短編 熱帯魚

  

 夜の街にひとり立っていると、周りのあまりの取りとめのなさに、自分の存在がぼんやりしてきてしまう。街のネオン、路上ライブのバンドのノイズ、布の上に広げられた手売りのエスニック風アクセサリーや色紙、カードを広げるタロットカード占い師、ところどころにコロニーを作る、所在ありげな、そしてなさげな若者たち。路上にぶちまけられた、日常のない、縁日のような。
 その取りとめもなさに半ば浸かり、半ば刃向かいながら、でも外からはどう見えるのか知らない、あたしはぽつんとひとり立っている。薄いムネをそれでも大きく露出したキャミワンピ、ひらひらした観賞魚のような服、その簡単な女っぽさのアピールに、立ち降りてくれる人を待ちながら。
 千葉ちゃん、ナンパされにいくんだね。
 そう言ったのは、心を許すほとんど唯一の友達、史子だった。
 史子はまるで、明日は天気がよさそうだね、とか、世界史のレポート「良」だったよ、とか言うみたいな口調で、淡々とそう口にした。史子はいつでもいいとか悪いとかジャッジを押し付けない。だからあたしは史子がすきだ。だけど今回史子は言った。千葉ちゃん、傷つかないでね。その細い目は、余計なことは一切言わず、ただ全ての責任はあたしにあるんだと言っていた、昼下がりの教室。
 そしてあたしはナンパを待っている。祝ってくれよ、史子、あたしのナイトデビュー。お金が欲しいんじゃない、ヴァージンを失くしてしまいたいだけ。自暴自棄でもなんでもない、きっと次のステージに何が見えてくるのか知りたいんだよ。

 あたしがおにいちゃんをすきなのはどうしてかということを説明するのは、ひどく難しい。それは、おにいちゃんの次に自分が生まれてきたのが順当な流れであるように、おにいちゃんをすきになるのもあたしにとっては順当な流れだった。
 おにいちゃんの後ばかり追いかけておにいちゃんの仲間に混ざって遊んでいた子どもの頃は、自分が女だとは知らなかった。あたしばかり髪の毛は長かったし、スカートははいていたし、みそっかすでいじめられてばかりいたけれど、みんなそんなあたしを許容してくれるところがあって、あたしは自分が女であることに気づかなかった。もちろん、小学校に上がって、同級生はどうやら男と女に分けられて、自分は女の列に並ばされるのだということは分かったし、女の友達はおにいちゃんたちみたいにミニサッカーしたりカードダスで勝負したりすることはなくて休み時間も教室でお喋りしているものだと分かってからも、だからといって違和感を味わうようなこともなく順応し、要は、あたしの中で性は長いこと未分化なままだったのだ。
 自分の「女」を初めて意識したのは、小学校五年生くらいのことだった。
 多分もう、ほんの少しにしろムネだのお尻だのは膨らみを持ち始めていたんだろうと思う。
 今までの習慣どおりに、お風呂上がりにパンツとタンクトップでふらついていた。なんの意識もしていなかった。冷蔵庫から出した牛乳をらっぱのみして、仕舞って振り返った途端、鼻柱に激痛が走った。
「女がパンツいっちょでうろうろすんじゃねえ!」
 おにいちゃんの声だった。顔から、投げつけられた漫画雑誌がぼたりと落ちて、呆然と見たおにいちゃんの耳が赤かった。鼻から血がぽたぽたと垂れて、それは、その後一年くらいして訪れた初潮の血よりも赤く印象的で、あたしはその時から、「女」になった。
 おにいちゃんは相変わらずおにいちゃんだ。ほうれん草とカレーのじゃがいもが苦手で、大学生になっても週刊少年ジャンプを読み、朝は大概自主休講で、なのに「高校生は早く学校行け」だの「帰りが遅え」だのおやじくさいことを言う。昔から見知った、一緒に育ったおにいちゃん。
 なのにあたしは、遠い遠いおにいちゃんを知ってしまった。赤らんだ両の耳朶、ことさら不機嫌な顔つき、「女」とあたしを呼ぶおにいちゃん。男。
 ものすごく近くて、ものすごくよく知っていて、なのにものすごく遠い。目眩がする。その目眩感は、おにいちゃん以外、誰もくれない。

 ナンパは意外と難しかった。条件が厳しかったからかもしれない。危険がなさそうで、後くされなく、一晩だけ寝てくれそうな人。
 カラオケ行こうよとしつこく誘ってくる遊んでそうな大学生の集団をやっとのことで追い払い(輪姦されたりするのは絶対ごめんだ)、誘ってるうちからべたべた触ってくるラテン系の外人を押し戻し、気弱そうに援交を申し出てくるおじさんを丁寧にお断りし、そのうち疲れてきて、地べたに腰を下ろした。
 何時だろう、もう夜はとっくに更けているのに、誰も帰る気配はなかった。街のネオンはますます鮮やかに、路上ライブのバンドはシャウトし、広げられた売り物を所在なげに眺める数人のお客、自分のために占いを始めるタロットカード占い師、みんな、何を求めてここにいるんだろう。同じ場所にいるのに、みんなひとりひとりだよ。
 あたしは膝を抱えて背中を丸くし、顔を腕の中に埋めた。
「君、大丈夫?」
 頭上から、声が降ってきた。顔を上げると、スーツを着た四十代くらいの男の人が、身をかがめていた。
「具合悪いの?」
 わたしは勢いよく立ち上がって、お尻をはたいた。
「ううん、何でもありません」
「君、未成年でしょう。こんな時間に何してるの?」
「……警察の人?」
 やばいかも。そう思って上目遣いに訊くと、男の人はぱっと割れるように笑った。笑うと少し表情が子どもっぽくなって、こんな時なのに少しかわいいと思った。
「いや、全然。ただのサラリーマン」
 あたしは少し安心して、その、ただのサラリーマンを控えめに観察した。背が高い。眼鏡をかけた顔はどちらかというとタヌキ顔で、人のいい感じがする。男の人の着るものはよく分からないけれど、その人の着ているスーツは、布の質感や仕立ての感じが、上質な気がした。夏なのに、襟も崩さず、きちんとネクタイをしている。全体的に、好印象。いや、そんな思い込みはあてにはならないけど。
「お説教っぽいことは言うつもりはないんだけど、もう終電もないよ。どうするの?」
「どうにかします。今日はほんとは帰らないつもりで来たから」
 少し口が滑ったかもしれない。男の人は少し黙った。探るような目でわたしを見た。
「帰らないなら――少し僕に付き合わない?お酒をちょっと飲む程度」
 その時男の人が挑戦的な目をしなかったら、わたしはついて行かなかったかもしれない。男の人は、心持ちあごを上げてわたしを見下ろすようにしながら、こう言ったのだ。
「飲めるでしょ――お酒。ちょっとくらいなら」
 かちんときた。子どもっぽかったけど、バカにされたようで、悔しかったのだ。
「飲めます。ちょっとじゃなくたって」
 男の人は喉の奥で笑った。あ、まずい展開かも。そう思った。だけど遅かった。
「勇ましいね。じゃあ、行こう」
 男の人は先に立って歩き出した。

 どこかのお店に入るんだと思っていた。だから、タクシーに乗せられた時、平気な顔をしながら内心怖くなった。
 男の人は、てきぱきと運転手に行き先を告げる。タクシーは車の流れに乗って快調に飛ばし、あたしには跡が辿れない。いざとなったら携帯だけが頼りだ。あたしはぎゅっとかばんを抱きしめる。携帯とハンカチとティッシュ、手帳と鏡だけが入った小さなボストン。
「怖い?」
 男の人は前を向いたまま笑った。
「いいえ」
 平静ぶってきっぱり答えた。怖い、と口に出したらもっと怖いような気がした。
「変なところには行かないから安心してよ。僕のうちだから」
 見ず知らずの女の子を自分のうちに連れて行く方が、よっぽど変なんじゃないか。新聞でよく見かける記事が頭に浮かぶ。女子高生監禁。死体遺棄。思い浮かべればそれが本当になりそうで、あたしは頭の中のそれをひたすら打ち消した。
 窓の外は暗く、対向車のヘッドライトが尾を引いて流れる。こんな時だけど、それは夜空を渡るみたいに綺麗だった。
 夜を渡り、どこか知らない世界へ行く。それはおにいちゃんの知らない世界。新しいあたしが、初めて見る世界。車は漂ってどこへ着くのか、暗闇と光の海、あたしはそれを知らない。
 男の人は二言三言、運転手さんに話しかけた。それから角を幾つか曲がり、速度が緩んで、軽い衝撃と共に、タクシーは止まった。
「着いたよ」
 男の人が言う。自動で開いた扉から、先に立つ男の人の後について、あたしはタクシーを降りた。
 そこは、高層マンションが立ち並ぶ住宅街だった。男の人は後も見ずにすたすたと歩き、なだらかな煉瓦敷きのスロープを経て、両側をガレージに挟まれた一軒のビルの玄関に吸い込まれていった。慌てて小走りに後を追いかけると、白と黒で彩られた、エントランスホールに出た。無機的な、人工的な感じがする。それは洗練されていて、つめたかった。
 男の人はエレベーターのボタンを押した。なめらかに姿を現したエレベーターに、男の人はさっさと乗り込み、わたしの方を見て、当然のようにうながす顔をした。エレベーターはタクシーよりもなお狭く二人の間は近く、わたしは一瞬ためらった後、なにいまさらためらってんだ、と思って、えいや、と飛び乗った。
 男の人は十階のボタンを押した。エレベーターはあくまでなめらかに動き、よくある内臓が持ち上げられるような不快感なんか、少しも感じさせなかった。その割にはいいスピードで上昇していたんだと思う、程なくしてエレベーターは上品な仕草で止まり、静かに扉が開いた。
 男の人は先に立って外に出た。広いエレベーターホールを左に曲がり、突き当りのドアの前で、鍵を出した。
『黒笑−kokusyo−』。表札にそう書いてあった。コクショウさんていうのか。ヘンな名前。なんだか腹黒そうで、ひねくれた笑いの感じがして、きちんとスーツを着たタヌキ顔のこの人には、似合わない。でも。あたしは、あの時のこころもちあごを持ち上げた挑戦的な目を思い出す。この人は、そんな顔もする。
「さあ、どうぞ」
 初めて男の人――黒笑さんが振り向いた。大きく開いたドアの向こうに、知らない部屋が覗いていた。
 あたしは気づかれないように唾を飲み込んだ。ことさら背筋をしゃんと伸ばして、広い玄関に踏み込む。かがんでサンダルのボタンをぷちぷちと外すその横に、だらしなく首を折れたロングブーツが、へたりこむように壁に寄りかかっていた。
「女の人住んでるんですね、黒笑さん」
 あたしは少し勝ち誇ったような気持ちで言った。
 ああ、と黒笑さんは苦笑して、表札見たの、と言った。
「住んでいる訳じゃないよ。よく拾うんだ」
「――ブーツを?」
 あたしはあっけに取られて目を丸くした。黒笑さんは途端に爆笑した。
「君は面白いことを言うね。女物のブーツなんか、拾う訳ないでしょ。女の子だよ。女の子をよく拾うんだ」
 あたしは急に面白くなくなった。笑われたのも悔しかったし、つまるところ、あたしも拾われたに過ぎないのだった。
「女の子を拾うなんて、ヤな趣味。黒笑、って名前も、ヘン」
 あたしは小さく呟いた。
 黒笑さんは自分も靴を脱ぎ、あたしを奥へ奥へと押しやりながら、穏やかに笑った。
「それも偽名。本当は『国』に『生きる』でコクショウだよ。でも、『黒い笑い』の方が面白いでしょ」
 あたしはさらにあっけに取られた。そしてますます面白くなくなった。足が止まる。
「全然面白くない。イヤな人。きらい」
「君は、そういうきらいな人についてきたんでしょ」
 黒笑さんは――偽名の黒笑さんは、あたしの手首を取った。
「そう。きらいだから、ついてきたのよ」
 黒笑さんに引っ張られて短い廊下を抜けると、広い広いワンルームが広がった。何畳あるんだろう。二十畳くらい?三十畳くらい?あたしは自分の家の茶の間を思い出す。あの家庭じみた狭さが身に染みて懐かしくなるような、生活感のない広さ。奥の方がリビングになっていて、ゆったりとした革のソファに、大きなスピーカーを備えたステレオセットと、パソコンのディスプレイがあった。その奥は全面ガラス張りの大きな窓で、きらきらとした光の粒にまぶされた暗闇の、綺麗な夜景が広がっている。
「そこに座りなさい」
 部屋の手前はカウンターキッチンになっていて、カウンター側には背の高い椅子が三客並んでいた。黒笑さんはキッチン側に入って、なにかかちゃかちゃと仕度をしている。やがてカウンター越しに目の前に置かれたのは、泡の立った薄金色の飲み物だった。
「シャンディ・ガフだよ。ビールとジンジャーエール。弱いから、大丈夫でしょう」
 キッチンから回り出てきながら、黒笑さんが言う。黒笑さんは角の立った氷に浸かった、無色透明の液体を持っていた。そのままあたしの隣の椅子に座る。
「飲まないの?」
 目が笑っている。
「飲むよ」
 あたしは憤然と言った。その勢いとはうらはらに、そっと舐めるように味わうと、ジンジャーエールの甘みと炭酸のぱちぱちした刺激が舌先に当たる。おいしい。お酒は飲めると断言したけれど、それほど大したものを飲んだことはないのだ。
「黒笑さんのは?」
「ビーフィーター――ジンだよ」
 もらって一舐めすると、強烈な苦味と薬臭さが口の中を襲い、わたしは顔をしかめてグラスを返した。
「駄目、これ。きらい」
「君はきらい、ばかりだなあ」
 黒笑さんは、くっくっくっと喉で笑った。
「どうせ、きらい、って言わない女の子ばかりだったんでしょ」
 シャンディ・ガフで口の中を洗ってもう一度部屋を眺めると、ソファにはレースのスリップや脱ぎ刺しのストッキングなんかが引っかかっていた。だらしない。いやらしい。
「そうだね」
 思いがけず、黒笑さんはぼんやりとグラスの氷を鳴らした。
「大概が、黒笑さんすき、って言ってた。それで、連れてくると何日でも居る。だんだんいやになって、僕が寄りつかなくなる。そうして何日も経って、顔を出してみると、居なくなっている。ただ、下着だの、化粧品だの、アクセサリーだの、そんなものをひとつかふたつ、残していくんだ」
「だらしないのよ」
 きっぱりと言うと、黒笑さんは微笑んだ。その微笑みはなんだか気弱で、そんなつもりはまったくないのに、胸がきゅうとなるような気がした。
「君は若い。潔癖だ。――幾つ?」
「じゅう――にじゅう」
「名前は?」
「――ま、こと」
 嘘だ。どっちもおにいちゃんのものを借りた。ほんとは十七で、名前は真咲だ。
「若くて潔癖な君が、どうして僕についてきたの」
「それは……」
 あたしは上目がちに黒笑さんの顔を見た。
「処女……もらってくれないかしらと思って」

  あたしはずっとヴァージンに絶望していた。セックスに興味を持ち始めた頃のクラスの女の子たちが、ティーンズ雑誌の特集付録なんかを見てきゃあきゃあ騒いでいるのにさえ加われなかった。
 それはおにいちゃんのせいなのだ。おにいちゃんがあたしとセックスをしはしないという事実のせいなのだ。
 セックスの意味を知った時、初めての人はおにいちゃんと決めた。あたしは倫理にひるまなかった。初めてのセックスはすきな人とする。それが一番大切に思えた。誰かに知られてケチがつくのがイヤで、友達の中では、史子にしか言ったことはなかったけれど。
 おにいちゃんに隠す意味はなかった。あたしは包み隠さずおにいちゃんに、、
「あたしの処女は、おにいちゃんにあげるよ」
と言った。それはあたしのそれまでの短い生涯の中で、初めての愛の告白だったし、どんな人よりもおにいちゃんを愛しているという、心からの誓言だった。が、結果から言うと、それは非常にタイミングが悪かった。ちょうど、おにいちゃんが彼女に振られて限りなく落ち込んでいた時だったのだ。でも、そんな時だったにせよ、あたしの中ではまぎれもなく本気で、おにいちゃんがいいと言ったら、あたしは本当におにいちゃんに処女を捧げただろう。
 だけど結果的にそれはおにいちゃんを激怒させ、
「ふざけんなこのやろう、何が処女だ、意味分かってんのか!」
の罵声と共に、おにいちゃんのげんこつが飛んできて、あたしはまたしても鼻血を流して話は終わった。忘れもしない、十三歳の夏だ。
 この時、あたしは絶望と共に悟ったのだ。
 あたしとおにいちゃんの間には、セックスは介在しない。
 それは、倫理的な問題ではなく、おにいちゃんはあたしとは決してセックスをしないのだという――考えることさえしないという――絶対的な事実だった。
 おにいちゃん以外の人と、セックスなんかしたくなかった。
 だからあたしは、絶望するしかないのだ。
 何の意味もないヴァージン、何の意味もないセックス。吹けば飛ぶような、羽毛のように軽い価値。
 捨ててしまえば――おにいちゃんと縁もゆかりもない人とセックスしてしまえば――何かが変わるんだろうか。新しい地平が見えてくるんだろうか。

 黒笑さんは思ったより驚かなかった。それがまたしゃくにさわった。
「処女の子とも付き合ってきたの」
「ああ、いたね。思い入れたっぷりだった」
 黒笑さんは軽く言う。
「あたしは思い入れはないわ。ただ、失くしたいの」
「どうして失くしたいの?」
「――邪魔だから。いらないから。変わりたいから」
「ふうん」
 黒笑さんは氷をカランと鳴らしてジンを飲むと、あたしに目を向けた。
「ボランティア?」
 あたしはその目の強い光に押されてうつむいた。
「報酬が欲しい?」
「そうだね……」
「……お金?」
 あたしは口ごもった。高校生の自由になるお金なんて、たかが知れている。
「いや、金は持ってる」
「じゃ、何?」
 黒笑さんはジンを一息に飲み干した。
「それは後の話にしよう。――おいで。ベッドルームはこっちにあるんだ」
 リビングの一角にらせん階段があって、それは吹き抜けの階上に続いていた。黒笑さんの後について階段を上がると、白い清潔なシーツで覆われたセミダブルベッドが場所を占めていた。
「座りなさい」
 黒笑さんはベッドの端にくつろいだ様子で腰掛けて、ネクタイを緩めている。あたしは今さらながらに胸がどきどきして、だけどそんな自分に苛ついて、ことさら大げさな勢いでベッドに腰を沈めた。
 黒笑さんが手を伸ばした。抱きしめられる、と思った瞬間あたしは目をつぶっていて、気がつくと黒笑さんの腕の中で、唇が柔らかい感触に包まれていた。あまりにもなめらかな柔らかさで、抵抗する力すら奪われて、あたしは体がふにゃふにゃになって崩れそうな気がした。
 あたしは不器用なキスしか知らない。一度だけ、同級生の男の子とした。あたしがマネージャーをやっている同じ部活の子で、すきでも何でもなかったのに、たまたま二人きりになった部室の中、不意に会話が途切れて居心地の悪い沈黙が訪れたと思うと、突然唇がぶつかってきた。固く、慣れないキスの間で、あたしたちはしばらく揉み合い、そしてぶつかってきた時と同じようにいきなりそれは離れて、「ごめん」という呟きと共にあたしは部室に残された。それをぼんやり見送ったあたしは、行儀悪く膝を広げその上に頬杖をついて、ばっかじゃねえの、と呟いた。謝られるようなキスはされたくないんだ。
 黒笑さんの舌が唇を割って入ってくる。どう受け止めたらいいのか分からないのに、それはあたしの舌をからめとり、また放す。濃厚なお酒を注ぎ込まれるみたいに、お腹の底が燃える。
 柔らかい感触が舌と唇を解放した。と思うとそれは首筋に下りてきて、軽く鎖骨を噛み、キャミワンピの紐をずらして、はだけた胸もとから濡れた感触が乳首を含んだ。
 舌先が乳首を行ったり来たりする。そのたびに濡れたなめらかな刺激が、頂点からかけおりる。何かがもどかしい。体の内側が求めている。もっと強い、直截的な刺激。そんな感覚を知っているのかいないのか、黒笑さんは執拗にあたしの乳首を舐める。
 黒笑さんはちらりとあたしの顔に視線を向け、笑ったようだった。
 ワンピースのファスナーが下ろされ、あたしはバナナの皮を剥くように裸にされていった。表に曝された、貧相なあたしの体。
 黒笑さんの手が下腹部を通り、内腿に滑り込んだ。何度か手は行きつ戻りつし、やがて指が、あたししか知らない場所へ挿し入れられた。鈍い異物感。それは唇や舌みたいに柔らかくも濡れてもおらず、だけどもっとずっとくっきりとした形を持っていた。
 あたしは思わず腰を引いた。指は自在に腰の後を追ってくる。あたしは逃げ場を失ってはがゆくもがいた。
 黒笑さんが軽く笑った。
「イヤ?」
 あたしは答えなかった。答えたら声が震えそうな気がした。
「君はイヤ、がすきだからね」
 おもむろに黒笑さんはあたしの脚を抱え上げた。そして両脚の間に割って入った。
 やっぱりイヤ、そんな言葉が口をついて出そうになった時、不意におにいちゃんの顔が脳裏を走った。おにいちゃん。そうだ、あたしはもうこれまでのあたしのままおにいちゃんに会いたくない。あたしはヴァージンを脱ぎ捨てて、新しい地平が見たい。新しいあたしになりたい。おにいちゃん!
 内腿に擦れる黒笑さんを感じた。そして次の瞬間、鋭い痛みがあたしを貫いた。
 入ったとは思わなかった。ただ、体の深奥を切り裂かれるような、強烈な痛みだった。あたしは息を呑んで歯を食いしばった。そうしなければ、悲鳴を上げていたに違いなかった。
 黒笑さんは緩める素振りも見せず、自分を突き入れてくる。衝撃が体の芯に突き刺さる。痛い。一突きごとに痛みが走る。あたしはひたすら歯を食いしばって悲鳴をこらえた。声を上げたら、負けるような気がした。
 黒笑さんはあたしをしっかり抱きしめ、腰を振り始めた。あたしは必死に黒笑さんにしがみついた。激しく全身が揺さぶられ、痛みで気が遠くなった。息が苦しい。頭の中でわんわんと声が鳴る。頭の中のことなのか、本当に声が漏れているのか、段々分からなくなってくる。すべては混沌として夢の中のようだった。
 やがて黒笑さんが体を起こしてあたしから離れた時、あたしはしばらく気づかない程ぐったりしていた。黒笑さんはあたしを抱き起こした。あたしは疲れきっていて、抵抗する力もなかった。
「やだよう……やめてよ」
「シャワーくらい浴びなさい」
 黒笑さんは有無を言わせずあたしを肩に担ぎ上げる。あたしはそのままバスルームに運ばれた。
 蛇口をひねると、勢いよくお湯がシャワーとなってほとばしり出る。黒笑さんはあたしの肩先から足先まで、たっぷりと濡らした。それから液体ソープを豊かに泡立て、その泡の層であたしの皮膚を撫でるように、ゆっくりと全身を洗った。それはとても丁寧でやさしく、あの、力で捻じ込むような貫通とあまりにも違いすぎて、あたしは戸惑い、愛情みたいなものの存在を錯覚しそうになった。
 体中が泡で包まれると、黒笑さんはまたシャワーでそれをすべて洗い落とした。そしてあたしの体をバスタオルでくるんでくれた。
「先に行って待っていなさい」
 黒笑さんは自分でシャワーを使うのだろう。あたしはバスルームを後にした。
 階段を上がってベッドに戻り、あたしが見たものは、真っ白なシーツに躍る鮮血だった。
 すべてが一気に現実となった。夢じゃない、あたしが本当に処女を脱ぎ捨てた証。それは経血よりも鮮明に赤く、あの、あたしが初めて「女」を感じた時と同じくらいまざまざとしていて、あたしはその瞬間、痛切におにいちゃんを思った。
 今頃どうしているだろう、あたしは今日、おにいちゃんの知らない所でおにいちゃんの知らない「女」になった。もう戻らない、昨日までのあたし。
 不意に背後から抱きすくめられて、耳朶に息を感じた。
「満足?」
 あたしは胸が噛まれたように痛かった。
「どうしてそんな意地悪な言い方をするの」
「根がサディストなんだな、きっと」
 黒笑さんは身を離した。白いバスローブを着ていて、キッチンから取ってきたのだろう、ビーフィーターのグラスをカラカラと振っていた。
「シーツを替えるからどきなさい」
 黒笑さんはグラスをサイドテーブルに置き、汚れたシーツを引き剥がした。そしてまた真っ白い、新しいシーツをセットした。
「古いの、どうするの?洗うの?」
「いや、捨てるね」
 黒笑さんは汚れたシーツをくしゃくしゃと丸めて階下に蹴飛ばした。
 一瞬、胸の奥がちりりと痛んだけれど、捨てるのもいっそ潔いのかもしれなかった。
 捨て去るつもりだった処女、それでいいじゃないか。貫かれた肉体の痛みも、深紅のあたしの「女」のしるしも、歴然とあたしの心の中に刻み込まれている。目に見えるものを後生大事に取っておいて、何になるというんだろう。
 黒笑さんはメイキングを終えたベッドの奥に横になった。
「おいで。寝よう」
 あたしは用心深く滑り込んだ。黒笑さんの隣に収まる。黒笑さんはあたしと同じシャワーソープの匂いがした。あたしは徐々に眠りに落ちていった。

 目が覚めた様子では、そう時間は経っていない。早朝のようだった。あたしはベッドから滑り下り、下着とキャミワンピを身に着け始めた。
 黒笑さんが目を開けた。まだ眠そうで、ぼんやりしていて、子どもみたいな表情をしていた。くぐもった声で言う。
「帰るつもりなの」
 あたしはうなずいた。
「もうそろそろ帰る」
 黒笑さんはベッドの上に起き上がった。構わず背中のファスナーを上げていると、手首を掴まれた。思いのほか強い力。あたしはそのままベッドに引き戻され、組み伏せられた。驚いて黒笑さんを見ると、意固地な表情であたしを見ていた。まるで、我がままがすべて通る、子どものような。
「もう帰れないよ」
「……冗談でしょ」
 あたしは笑ってみた。けれど黒笑さんの暗い目は、笑っていなかった。
「報酬の話がまだだったね。今言うよ。報酬は君だ。ここにいなさい」
 唐突に脳裏に蘇ってきた。首を折れたロングブーツ、ソファに脱ぎさしのスリップやストッキング。それらを身にまとっていた彼女らは、どこに消えたのだろう。
「初めて君を見た時、魚のようだと思った。君は僕の観賞魚だ。僕に飼われてしまいなさい」
 不意に、痛々しい思いが胸に湧いた。この人はこうやって、ずっと女の人を飼ってきたのだろうか。
「……女の人がいないと生きていけないの?」
「何の話かな」
 手首に指が食い込んで痛い。
「女の人が必要だから、拾ってくるんでしょ」
「違うね、『彼女らが』、僕を必要とするんだ」
「――嘘だって分かってるくせに」
 指が静かに手首を離れて、首の周りに巻きついた。骨ばった手だった。
「口を閉じなさい」
 あたしの口は止まらなかった。
「あなたの観賞魚にはなれないよ」
 なってあげられたらどんなに楽だったろう。黒笑さんをすきだと思えたら。黒笑さんの傍にいたいと思えたら。でも違う。あたしは処女を捨てたいと望んだ、そしてこの人がそれをかなえてくれた、結局のところ、あたしはこの人を利用したに過ぎないのだ。
「もう一度言うよ。僕のものになりなさい」
 黒笑さんの手に力がこもった。殺される。そう思ったら、突然史子の細い目が浮かんだ。千葉ちゃん、傷つかないでね。史子の言葉。そうだ、ここで起こる全てのことは、あたしの責任。
「あたしの処女をもらってくれてありがとう――そのことは感謝してる。だけど、あたしはあなたのものにはなれない」
 あたしは目を閉じた。薄く涙が流れた。あたしはここで死ぬんだな。嘘でもいいから、あなたのものになる、って言えばよかったのかな。黒笑さんごめんね、素直な女の子じゃなくて。おとうさん、おかあさん、おにいちゃん、さようなら。ここで何があったか、みんなには永久に分からないだろう。
 首に回った指から、ふっと力が抜けた。あたしは目を開けた。見下ろす黒笑さんは、薄く笑っていた。
「みんなみんな、いなくなる。そうして何も残らない」
「うん……」
 黒笑さんは組み伏す姿勢を解いて、ベッドの端に腰掛けた。身を起こしたあたしから見える黒笑さんの後ろ姿は、頼りなく寂しそうに見えた。
 あたしはそっと手を伸ばして、黒笑さんの肩に触れた。あたしから黒笑さんへの、初めての接触だった。黒笑さんは痛みを感じたようにびくっと体を固くした。
 あたしは黒笑さんの横に回って、その唇に短くキスした。黒笑さんはゆっくりとあたしに目を向け、物問いたげに見た。
「お礼。こんなことしかできない。ごめんなさい。どうもありがとう。さようなら」
 あたしはベッドから立ち上がった。黒笑さんは動かなかった。あたしは階段を下り、リビングに立った。赤く染まり、しわくちゃにまるめられた白いシーツが、階段の脇にうずくまっていた。その脇を突っ切って、あたしは部屋の外に出た。そしてもう、振り返らなかった。

 家の前でタクシーを降りると、玄関の前におにいちゃんが仁王立ちに立っていた。降り立ったあたしを見ておにいちゃんはずんずん近寄ってきた。殴られる、そう思って体を固くし目を瞑った瞬間、思いがけず、あたしはぎゅうっと強く抱きしめられていた。初めて。初めてのおにいちゃんの抱擁。
「高校生が朝帰りなんかすんじゃねえ!」
 おにいちゃんの力強い腕の中で、あたしは胸の奥がきゅうっとして、泣きたくなった。
「親父もお袋もさっきまで待ってたんだぞ。何してたんだ、ちゃんと謝れよ!」
 あたしが昨夜何をしてたか、ああ、誰にも分からないだろう。
 昨日までのあたしがずっと遠くに見える。おにいちゃんしか見えていなかったあたし。撥ねつけられても、絶望しても、それでもおにいちゃんに執着していたあたし。幼かったあたし。
 だけどもう、あたしはあの男の人を知ってしまった。あたしのヴァージンをもらってくれた男の人。いつもいつも女の人を必要として、なのにいつもいつも独りで生きている男の人。可哀相な人。
 おにいちゃん以外の男の人に、心を動かされたのは、初めてだった。
「おにいちゃん」
 それ以上の言葉は見つからなかった。昨日までのあたしの人生のすべて。日常のすべて。それは遠く懐かしくあたしを呼ぶけれど、もう本当にはそこへは行けない。
 さようなら、おにいちゃん。おにいちゃんの抱擁はあたたかいね。それがあたしとおにいちゃんの距離なんだね。
 あの男の人の抱擁は、もっと濃厚で、お酒に酔わすように熱く、突き刺さるように痛かった。あたしの体がその全部を覚えている。
 史子、あたしは傷つかなかったよ。褒めてくれる?「よかったね、千葉ちゃん」といつもの教科書を読むような調子で、淡々と言ってくれる?
「おにいちゃん」
 もう一度呼んだ。もうこれで最後。あたしとおにいちゃんは、ただの兄と妹になる。
 そう思ったら、全然そんな気はなかったのに、すべてを洗い流すように、涙が静かに流れた。



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