正義と平和が21世紀の宣教の場に
昨年のキリスト降誕2000年大聖年を祝った教会は、自らの歴史の中で忠実にその使命を果たしてきたかを真摯に反省し、回心と刷新を決意しましたが、第三の千年紀に踏み入った人類を取り巻く現代社会の諸問題を見渡すとき、すべての人々が正義と平和に基づき人間らしく共に生きる社会を築くよう働くことが、教会の宣教の使命に今ほど切実に求められる時代もありません。
そもそも私たちが洗礼の秘跡をとおして教会の成員となったのは、すべての人々に神の救いを宣べ伝えるためであり、そのために私たちは神に選ばれ、預言者的使命を受けてこの世に派遣されているのです。この意味で私たちキリスト者が、キリスト教の信仰、あるいは福音というものを、現代社会の諸問題を前にして具体的にどのように生きるかという課題は信仰者の本質的な問題であり、それが空白であれば、信仰は形骸化してしまいます。神は私たちに信仰に基づいて、人間が生きる場である被造世界で起こるすべての事柄を、たとえ政治問題と言えでも例外ではなく、福音の光に照らしてその福音的価値を識別し、あらゆる事柄がより高い福音的価値を帯びるようにしていく努力を、教会とその成員に課しているのです。
ちなみに、教会法は第3部「教えの任務」の最初の747条で教会の任務を定義します。まず第1項で、教会に啓示されたの真理と信仰の遺産についての教会の務めを説きます。次に第2項では、「教会は、社会秩序に関することも含めて倫理の原則をいつでもどこでも告知し、かつ、人間の基本的権利または、救いに必要な限り、あらゆる人間的問題について判断をする権限を有する」と、いわゆる「教会の社会教導権」について述べています。つまり、教会は福音を宣布する使命の中に、この社会教導権の行使があることを明示します。そして特にそこで、この世の事柄について福音的価値観を述べる使命を果たす場合の基準として、「基本的た人権」と「魂の救い」を上げていることが新教会法の特徴です。教会が人間の問題にたいして判断を下すのは、そこで人間の基本的権利が侵されることから人々を守るためであり、それは人間の救いの根幹にかかわるからだということです。
ここで私が特に言いたいことは、こと社会の問題に対する教会の判断は、教会の教えに基づいて、仮に神学的な原則の応用や議論だけで達成されるよりも、その問題に関わる人々の苦しみと痛みを直接知り、分かち合い、また問題の真の所在と解決を模索するためになされる地道で時間をかけた活動によって徐々に作り上げられていくということです。これこそ、教会の預言者的な役割を果たすときの不可欠のプロセスです。
ある非福音的な具体的な問題が、どのように福音的価値判断を求めているかが、直ぐには分からないことが多いです。過去の歴史をみれば、たとえば国家や集団、個人が引き起こす問題によって多くの人々が犠牲になり、苦しみと悲惨さが現れてはじめて、その過ちや非福音的な行動が社会に明らかになるからです。したがって、このような預言者的な役割を果たす活動に対して、はじめから多くの人々によく理解され、賛同をうけるということが往々にして少ないのです。しかし、教会の預言者的使命、つまり神から託された福音的判断の実行を、予言的に、つまり皆が賛同する前に果たすことはいつの時代にも困難であっとしても、過去の教訓を生かして少しでも手遅れのないように、行動を起こすことが必要なのです。この点で、大聖年の準備のための回心のために、ヨハネ・パウロ2世教皇が、「行動を起こすときの緩慢さ」を反省するようにと指摘されたことは、大変深い意味を持っていると思います。
先のハンセン病謝罪・国賠訴訟で国が控訴を断念したとき、私は教会も非福音的な状況に対して「不作為」という過ちを犯してはならないと強く反省しました。日本の教会は、もっと広く預言者的な視野をもって、人類と日本社会にキリスト的メッセージを発信していく使命を真摯に自覚しなければならないと思います。そのためには、私たちキリスト者が信仰を抽象的にではなく、現実社会の場で預言者的・宣教的な時代感覚をもって生きることが必要なのです。
宣教への熱意を掻きたてながらも、今の私たちがこれからの宣教のために改めるべきことを改め、これからの未来を託す人々にたいする責任を果たさなければならないのです。時代感覚を持つということは、なにか古いものを否定し新しいものに飛びつくという意味ではなく、普遍的な使命のために変革への責任を持つということです。特に自分のひとりよがりの信仰の理解と生き方を常に批判的に見つめ、時代の中での共同体としての識別に心を開き、参加していくことが非常に大切です。そのために一人ひとりが正義と平和に関わりながら、信仰において成長し、生きた宣教の道具となるように、対話と協調の精神で皆で努力しましょう。
JP通信 2001年7月号より