こうなると、みことばの代わりに感情的な過剰な祝い事、奇跡を探し求める熱狂、運動を指導する人たちへの個人崇拝、中世の軍服を思わせるタイプの外衣、ナザレの大工への圧力以上に血なまぐさいノルマの圧力を次々と押し付けるキリスト者王国、このようなものが普及する理由が理解しやすくなります。一方もっとも大切なもの、神のみことばは二の次に扱われます。わたしたちは神がそのみことばと聖霊をとおして、ご自分の民の生活を活気づけ、導かれることを信じなければなりません。修道生活はみことばを聴き、それに応えることを土台とします。公会議はすべての教会、実際にはすべてのキリスト教の教えが、そしてその砦である修道生活が必然的に聖書によって養われ、導かれるよう要請しています。(啓示憲章21)

 その要請には考え方を変えて聖書を「神学の魂」とし、その延長として福音宣教活動の魂とすることが含まれます。その結果、伝承のなかで聖書を理解し、祈ることは福音宣教活動の動力となり、養成、司牧のすべての活動に生気を与えます。(カトリック教会のカテキズムNo.113参照) 次の隠喩がそれをよりよく理解するうえで助けとなるでしょう。聖書は教会という樹木の一本の枝、修道生活の修業のひとつの要素ではなく、それは樹木の幹とすべての枝に浸透している樹液です!これは次のことを意味します。つまり初期、生涯養成活動の領域のなかでは、ほかの何よりも聖書に重点が置かれるのは当然であると理解されていますが、「聖書的養成の活性化」は「聖書的修道生活の活性化」へ歩を進めることを探究しなければならないことです。印刷された聖書のページを超えて生きている神のみことばは、教会のあらゆる活動の源、規範とならなければなりません。わたしたちの生活が神のみことばによって生かされていくこの過程のなかで、聖なる著者たちに霊感を与え、十字架上で死に復活された、全聖書と全人類の歴史にとって不可欠の鍵である方、イエスを宣言する最初の弟子たちを元気づけたあの同じ聖霊が働かれます。聖書的修道生活の活性化は修学コースの、共同体のなかで聖書のわかち合いと勉強(これは確かに非常に必要です)の集会の数を増やすことを意味しません。それはみことばをわたしたちの生活と活動の横振動の軸とすることです。それは霊性と福音宣教の尽きることのない源である聖書の神のメッセージを神のみことばとして読んで理解することです。そしてそれをとおして、わたしたちは、教会と奉献された修道生活の活力を支える真の根元、規範へ、生きているイエスとの真の出会いへ、「回心、交わりと連帯の確実な過程」(アメリカの教会3,8)へと導かれます。(啓示憲章21)

 今日修道生活が危機のなかを歩いているのは明白な事実です。それは人類自体が危機のなかにあるからです。危機はいつも苦しいものですが、平静に向き合うと乗り越えられます。危機はわたしたちの成熟のために必要でさえあるのです。危機に直面するには確固としていることが、そしてしっかりと見定めて調整することが必要です。預言者エレミヤの声にもう一度耳を傾けることができます。「道しるべを置き、柱を立てよ。あなたの心を広い道に、あなたが通っていった道に向けよ」(エレ31,21)。

 わたしたちの道の偉大な標柱はけっしてご自分の民を見捨てられない、誠実な、ご自分を啓示される神のみことばです。旧約聖書に結びの言葉として次のように書かれています。「主よ、あなたはすべてにおいて民を大なる者とし栄光を与えられた。あなたは彼らを見捨てず、いつでもどこでも彼らの傍らに立っておられた」(知19,22)。「あなたの未来には希望がある」、しかしこの希望は、たえず祈りながらすべてに救いをもたらしたイエスに受肉された方、解放する神の観点から聖書を読むことによって養われなければなりません。わたしたちが一歩一歩新しい社会を創造することができるためには、共同体のなかでこの霊的食物を摂ることが必要不可欠です。憔悴し落胆した預言者エリヤに主のみ使いが告げたことば真剣に受けましょう。「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐えがたいからだ」(列王上19,7)。

 教会が主の「聖体」と同じように常に尊敬してきた聖書、Dei Verbum(啓示憲章21)によって告げられたことを真剣に受け取りながらみことばと秘跡に養われ、そして預言的言葉と行動で世界と教会と修道生活自体に「あなたたちの未来に希望がある」と宣言しましょう。しかしわたしたちの福音宣教が貧しい人と除外された人たちを選びつづけるためには、わたしたちの生活が神のみことばに土台を据え、個人として、共同体として聖書を規則的に読む深い霊性に根を下ろすことが絶対に必要です。実際に世界のシナリオを深く分析すること(これは不可欠ですが)、数百万にのぼる人たちが苦しんでいる理由から倫理的不正を感じ取ること(これも不可欠です)だけでは十分ではありません。わたしたちが選択する真の土台はイエス・キリストの神です。その土台に代ることができるものは何もありません。信仰による選択は出エジプトの神に土台を置かなければなりません。この選択には、わたしたちが社会のなかで苦しんでいる人たちの観点に立って、文脈の流れの前後関係から聖書を読みながら、無条件に十字架を担い、神のみことば、「わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」(詩119,105)をとおして養われることがいつも含まれています。スピリチュアルな領域で、宗教上の諸説統合主義が表面的にはわたしたちの選択の代りになりそうな、多くの実行可能な物事を提供していますが、そのような社会のなかにあってパウロの警告に注意深く耳を傾けましょう。コリントのエリートたちがギリシヤ哲学をイエスに生きる信仰に置き代えようとしている危険に直面して、パウロは強調します。「イエス・キリストという頭に据えられている土台を無視して誰もほかの土台を据えることはできません。」(1コリ3,11)それは肉となられたみことばイエスです。そしてその方が、聖書のなかで啓示されたご自分のみ業の計画、つまり「すべての人が命を、しかも豊かに得ることができるように!」...の実現のために、宣教の使徒としてわたしたちみながともに命と希望が生まれる霊性を織りながら、現実に神のみ国の道具となるよう、わたしたちを導きながら、今わたしたちに挑戦を迫っておられるのです。


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現代における奉献生活:危機とチャレンジ
東京 2007年
ティモシー・ラドクリフ、
OP

3度目の日本訪問を心から喜んでいます。どの国が一番興味あるかと聞かれると、いつも日本と答えます。日本はイギリスと似通ったところと違うところを両方持っている国です。イギリスのように広大な大陸の傍にある島国であるところから、多くの共通点があるため、日本にくると自分の家に戻ったような感じがするのでしょう。同時に、日本は古くからの豊かな文化を持っており、それは大変異なったものです。共通点と相違点が共存しているところが、日本を大変魅力のある国にしているのだと思います。

修道生活が今日直面している課題についてお話しすることになっているのですが、数ヶ月生活をともにし、お互いに知ることもなしに、お話しするのは少々変な感じがします。ですから役立つところに耳を傾け、そうでないところは許していただきたいと思います。いつもアメリカ人のドミニコ会の兄弟のことを思いだして、自分を慰めることがあります。彼は講演を終えて座ったのですが、あまり拍手が起こりませんでした。そこでとなりにいた人に「私の話はそれほどひどくなかったと思うが」と話しかけました。となりの人はこう答えました。「あなたには責任がまったくない。悪いのは あなたを招待した人だ」ですから最初に連絡してくださったシスター弘田に責任をとっていただきましょう。

この総会のテーマは「現代における奉献生活:その危機と課題」となっています。近年見られる召命の減少という危機は、世界のいろいろな国で起こっています。ここ6ヶ月間、私は、アメリカ、カナダ、モーリシャス、台湾、タヒチ、キューバ、ペルー、マルタなどで修道者の集まりに出席しましたが、どこでも修道生活が、なんらかの意味で危機に直面していることを感じました。多くの場所で、召命の減少があり、消滅に直面している修道会もあります。また修道会を退会した人たちも少なくありません。第二バチカン公会議が、信徒の召命を強調したのは素晴らしいことでしたが、私たち修道者が、自分の召命に十分確信を持てなくなったという結果ももたらしました。世界中で、自分たちの未来について問いかけている修道者に出会ってきました。

私は今こそ私たちの召命が必要とされていると考えます。人類のために希望の証となるように、私たちは招かれているのです。私たちが、自分たちの将来について疑問を持つこともあるでしょうが、人類全体こそ希望の危機という厳しい現実に直面しているのです。若者の間に自殺が増えていますが、すべての人が不幸と感じているということではなく、現代に生きる人々が、希望を与えるような未来展望を持てなくなっているということです。

60年代の後半私が若かった頃は、人類が素晴らしい未来、戦争や貧困のない世界に向かって歩んでいるのだという確信がありました。すべてが可能であり、進歩を信じ、ビートルズが世界を魅了していた時代です。ところが21世紀は、エコの危機、宗教的原理主義の蔓延、テロ、エイズが広がり、貧富の差が拡大しています。アフリカでは多くの国ぐにが、崩壊寸前です。若者たちが希望を持てるようなストーリーが、果たしてあるのでしょうか?あるのは、目前に迫る環境破壊、反テロ戦争のストーリーです。いずれも若者に明るい未来を保証するものではありません。日本も含めて多くの国では出生率が劇的に下がっています。希望のない世界で子どもを持つことを恐れる人が増えています。日本では、子どものいない世界を意味する「少子化」という表現さえあります。

私の最近の著書「キリスト者である意味は何か」という本の中で、教会の歴史において、もっとも恐ろしい危機は最後の晩餐だったと述べました。弟子たちが、未来にたいしてすべての信頼を失ったのはこの時でした。エルサレムに向かったとき、彼らはローマ人を打ち破って自分たちの王がたてられるという希望を持っていました。最後の晩餐で、イエスの受難と死という現実に直面します。ゴルゴタ以外に未来はない。このときにイエスは、言葉の表現を超える希望を与えます。「これはあなた方に与える私の体」。

未来が暗い今、私たちキリスト者は神の国の希望を語るしるしとならなければなりません。私の本の中にはいくつかの例がありますが、ひとつの美しい希望のしるしは、修道生活です。頭がおかしくなったと思われるような誓願というもののある私たちの不可思議な生活が、人類にとって希望を意味するのです。召命によって、私たちはこのような者であり、共同体に招かれ、ミッションに派遣されます。召命が素晴らしいのは、私たちが素晴らしいからではなく、人類にとって素晴らしい希望のしるしとなることができるからです。共同体に招かれ派遣されるという召命について話し、それがどのように神の国の希望をなんらかの意味で表現するのかについて話したいと思います。

まず召命という概念から始めましょう。私がドミニコ会に惹かれたのは、会のミッションが好きであり、兄弟たちと生活をともにすることが楽しかったからです。けれどもそれだけでは、十分な理由とはなりません。ドミニコ会に入会したのは、これが自分の召命と信じて疑わなかったからです。神は、私をドミニコ会の生き方に招いてくださったからです。

人間は誰でも神から招かれているという深い真実があり、召命とはその招きの表現です。神は私たちに存在を与え、神に招かれます。ですから修道者になるということは、人間についての根本的な希望に満ちた確信そのものを自分の生きかたとする意味を持っています。私たちは人類の未来がどうなるのか、どのような災害や暴力が待ちうけているか、爆弾で吹き飛ばされるか、津波で溺れ、地球の温暖化で干上がるのかについてまったく分かりませんが、神が被造界全体をご自分に招かれているということは確かです。

万物は神から存在に招かれて、存在しています。光あれとおっしゃったので、光が存在しました。預言者バルクの書に美しい一節があります。「星はおのおの持ち場で喜びにあふれて輝き、その方が命ずると、『ここにいます』と答える」(バルク3,34)星の存在はただ冷たい科学的な事実ではなく、星が喜びに溢れて「はい」と神に応えているのです。万物の存在は、言うなれば神に対する「はい」なのです。お花見に行くとき、ただ桜の花の美しさをめでるだけでなく、創造界全体が、神に対して「はい」と叫んでいることを祝うのです。

人間存在が特別であるのは、私たちが存在することによって「はい」と言うだけでなく、私たち自身の言葉で「はい」と神に語るところにあります。神は言葉を話され、私たちは私たちの言葉で答えるのです。人間であることの召命を表現する美しいヘブライ語の言葉があります。「ヒネニ」「ここにおります」という言葉です。

神が燃える芝の中からモーゼを呼ばれるとき、モーゼは「ヒネニ、はい、ここにおります」と答えます。神がアブラハムにイザクを捧げなさいと呼ばれるとき、アブラハムは「ヒネニ、ここにおります」と答えます。イザヤが「どこにお前を送ろうか」という声を聴くとき、彼は「ここにおります。お送りください」と答えます。ところが、神がアダムの名を楽園で呼ばれるとき、彼は「ここにおります」と答えずに、茂みの中に隠れます。

人間が創造されたのは、神にたいして「ここにおります」と答えるためと聖書は述べています。私たちが修道者であると公に宣言するとき、人間についてのこの真実を伝えます、私たちは、兄弟姉妹の手に自分を委ね、決定的な「はい」を言うのです。「ここにおります。ヒネニ」と。これは掟への従順以上のものであり、ある生き方に自分を奉献するということだけではありません。これこそ、人間とは何であるかのもっとも明確なしるしなのです。

ですから誓願を立てるときに言う「はい」は単純な表現ではありません。死ぬまで、三位一体との永遠の対話に入るときまで、神と対話し続けるという決意です。それはまた、一生兄弟姉妹から招かれることを意味します。イギリスから日本に来る時も、日本からイギリスに行く時も、あるいは会計になるとか、統治の責任者になる時も。私たちはお互いに招き続けるのです。私たちの従順はおたがいへの従順であり、それは会のミッションを効率的に組織することだけではなく、常に神に対して「ヒネニ、ここにおります」と言い続ける姿勢です。

私たちは、一人では到底できないようなことを実行するために、お互いに招きあいながら、勇気と自由をふるいたたせあうべきです。恐れで体が動かないような時に、私たちの兄弟姉妹たちの励ましが、その恐れを超えさせ行動を促すでしょう。ある日、スコットランドの兄弟たちと一緒に歩いていました。急に道がなくなり、目の前に断崖が現れました。激しい波と岩に怯えながら、狭い足場を見つけるのは恐ろしい体験でした。やっとそこを通り抜けると、一人の兄弟の姿が見えませんでした。立ち眩みで動けなくなったことに気づかなかったのです。そこでまた戻り、一人の仲間が彼に手を伸ばし、「さあ、ガレット、つかまって、一歩踏み出せ。今度は反対側の足を」と声をかけながら、漸く安全な場所にたどりつくことができました。私たちは、この旅路を、いつもお互いに声をかけながら歩み続けます。そしてその声が神の声なのです。一寸先に何があるのか分からずに、でも自由と勇気を与えるその声に信頼して歩き続けます。この危険に満ちた旅路を歩き続けるために、呼びかける声に信頼することを学ばなければなりません。

こんな話を思いだします。断崖に沿って車を運転しながら、神の存在を疑っている男がいました。あまりにもその考えに没頭していたので、運転を誤り車は断崖から転落し、男は車の外に放り出されました。落ちながら木の枝にしがみついた男は、信仰についての疑問の答えを確かめる時は今だと感じ、「そこに誰かいるのか?」と叫びました。すると「私はここにいる。信頼しなさい。枝から手を離しなさい。私がお前を支えよう」と言う声がきこえたのです。この難題に頭をひねった男はしばらく考えてから、また叫びました。「他には、誰もいないのか?」

キリスト者の希望の根源は最後の晩餐にあります。イエスは、弱い弟子たちにご自分を委ねられます。神は自分を裏切り、否定し、逃げ去る人々に自分を与え、弱さを引き受けます。修道生活においても、私たちは同じような危険を冒すのです。人間的に弱い兄弟姉妹たちに自分を預けます。どんな目にあうかは分からずに。それだけでなく、まだ生まれていない、将来自分の兄弟姉妹たちにも自分を預けます。オックスフォードの共同体の現在の私の長上は、私が入会してから5年たってから生まれています。アキノの聖トマスは、一瞬のうちに自分を明け渡し、未知の未来に自分を預けるのが、誓願のラディカルな寛大さだと言っています。何が求められるのかは、決して分からないのです。

私たちはこの不確実性を喜んで生きるように召されています。私の修道召命の種は、多分ベネディクト会の修道士であった大叔父にあったと思います。この大叔父の考えられない喜びの姿勢が深い印象を残しました。彼は第一次世界大戦で負傷し、片目を失明し、ほとんどの指を失いましたが、私の母が寝る前のウィスキーを一杯を忘れないかぎり、いつもハッピーな人でした。私は子どもでしたが、この喜びの源は神さまだということを感じました。ベネディクト会の修院長ノトカー・ウルフが、ある時ババリアのオットリエンの修道院に仏教と神道の僧侶と神官を招いたそうです。何が一番印象的だったかと聞かれたとき、全員が異口同音に「喜び」と答え、「なぜカトリックの坊さんたちは、喜びに溢れた人たちなんですか」と尋ねたそうです。プロテスタントの友人が最近私たちの共同体を訪れましたが、彼女の質問は、「なぜ修道士の皆さんは、朝食のときにそれほど笑うのですか」でした。

未来の見えない人にとって希望のしるしは、喜びです。失業者、試験に落ちた学生、おたがいの生活がうまくいかない夫婦、戦争に直面している人々が、不確実性を喜んで生きられるのは、どんなことが待ち構えているとしても、人生が神にいたる道であるという希望があるからです。排除、差別されている人々とともに生きるという皆様がたの選択は、未来に希望の持てない人びとにたいして、まず喜ばしい希望のしるしとなる使命を意味していると思います。

修道者は、語るべきはっきりとしたライフストーリーを持ちません。多くの人は、キャリアをもち、キャリアが自分たちのライフストーリーを形作ります。昇進という梯子を確実に上るストーリーです。兵隊は軍曹になり、将校になり、大将になり、教師ならば校長になります。けれど私たちにはそのようなキャリアは存在しません。会の中でどのようなポジションを持つにせよ、一人の兄弟、姉妹である以上の何者でもないのです。実際、何をするのかは、それほど大切ではないのです。

もちろん、ときどき認められないと感じたり、時間のロスであると思われるような仕事を頼まれることもあるでしょう。自分の才能が認められない、不当に扱われていると感じるならば、もちろん声を出すことが大切です。私たちは、玄関先においてある靴ふきではないし、穴埋めのために、長上が勝手に動かすチェスのコマのような子どもじみた従順を受け入れるわけにはゆきません。たがいに丁寧に耳を傾ける対話が必要です。しかし、たとえそれほど大切にされることもなく、不当に扱われることがあっても、神への道を歩んでいるのだという喜びをもって、希望のしるしとなることが、修道召命の意味でしょう。カルメル会の兄弟によって投獄されたときも、十字架の聖ヨハネは歌うことをやめませんでした。

最近英国国教会の友達から手紙をもらいました。まったく肢体不自由になる重い病気をもっていて、話すこともできなくなっています。彼はその手紙の中で、偉大なダグ・ハマーショルドの言葉を引用していました。「すべてあったことに感謝、そして、これからおこるすべてに、はい・・・」これが修道生活の証です。

何をするかが大切なのではなく、私たちが誰であるかが大切なのです。私たちは、ドミニコ会、イエズス会、フランシスコ会、サレジオ会などの兄弟姉妹です。学校、病院経営をし、新しい場所で福音を伝え、本を出版し、養護施設を経営します。けれど、これらすべては、私たちが何者であるかを本質的に定義しません。何が起ころうとも、神にはいというのが私たちなのです。
確かに修道生活が、多くの場所で危機に直面しています。そして一人ひとりの修道者もこの危機的状況を生きています。会の管区の将来を心配し、私たちの生活の基盤が崩れるのを感じます。けれどこのような危機に喜びと心の静けさをもって向き合うことができるときに、危機を生き抜こうとしている年代の人々に希望のしるしとなることができるのです。危機を恵みといのちの時として生きるのが、修道召命の生き方です。

過ちを犯すかもしれないという不安に直面することも多くあるでしょう。荘厳誓願をしてから数年後に私は恋におちました。家族、こどもを持つ違う生き方ができることは確かでした。けれど神の恵みによってこの危機を乗り越えられること、この危機によって成長し、またこれを人々をわかちあうこともできるのが私の修道者としての生き方だったのです。

感謝の祭儀のたびに、聖木曜日の夜の危機を私たちは記憶します。イエスはここから逃げ出すこともできたのに、そうはなさいませんでした。それを引き受け、豊かな実りがもたらされました。ですから出口なしと感じられるとき、荷物をまとめて立ち去りたい誘惑にかられるとき、この時こそ、修道生活が成熟し、実りをもたらすチャンスなのです。最後の晩餐のイエスのように、このような時を引き受け、ここから確かに意味ある実りがもたらされることを信じるのです。これが希望のしるしとなる生き方です。

この危機は、修道会消滅の危機も意味するかもしれません。西ヨーロッパには、未来のない修道会や僧院が多くあります。このような現実にたいして、どのように喜びを持てるのでしょうか。管区長時代に、私はカリスブロークという消滅寸前の修道院を訪問しました。4人のシスターだけが残り、そのうち3人は年長者でした。一人のシスターが「ティモシー、神さまがカリスブロークを無くすことはできないはずですよね。」と言うと、私の傍に立っていた前の管区長がこう言いました。「神さまは、御一人子を死なせましたね。」修道会の死を恐れる私たちが、どのように死と復活の証人となることができるのでしょうか。

数年前ローマで修道生活についての会議が開催され、参加者の多くが、死までのコミットメントというものが、現代においても必要なのかと質問していました。私は修道生活共同体が友人、協力者、準会員などいろいろな人を歓迎することに賛成ですが、修道生活の中心には、死ぬまでいのちを与えるクレイジーで勇気のある人がいなければならないと信じています。どのような人間のいのちも死ぬまで、一人ひとりを招かれる神への道であるという希望を語る途方もない姿勢なのです。

年老いた会員が、臨終の床で「これから偉大な野望を果たすのだ」と私に話しました。それは何かと訊ねますと、ドミニコ会会員として死ぬことができるようにという信頼だと答えました。それを聞いたときは、大した野望とも思いませんでしたが、今はそれがとても大切なことと感じています。この会員は、いろいろな困難があっても、自分の生き方を捧げつくし、取り返すことをしなかったからです。ですから若い会員たちの希望のしるしとなりました。

現代の若者は自分の一生を決定的に捧げることができないということを何千回もききました。確かに若者は、仕事にせよ家庭にせよ短期間の約束を生きています。平均的アメリカ人は、11回仕事を転職します。結婚も長続きしません。ですから終生誓願を若者がたてるのは無理というわけです。荘厳誓願の前夜、若い修道士が、完全に自分を会に捧げるかと訊ねられたとき、こう答えました。「もちろん完全に自分を捧げます。でも10年後に自分がどうなっているかは分かりませんよね。」

 けれども、短期間のコミットメントの文化が蔓延している時代であるからこそ、生涯を捧げる誓願の生き方が美しい希望のしるしとなるのです。それは人間一人ひとりが、神から招かれているという長期間のストーリーを語ります。それは途方もない生き方であり、私たちは若者にこの勇気ある狂気じみた生き方を選びとるように勧めるべきでしょう。神の恵みによって、若者はこれを生きることができるはずです。この話を書く少し前に、ドミニコ会の英国管区で4人の若者が荘厳誓願をたてました。4人ともエネルギッシュで優秀な若者で、学位も持っています。それぞれ社会にいれば成功し、幸福な結婚をして、高給とりとなれたはずです。このような若者が一生を捧げることは、すべての人々に希望を与えます。「なんと勿体ない。幸せに結婚すれば良いのに」と言う人たちも確かにいました。私自身が誓願をたてたときに、そう言ってくれた人は、残念ながらいなったようです。

共同体に招かれる

 召命は、人間とは何であるかを伝えます。私たちの場合は、ただ招かれるのではなく、共同生活に招かれ、共同体からミッションに派遣されます。共同体へ、共同体からという動きが、神の国の希望についての真実を表しています。

 まず共同体への召命について。これは、すべての分裂と暴力のない神の国に全人類が招かれているしるしです。「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国にむかって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ2・4)という言葉のように、人間は平和に召されています。イエスにおいて敵対が滅びたのです。今、世界中で宗教を信じる人々の間に緊張感が増大している事実があります。信仰がしばしば暴力と同一視されます。ブッシュ大統領によって始められたいわゆる「反テロ戦争」は、キリスト教によるイスラム征伐という状況においてムスリムの人たちを敵視しています。私たちは、決して他宗教の人たちを敵にしないということをイエスにおける私たちの信仰宣言として示さなければなりません。

 なぜドミニコ会に入会したかとたずねると、共同体という答えが良く返ってきます。分裂した社会で、孤独に生きている人が少なくありません。農村から東京のように1250万の巨大都市に人々は集まってきます。このような都市では、一人ひとりが見えなくなってしまいます。道で出会っても、目を見ることなく、家族は核化し、多くの人びとは兄弟姉妹を持ちません。神はアダムに「人がひとりでいるのは良くない」と言われましたが、現代社会は共同体を求める孤独な人々に満ちています。

 しかし現代社会は、孤独な人々で満ちているので、共同生活はきわめて困難です。多くの人と分かち合うことに慣れていないのです。私は6人の子ども、両親、祖母のいる大家族で育ちました。私の母が私の名前を思い出さなくても、愛されていることは分かっていました。修練院に入ったときは、自分の家とあまり変わりはありませんでした。共同生活が難しく感じられることは、今でもあります。多くの人が共同生活に惹かれて入会することも本当ですが、また共同生活の難しさで退会する人のいることも事実です。

 しかし共同生活の喜びと苦しみが、神の国を語ります。喜びが、ともに生きる私たちの召命の本質であることを延べました。私たちが確実に神に向かって歩んでいるという信頼感の喜びです。しかし同時に自分とは違う人々とともに生活することによっても、神の国を証する召命です。違う神学、違う政治観、違う食事、違う言葉の人々との共同生活は、素晴らしいこともありますが、大変困難でつらいものであることも事実です。時々、鋤を剣に変えたいという思いにさせられるでしょう。けれども私たちの共同生活が、神の国の証であるのは、まさにこの違いによってなのです。同じような連中が集まっている共同体ならば、ただそれだけの意味しかないでしょう。

 このような共同体のもっとも素晴らしい証を見たのは、ブルンディの共同体でした。これについては何度も話しましたが、六人のフツ族のシスターと、六人のツチ族のシスターが民族同士の対立でずたずたになった国に共同体として生活していることが、希望のしるしでした。彼女たちは皆家族を失っていましたが、ともにとどまりました。おたがいに一緒にいることを喜び、平和な雰囲気がありましたが、それは毎日祈り、努力して築いた関係でした。

 これは単に違う人々と一緒に生活するということだけではありません。おたがいの関わりにおいて、自分が誰であるかを発見できる限りにおいて、神の国の証人となることができるのです。自分とラディカルに違う人々と関わり合いながら、自分を発見するのです。ここで私はキリストにおいて自分を発見し、そのキリストにおいて全人類が一致しているのです。ドミニコ会の総長として素晴らしい体験は、14人の総長顧問が5大陸からの14人の国籍の違う兄弟たちだったことです。私たちは、「私たち」という時に何を意味するかを明らかにするために、たえずチャレンジを受けました。たとえば、若いアフリカ人の仲間は、私たちに、どれほど私たちがヨーロッパ中心であるかを指摘してくれました。自然に仲間と感じられない人々と友情を生きるときにはじめて、三位一体における友情の証となることができるのです。

 この社会には、同じ考え、同じ見方、同じ偏見と血を分かちあう人びととだけ、仲間になる誘惑が厳然と存在しています。言葉が通じ、同じ食べ物を食べる仲間です。シグムント・バウマンは、現代社会の流動性によって、「人びとは、危険に満ちた複雑さを避け、均一性に逃げ込みたい衝動にかられる。」と書いています。保守派は保守派と付き合い、進歩派は進歩派とだけ付き合う。老人たちは、老人ホームにおくられ、十代は十代とだけ集まる。サッチャー夫人は、人々についてよく「彼はこちら側なの」とたずねていました。このような誘惑を退けなければなりません。バニラ・アイスクリーム一色ではなく、ごった煮の鍋のように様々な味がまざりあって良い味がでるのです。

 もちろんそれぞれの会が、その生き方とミッションについてのビジョンを持っています。終わりのない総会が、この30年来会のカリスマによるミッションのあり方について文書をたたいています。誰もがカルメル会、あるいはイエズス会に呼ばれているわけではありません。しかし自分の会のあり方が、拘束衣のように考え方をしめつけるわけではないでしょう。一致のうちに違いを受けいれるのも、私たちの預言的役割です。

 多くの国ぐにで、カトリック教会は保守派と進歩派の対立が深まり、分裂しています。教会内に、「向こう側」にたいする敵意と怒りが存在しているとき、この分裂を超えて友情の手を差し伸べることが、私たちの預言的役割ではないでしょうか。右と左、伝統派と進歩派の対立は、18世紀の啓蒙主義から生まれたもので、実際はカトリック教会とは無関係なものです。私たちは、皆福音と伝統に根ざしているという意味で、必然的に保守でなければならないし、神のみ国の展望によって進歩派でなければならない。もちろん私たちの中には、どちらかと言えば保守に、あるいは進歩派に傾くということはあるでしょう。けれども伝統と変革の間に決定的な対立はありえないのです。その意味で、私たちの共同体において、二つに分裂することを許してはなりません。

 課題のひとつはジェネレーション・ギャップです。オックスフォードの私たちの共同体には、少なくとも4つの世代がいます。第二バチカン公会議以前の養成を受けた年長者のブラザー、公会議以後のエキサイティングで問題の多い時代を経験した私の世代が3,4人、それからいわゆるヨハネ・パウロ2世の世代で、彼らが言うところの私たちワイルドなリベラル派への抵抗を生きた多数派がいます。つぎは、20代のジェネレーションYで、これはまた前に世代とは全然違います。若者を歓迎し、彼らのチャレンジに耳を傾け、彼らが決して自分たちのようにはならないだろうことを十分承知していないかぎり、共同体は元気よく続くことはないでしょう。多くの修道会が、消滅するのは、若者が自分たちと違うことを受け入れないからです。私が若い修道士であったころ、Gervaseという素晴らしいドミニコ会員がいました。優秀な学者で、オックスフォード大学で教鞭をとっていた人です。たびたび若者のクレイジーな考えを否定し、私たちの始めることに抵抗しましたが、選挙になると必ず若者に票を入れていました。

 皆様がフォーラムから確認されたことのひとつは、各教区で、教区と修道会、宣教会の間に対話と協力による現実の分析を共有し、優先課題を明確にするということに注目したいと思います。

 修道生活が、位階制教会への恵みであるのは、まさに私たちが違った存在だからです。第二バチカン公会議は、司教を中心とする地方教会を大変強調しました。これは素晴らしく、また、美しいことです。しかし、位階制教会は、確実に私たちを必要とします。それは私たちのカリスマと召命が異なったものであるからです。教会は、忙しい世の中に抵抗する観想修道者、貧しく排除されている人びとに奉仕する修道者、あるいは知的な使徒職に携わる修道者を必要とします。フランシスコ会、イエズス会、ドミニコ会、カルメル会などそれぞれの霊性の美しい多様性が必要なのです。

 同様であること、柔軟性を持たないことを好む癖が、位階制教会の意識すべき誘惑です。一致は統一の押し付けになる傾向があります。けれど私たちは、多様性を持たない共同体は、神の国を顕す良いしるしでないことを経験から見てきました。ですから修道生活は、私たちの常軌を逸した特徴によって教会が、神の国を指し示すように助けます。これは砂漠の教父,教母たちが、1600年以上も前から始めた変わった生き方の時代から続いてきたことです。私たちは王宮の道化師のように、自由に話し、王様をからかうことさえできる存在です。このようなことが緊張をかもしだすこともありますが、創造的に緊張を生きることなくして、教会は死んでしまうでしょう。

ミッション

 私たちは共同体に招かれるだけでなく、そこからミッションに派遣されます。それは神の国と人類への希望を語る使命です。イエスは御父によって私たちに遣わされました。これは長い旅路を歩むというような具体的な旅というよりも、神の無限の愛の表現でした。「神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。」(1ヨハネ4.10)そしてイエスが私たちを遣わされます。「父が私をお遣わしになったように、私はあなたがたを遣わす。」(ヨハネ20.21)会によってミッションに派遣されるとは、ただ何か仕事をするということではありません。それは、すべての人々を神の国に招く、誰も排除しない神の愛のしるしとしての派遣です。

 アマゾン川流域で出会ったペドロというブラザーと話したことが心に残っています。彼は大変教養のある人で、どんなことでもできたはずなのに、ジャングルの僻地に派遣されました。ほとんどの時間は、歩き、カヌーを漕いで世界にはまったく知られていない先住民の村落を訪問しています。ペドロは、彼らに自分のいのちを与えることによって、先住民の知られず見えない生き方を自分のものとしているのです。けれどこれこそ自分の召命であると確信し、喜んで生きています。誰からも忘れ去られている先住民の人たちが、神様からは忘れられていないという証として生きているからです。排除されている人びとに奉仕は、あなたは人間一人ひとりを決して忘れることのない神の証を意味しています。

 ペドロが立ち去らずに残ると決意したのは意味深いことです。彼は派遣されたので、この派遣によって神の慈しみの証となることができるのです。これは単にキャリアとして自分が選んだこととは違います。今私たちは、このような思い切った派遣ができるでしょうか?また派遣を受け入れることができるでしょうか?多くの修道会は、勇気を失いました。米国でのある集まりで、一人のシスターが「20年間修道女だけれど、何をしてほしいと頼まれてことは一切ない」と話しました。好きなことを自分で選べるというのです。彼女は、イザヤのように「ここにおります。お送りください」と言っても、誰も送ってくれないとこのシスターは言いました。

 なぜある修道会は、派遣を恐れるのでしょうか?これにはいろいろな理由があるでしょう。第二バチカン公会議以前の長上たちの中には、大変な暴君もいて自分勝手なやり方で修道者を傷つけた例もあったため、今日のリーダーたちが、派遣することそのものにためらいを感じるということもあるでしょう。従順の誓願の濫用によって、派遣を恐れるということもあるでしょう。あるいは多くの会において、もはや病院や学校経営というような事業体を持たなくなった結果、使徒職の場を小教区にだけ求め、地方教会の中に埋没し、新しい派遣の場を持たないということもあります。

 けれども、もし修道生活が活性化されるならば、たがいに派遣しあう勇気を再び見つけるはずです。そうでなければ、神の記憶の証になることはできないでしょう。もし何でも自分のやりたいことをやりなさいと言われるのであるならば、決してドミニコ会に入会することがなかったでしょう。また自分の能力をはるかに超えると思えるような突拍子もないことをしなさいと私たちが頼まないのならば、今日若いメンバーが入会することもないでしょう。
 人類が希望の危機に直面している今日こそ、修道生活は神に国の小さな証になれる可能性を持っています。召命によって、私たちはその証となることができるのです。神に国に招かれているすべての人間の召命を目に見えるものにするのが、私たちの使命です。共同体に招かれていること、お互いに大変違う者どうしとして、思い切って一緒に生活しようとすることによって、私たちは神の国の証となるのです。気の合った者同士とホームをつくる安心感を拒否することが預言的な生き方です。そしてその共同体から招かれて、ミッションに派遣され、神の無限の誰をも排除しない愛の証となります。そのような証として生きることは、確かに価値があることです。教会も人類も、今日そのような証を必要としています。ですから自信をもって生きようではありませんか。



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国際女子修道会総長連盟(UISG)2007年総会宣言
     ローマ 2007年5月6−10日   (2007年5月13日代表者会議で承認)

全世界のカトリック修道会の会鼻80万人を代表する私たち女子修道会リーダー850人は、
今回の総会テーマである
「すべてのために希望といのちを生み出す新しい霊性を紡ぐチャレンジ」
についてともに考え、深めました。

キリストと人類への情熱は、私たちが希望といのちの紡ぎ手となるように強く促します。
「わたしが来たのは、いのちを与えるため、しかも豊かに与えるためである。」(ヨハネ10・10)

 この総会を通して、私たちは尊敬、対話、排除しないこと、信頼、共同責任、相互依存のかかわりによって、神との契約を生き、神の創造の業に参加し、希望といのちをもたらす者となる招きを聴きました。私たちは、すべてのいのちと結ばれているという気づきを深めています。この意識は、現代における奉献生活の理解を深め、新しいピジョンを創るチャレンジを投げかけます。

私たちは、神のみ言葉を観想し、神の眼と女性の心をもって時のしるしを読み取るように招かれています。
「わたしは民の苦しみを見、‥叫び声を聴き、…その痛みを知った。わたしは降って行き、彼らを救い出す。」(出エジプト3・7)

 この神の言葉は、わたしたちが見たチャレンジ、聴いた叫びにたいして、預言的な応えを求めるように招きます。それらの叫びは
 ・ 社会と教会において、女性が自分の尊厳と其の場を再発見する切望
 ・ 万物を包含する「ホーム」である傷ついた世界が、その聖性を認めよといううめき
 ・ すべての宗教を信じる人々のより深い交わりへの渇き
 ・ より人間らしい生き方を求める何百万の移民、難民の苦悩
 ・ 既存の構造を超えて、信徒の人々と修道会のカリスマをともに生きる聖霊の招き
「わたしはあなたを遣わす。今、行きなさい。わが民を自由にするのだ。わたしは必ずあなたとともにいる。」(出エジプト3・10−13)

わたしたちに委ねられた使命を感謝し、わたしたちは
・ 神のみ言葉と現実との絶え間ない対話に取り組みます。これはキリストに従う奉献された女性の献身の核心となるものです。
・ ジェンダー、宗教、文化によって人間を差別、排除する不正な構造と法律のすべてを告発する集団の声の力を活用し、ネットワークを創ります。
・ 人類の共通の責任としてすべての対話、とくに諸宗教対話を促進します。
・ 環境問題への意識を深め、具体的で一貫した行動によってそれを表現します。
・ 交わりとしての教会のビジョンを積極的に育て、信徒との其のパートナーシップを生きます。
・ これらのチャレンジにたいして、信仰に根ざし大胆に応える奉献された女性を養成します。
神の国の紡ぎ手となろう
わたしたちの心と頭が変えられ
安住を揺さぶられるように
わたしたちの天幕を広げよう
交わりの霊性を倦むことなく紡ぎ
人類とすべての被造物に希望といのちがもたらされるように


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広島・長崎60周年「平和の誓い」
「彼らはその剣を鋤きにうちかえ、そのやりを鎌にうちかえる。」
2005年8月  日本女子修道会総長管区長会

 第二次大戦終結後60年にあたる2005年8月、米国と日本の女子修道会の代表が、広島と長崎に集うことになりました。私たちは60年前の広島・長崎を思い起こし、奉献した女性として、日米の修道女がすべての暴力に対して「否」と言い、戦争に反対し平和を創り出す努力を連帯して行う決意をここに表明します。

「戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命を奪います。戦争は死そのものです。」  この言葉で始まる教皇ヨハネ・パウロ二世の平和アピールは、24年前に広島から全世界に向けて発せられたものですが、今なお私たちに強く訴える力をもっています。20世紀の世界は戦争の世紀でした。 そして平和へのほのかな期待をもって迎えた21世紀の世界には、今もって戦争や地域紛争が続き、多くの市民それも老人、女性、子どもたちが殺戮されています。

 「過去を振り返ることは将来に対する責任をになうこと」 と教皇は繰り返し述べます。私たちは過去の過ちを誠実に認め、その反省にたって平和な世界を築こうとしているのでしょうか。残念ながらここ数年、日本政府は過去の事実に目を背け、「戦争ができる国」となるために、着々と準備しているように見受けられます。その動きを危惧した日本の司教たちは「平和憲法のもとに曲がりなりにも続けてきた方向が急速に転換し始めました。私たちは今、市民として、キリスト者として、教会として、重要な選択の岐路に立っています。本当にこの方向に突き進んで行っていいのでしょうか。この道は主イエスが命をかけて示してくださった『愛と平和に至る道』なのでしょうか」 と問いかけました。

「戦争という人間が作りだす災害の前で、“戦争は不可避なものでも必然でもない”ということを、我々は自らに言い聞かせ、繰り返し考えてゆかねばなりません。人類は、自己破壊という運命のもとにあるのではありません。イデオロギー、国家目的の差や、求めるものの食い違いは、戦争や暴力行為以外の手段によって解決されねばなりません。人類は、紛争や対立を平和的手段で解決するにふさわしい存在です。」 という教皇の「平和アピール」の言葉を受けて、社会司教委員会は「平和と現代の日本カトリック教会」声明の中で、日本国憲法の前文と第九条に言及し、「日本カトリック教会は日本国民が名誉にかけて誓ったこの平和の理想を『時のしるし』としてとらえ、平和への貢献を神のみ旨として、決断と勇気をもってこの使命を実行に移さなければならない」と呼びかけ、「戦争を放棄し、軍備を捨てた小さくないひとつの国があるということが、世界平和にとって、世界平和の建設にとってどれほど大きな貢献になるか、はかりしれないものがあります。」 と述べたのです。憲法9条が憲法前文とともに政府に要求することは、軍事力整備ではなく、戦争の放棄と積極的な平和外交に基づいた国家の安全保障の施策です。平和憲法のもとに、この60年間、戦闘で人を一人も殺さず、一人も殺されなかったという現実こそ日本が他国に誇りにすべきことであります。

 「広島を考えることは、核戦争を拒否することです。広島を考えることは、平和に対しての責任を取ることです。」  世界で唯一の被爆国として、日本こそ核戦争を拒否し、あらゆる核兵器の廃絶を世界に訴えていく特有の役割を持っています。また「備えあれば、憂いなし」といわれ、世の中が当然のことのように軍備を進めていこうとする中、「力」で抑えつけるのではなく「非武装」「非暴力」という手段を貫き、あくまでも対話と信頼を通して平和を築く努力をし、その「備え」とすることが必要です。実際、市民の手で平和条例をつくるための無防備地域宣言運動が各地で活発になってきました。7

 これこそ、私たちが従おうとしているイエスの教えであり、教導ではないでしょうか。
「彼らはその剣を鋤きにうちかえ、そのやりを鎌にうちかえる。国は国に向かいて剣を上げず、戦闘のことを再び学ばない」 「つるぎを納めよ。剣をとる者は、剣によって滅びる。」 「武器や戦争といったものは文明のプログラムからははずされるべきものです。賢明な非武装は、平和に向かってのもうひとつの武器となるのです。」 「平和という善に至るためには、暴力は絶対に受け入れることのできない悪であり、決して問題解決にはならないことを、はっきりと自覚し、認めなければなりません。暴力は虚偽です。なぜなら、わたしたちの信仰の真理、わたしたち人間性の真理に反するものだからです。暴力は、人間の尊厳と生命そして自由を守ると主張しますが、実はそれを破壊しているのです。」

 私たちは単に戦争がなければいいというような消極的平和をもとめているのではありません。戦争はなくても、「平和でない状態」つまり人間が差別され、排除され、悲しみ、傷つく構造的暴力の状態があります。構造的暴力である貧困の問題や、開発・人権・平等といったいわば非軍事的社会問題についても積極的な平和構築をしなければなりません。そうしてこそ「平和を実現する人は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」 と告げる福音を自分のものとすることができるのです。

以上を受けて、私たちは次のことを誓います。
1. 私たちはこれからも日本国憲法9条「戦争の放棄」を守りぬく努力をしていきます。
2. 私たちは、自分の身近なところ、日本社会そして世界において、「力」で抑えつけるのではなく「非
武装」「非暴力」というイエスのやり方を実践し、あくまでも対話と信頼の構築を通して平和を築く努力をします。
3. 人々が差別され、排除され、傷つけられ、自然資源が破壊される構造的暴力に対して抵抗し、人間の尊厳・人権・平等と持続的な開発が、政治、経済、社会のあり方において優先されるように、それぞれの場で働きます。
4. 不戦の誓いを新たにし、無防備宣言運動を支持します。

 十字架によって敵意を葬り去られ、隔ての壁をうちこわし、ふたつのものご自身において新しい人に創りあげるキリストに、この誓いを捧げます。私たちの平和であるキリストが、非暴力の世界の実現を願う私たちの歩みを照らし、力づけてくださいますように。


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女子修道者リーダーの声明 2004

だれでもキリストのうちにあるなら,その人は新しく造られた者です。...
これらのことは,すべて神から出ているのです。神は、キリストによって,
私たちをご自分と和解させ,また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
(2コリント 5.17―20)

イエス・キリストに従う女性たち:この世界に和解を伝える者

わたしたちは極端な暴力が横行する時代に生きています。現代ほど希望と和解の光が切望されているときはありません。わたしたち800名の修道女は5大陸、69カ国から集まりました。女子修道者総長連盟は、全世界98カ国にある修道会に属する100万人のメンバーを代表しています。世界が渇望する和解の希望のもたらすことこそ,現代世界における最も重要な使命であると私たちは信じています。

和解こそ今、神が望まれる事であると確信し,わたしたちは和解,すべての癒しと許しの源である神により頼むことを心から宣言します。和解を求めるこの歩みにおいて、わたしたちは和解の世界を望むさまざまな信仰や伝統に生きる人たちとこの歩みをともにしています。不安,弱さに満ち,絶え間ない回心を必要とするこの歩みにおいて、何者も排除しない愛と真実を求め続けることを、わたしたちの生き方の根本としたいという望みを確認します。

わたしたちは、リーダーとして互いに,また会員と各国の修道女連盟と協働することを約束します。そのために:

和解の霊性を生きることによって
・ 共同体において神のみ言葉に土台を置き、観想,祈りと感謝の祭儀に養われてこの霊性を生きる証となる
・ 初期養成と生涯養成プログラムによってこの霊性を深め,自分の会を超えてともに歩む仲間とわかちあう
・ コンパッション,尊敬,勇気,和解の希望の精神によってこの霊性を生きる

和解の担い手となることを公に宣言する
・正義の実現,紛争の解決,戦争の終結のために,あらゆるレベルで他組織と協力する
・ オルタナテイブなビジョンを知らせ,和解についてのストーリーを語り、暴力と不正を糾弾するためにメデイア使う
・ 全ての人々,諸宗教,諸文化の間に対話,理解,和解を創り,促進する
・ カトリック教会において男女の間に癒し,和解,正しい関係を実現するための努力を強化する

和解について私たちの経験と手段をわかちあう
・ 相互の絆を深めるためにUISGの資料,とくに出版物とホームページを利用する
www.uisg.org
・ 和解を促進するために私たちが学んだこと,創った資料をわかちあう

和解のスピリットのうちに2001年の総会宣言を実現する努力を続ける
・ 和解をもたらす者として,女性と子供の人身売買を撲滅し,女性と少女の教育と養成を促進し,平和の構築と被造界全体を守るために行動する努力を深める

わたしたちはイエスに従う修道女のリーダーとして歩み続けます。人々と連帯しながら世界の修道女はこの世界を変革する聖霊の働きに協力することを固く信じながら。

UISG総会
ローマ  2004年5月16日

(訳 弘田鎮枝)back to top