短編 蝶の針

  

 クラブ音楽は体にうるさく、空気は煙草の煙で充満して、アルコールを重ねても重ねても酔わない。話題は流行りの音楽と流行りの服と猥雑なセックスの繰り返しで、時間がどんどん停滞してだれてくる。絵美子が終電で帰るというので便乗して店を出たものの、本音はまだ家になんか帰りたくなくて、ホームの違う絵美子と別れた後、結局目の前で終電の扉が閉まるのを冷静に見る。
 おとうさんの苦い顔が目に浮かぶ。綾子のようなふしだらな娘はいらんと言っておいたのに、お前も結局は同じだ、と。おとうさんは口ではそうは言わない。苦虫を噛み潰したかのように、腹の中に飲み込んで、独り書斎の中に篭るのだ。
 駅を後にし、ふらふら歩き出す。始電で帰るか。それにしても時間が余る。さっきまで飲んでたクラブに戻ればまだ仲間は何人かいるのだろうけど、あいつらと一緒にいるのもも飽きた。どっか新しいとこ――でも、独りだとあんまりよく知らない……。ぼんやりしていると、急に腕を取られて後ろに引き戻された。驚いて振り向くと、見知らぬ男が人懐こい笑みを向けている。
「赤信号だよ」
「ああ……酔っ払ってたみたい。どうもありがとう」
 ほんとは酔っ払ってはいないんだけど、適当に、話を切り上げるために。
 男に片手を上げてお礼をし、またふらふらとあてどもなく夜の街を歩き出すと、左手の手首を握って引き戻された。
「なんだか危なっかしいんだよね。気になってさ。もしよかったら、一軒付き合わない?ご馳走してあげるけど」
 振り切って通り過ぎればいい。真夜中のナンパ。知りもしない初対面の男だ。ついて行くことはない。そう思うのだけれど、男の眉間にちいさな傷があって、それが何だか気になった。綾子さん。わたしがつけた、眉間のちいさな傷。あれは消えたんだったか、それとも残ってしまったんだったろうか。
 男が綾子さんを思い出させるから、警戒が緩んだ。それに、どこに行くあてもないんだし。
 「いいよ。どこに連れてってくれるの」
 わたしは男の方に向き直って、唇の端を上げた。
 
「ここでいいかな」
 男は、変に証明の暗い、バカに店員の明るい、エイジアン諷多国籍料理(というより無国籍料理と言った方が近いような)のお店に入った。店員に案内されて、編んだ竹や紗の布やざらりとした和紙なんかで囲まれて個室のようになった席に着くと、店員はメニューを置いて立ち去った。
「何か食べる?」
「ううん、お腹一杯。それよりもう少し飲みたい」
「そう、じゃあ適当に頼んでいいかな?」
「任せる」
 男は店員を呼び、スパークリングワインのボトルを一本と、フルーツを少し頼んだ。
 やがてワインとフルーツがサーブされると、男は細長く今にも割れそうなほどに繊細に薄いグラスにワインを注ぎ、わたしたちは軽く縁を合わせ乾杯した。煌きのようなうつくしい音がした。
 夏という季節のせいか、すでに飲んでいたせいか、ふたりともいい加減くだけて気安かった。
「学生?」
と訊かれたので、そう、と答えた。
 男はサラリーマンだと言った。仕事で遅くなって、終電を逃したのだという。酔っ払った頭に引っかかったのは山田という苗字だけで、名前はどこかへ行ってしまった。どこにでもある、コードネイム。
「何歳?」
「十八」
「じゃあ僕と十違うんだ。僕は二十八だから」
 探り合うような、序盤の会話。
「名前は?」
「綾子」
「ふーん、じゃあ、綾ちゃんて呼んでもいい?」
「うん」
 滑らかに、嘘の名前が口から出た。呼ばなくなって久しい名前だったのに、その滑らかさに自分でも驚く。
 綾子さん。綾子さんがどんなにやさしかったかも、そしてどんなに残酷だったかも、名前と一緒に甦る。わたしは綾子さんを愛していた?それとも綾子さんを憎んでいた?スパークリングワインのぷつぷついう刺激を舌に受ける。頭の中も、ぷつぷつと弾けて何も分からなくなりそう。
 綾ちゃん。男が呼ぶ。ああ、あの頃の自分に帰っていくみたい。綾子さん。わたしが呼ぶ。なぁに。綾子さんが答える。綾子さんはいつもゆったりと、不幸せなことなんて何もないかのように生きていた。

「初めまして綾子さん。この子が香純です。まだまだ子どもで至らないことばかりですけれども、いろいろと教えてやってください」
 おかあさんのスカートの陰から押しやられた子ども。それがわたしだった。綾子さんとの初めての対面。
 まったくまだまだ子どもだった。わたしはその時、小学二年生だったのだ。姉に当たる綾子さんはすでに二十二歳、わたしよりおかあさんの方が年が近かった。
 綾子さんはふんわりと笑った。
「はぁい。よろしく」
 柔らかい白い花が咲くようだった。この人が自分のおねえさんなのだとはどうしても思えなくて、そう、まるで舞台の上にいる人を舞台袖から厚地のカーテンの陰から口をぽかんと開いて見入っているように、同じ世界の人間だとは思えないのだった。
 綾子さんはおとうさんの先妻さんの子だ。わたしは後妻であるおかあさんの連れ子である。であるが、ややこしいことに、わたしと綾子さんは、半分だけ血が繋がっている。つまり、わたしたちはおとうさんがおなじなのであり、わたしのおかあさんはおとうさんの囲っていた妾だったのだった。その年早く、先妻さんが亡くなり、その後におかあさんが入ったのである。わたしはそのことをおかあさんが亡くなるまで知らなかった。綾子さんがどんな気持ちでわたしとおかあさんを迎えたか、今となっては知りようもない。

「どこでつけたの、その傷」
 わたしは手を伸ばして、男の傷を触った。そんななれなれしさも、酔いに紛れて平気になっていた。
「さあ。どこだったかな。記憶にない。子どもの頃かもしれない。子どもって、思いがけないところにしょっちゅう傷作ってるでしょ」
 男がわたしの指を握ったので、わたしはするりと引き抜いた。
「わたし、つけてやったことあるよ。他人に。石投げた。まだ小学生の頃だった」
 男は引き抜かれた指を今度は五本まとめて、わたしの頬に手を回す。
「悪いやつだなあ。誰に?どうして?」
「ずきなひとに。すきだったから」
 わたしはうそぶき、首をすくめるようにして男の手から逃げた。
「それ、愛情表現?怖いなあ」
 男はわたしを手で追うのを一休みし、グラスを持ち上げてワインを一口飲み込んだ。
「愛情と憎悪は裏表」
 軽口を叩くように返す。そうだっけ?と男が笑う。
 綾子さん。右の眉の付け根辺りについたちいさな傷は、しばらく消えなかった。わたしがつけた傷。綾子さんの不思議そうな顔。今でも思い出せる。
 
 それは、綾子さんの「世界」を垣間見たのが始まりだった。
 わたしは転校したてで、毎日とぼとぼと学校に通っては、とぼとぼと家に帰るのが決まりだった。寄り道しようにも道を逸れては家に帰れなくなりそうで怖かったし、遊びに誘ってくれる友達もいなかった。おとうさんは町の有力者で、妾を後妻に入れたというのは町の暗黙の了解、そのような気配は子どもにも伝わるもので、声をかけてきてくれるようなクラスメイトはいなかった。わたしは子どもの世界で外れ者だった。
 だからある日、学校の帰り道に綾子さんの後ろ姿を見かけた時、わたしは一種ほっとして、それから多少なりとも知っている人への甘えにも似た気持ちが心を占めて、わたしは綾子さんの後を追いかけていった。一緒に帰るつもりで。
 綾子さんは少しの迷いも泣く道を選び、そのうち人気のない寂しい地域に入っていってしまった。わたしは段々後悔し始めた。
 綾子さんのあまり芳しくない評判が頭に浮かぶ。綾子さんは働いておらず、なのにあまり家にはいなかった。いつも化粧気のない顔に木綿のレースのワンピースを着て、どこかへふらりと行ってはふらりと帰ってきた。わたしには綾子さんが何をしているのか分からなかったが、おとうさんには分かっているようだった。綾子さんの行為はおとうさんの怒りの元となり、おとうさんの怒鳴る声が家中に響く夜も度々だった。そんな時、おとうさんをなだめ綾子さんをとりなすのはおかあさんの役目で、当の綾子さんはわたしの部屋にふらりと入ってきてわたしの頭を撫で、
「おとうさんったら大声出して、怖いよねえ」
とちいさく笑った。それは自分の行為をまったく棚に上げた態度であったけれど、わたしは綾子さんと何か秘密を分け合っているような気分になり、自分も一段引き上げられて大人になったような気がして、どきどきする時間だった。
 声をかけよう。一緒に帰ろう、って。そう思った時、綾子さんは、ちいさなお稲荷さんの脇の、ちいさな公園に足を踏み入れた。そこが綾子さんの目的地だった。
 人気ない公園だった。あまり子どもも遊びに来ないのだろう、遊具は錆び、何とはなしにじめついた地面にはコケが生えていた。
 綾子さん。あ、の形に口を開けた時、人に気づいた。公園の中に、男の人が独り立っていた。綾子さんはゆっくりと男の人に近づいていった。
 手の届く距離になった時、綾子さんは男の人の越の周りに柔らかく手を回し、男の人はぎこちなく綾子さんの背中に手を回した。綾子さんはいつのも木綿のワンピースで、男の人はジャージのようなスゥエットのような、なんとなくだらしない格好をしていた。
 綾子さんの手が滑らかに動き、男の人のズボンを引き下げた。その時は分からなかったけれど、わたしは初めて男の人の勃起したペニスを見た。子ども心に、異様な赤黒い醜怪さを感じた。綾子さんは男の人の手を取って、自分のスカートの裾に導いた。男の人はおずおずとスカートをたくし上げ、躊躇するかのように綾子さんの下着の周辺を撫でた。綾子さんはまた男の人の手を取った。そしてそのまま下着の中に手を差し込み、すぅっと足なりに引き下げていった。
 綾子さんはシーソーに腰掛けた。片脚を地面に垂らし、もう片脚の膝を折って、両の太腿を大きく広げた。さぁっと風が吹き、綾子さんのスカートが煽られた。綾子さんの何もつけない下半身が露わになった。男の人は、よろよろとシーソーに近づくと地面に膝をつき、手でペニスをしごきだした。
 その時、綾子さんと目が合った。綾子さんはわたしの姿を認めてにっこりと笑い、おいでおいでをして見せた。わたしは二人の何のことだか分からない行為のそれでも分かる隠微な匂いと、常と全く変わらない綾子さんの笑顔が怖くて、二、三歩後ずさった後、全速力で駆け去ってしまった。
 あのシーソーの錆びて剥げた塗料の青い色、じめじめした地面を覆うゼニゴケのざらついた感じ、綾子さんのスカートの奥の暗がりと笑みの形をした唇の赤の鮮やかさ、忘れようとしても忘れられない。
 どこをどうやって家まで帰り着いたのか、わたしは今でも分からない。
 それからしばらくしてのことだった。綾子さんがわたしを誘ったのだった。
「香純ちゃん。一緒に遊ぼう。面白いもの、見せてあげる」
 あの時見てはいけないものを見たと言うのに、わたしは本当に馬鹿で子どもで、疑うことを知らなかった。わたしに「疑い」や「用心深さ」を教えたのは、綾子さんだ。あの時、初めて綾子さんが自分に誘いかけてくれたことが嬉しくて、わたしは浮き浮きしながら綾子さんの後について行った。着いたのは建築途中で放棄されたような草ぼうぼうの空き地だった。小学校高学年かせいぜい中学生、くらいの男の子たちが、五、六人待っていた。
「連れてきたわよ」
 綾子さんが朗らかに言った。それを合図としたかのように、男の子たちはにやにやしながらわたしをぐるりと取り巻いた。わたしは何が起こるのか、分からなかった。
「脱がしていいのよ」
 綾子さんがやさしく許可した。脱がす?ことここに至っても、わたしはまだ綾子さんを信じていた。
 けれども男の子たちは、わたしの腕や足を乱暴に捕まえて、地べたに転がし、押さえつけた。そしてわたしのスカートを引っ張り上げ、下着を脱がそうとした。小学二年生の幼い性器が見たい訳ではなかったろう。おそらくそれは、猫が兎をいたぶるように、強いものが弱いものをなぶる野蛮な悦びだったに違いない。
 わたしは声を上げて泣き叫んだ。おかあさんの名を呼んだ。けれど、そんなもの何の役に立つ筈もなかった。わたしは自力でなんとかしなければならなかった。
 綾子さんはわたしに「無力」と「弱者の抵抗」も教えた。
 ばたついた。引っ掻いた。蹴り上げた。とにかく、自分を地面に押し付けるたくさんの手を、引き毟らなければならなかった。必死でもがく手の下に、ごつごつした大きな石があった。夢中でそれを掴んだ。上体を押さえていた男の子たちめがけて石を振り回すと、彼らはひるんで手を放した。上体が自由になると、わたしはもがきながらも起き直り、綾子さんめがけて石を投げつけた。がっ。鈍い音を立てて石は綾子さんの眉間に当たり、傷跡から血が流れ伝った。男の子たちはそれを見てざわめき経ち、思わず手を緩めた。わたしはその隙に急いで足を引っ込めてめくりあがっていたスカートを直し、しゃくりあげ、洟をすすった。綾子さんは流れる血をぬぐいもせず、わたしを不思議そうに見ていたが、
「みんな、もう帰っていいわよ」
と解散を命じた。それでも男の子たちがもじもじしていると、
「帰るの?帰らないの?」
と、首を傾げた。その声には軽い苛立ちが混じっていた。それがどういうことなのか男の子たちはよく知っていたのだろう、彼らは一斉に走り去った。彼らがいなくなると、綾子さんはわたしに手を差し伸べて寄こした
「はい」
 わたしは一瞬どうしたらいいか分からなかった。
「帰りましょう、香純ちゃん」
 わたしは曖昧に綾子さんの手を取った。二人で手を繋いで家路に着いた。赤い日が差していた。冷たい風が吹いていた。
「香純ちゃんは強い子ね」
 ぽつりと綾子さんが言った。綾子さんの手は肉が薄く、冷たくしっとりしていた。
 
 男が彼氏はいるの、と訊く。お約束の問い。気がつくとわたしは、綾子さんのことを彼氏だと話していた。お酒のせいかもしれない。変に饒舌になっていた。
「十五歳年上でね」
「すごい、年の差カップルだね」
「でも、全然そんな気しなかったな。浮世離れしてて、まるで大人のようじゃなくて。近縁の人で、わたしがまだ子どもの頃からずっと、一緒にいた」
 ふうん、と男は器からライチをつまむ。
「それが男女の仲になるのって、難しかったんじゃないの」
「そうだな……おかあさんが亡くなってから、なんとなくそんな風になったみたい」
「おかあさん、亡くなったんだ。ごめんね、悪いこと訊いた」
「いいの、別に」
 わたしはレッドグローブの房から一粒もぎ取って、歯の先に当てた。
 おかあさんは、儚い、という言葉がぴったりくるように、消えて無くなるように死んでしまった。おとうさんの家に入って二年目のことだ。わたしには分からない様々な心労が重なったのだろう、病みついて、ろうそくの火が消えるように死んでいった。恐らくはその原因となった三人、おとうさんとわたしと綾子さんを残して。
 おかあさんのお葬式は盛大に行われた。物静かだったおかあさんの人柄とは正反対に、まるで華やかなお祭りのように。お葬式が終わり、打って変わってがらりとした空虚なおかあさんの祭壇の前で、わたしがぽつんと立っていると、綾子さんが隣に来てそっと手を握った。
「ふたりになっちゃったね」
 綾子さんは言った。その時わたしはもう小学四年生になっていたけれども、おかあさんを亡くした空虚と心もとなさと自失の中で、その言葉は心に沁みた。わたしは声を出さずに長いこと泣いた。祭壇の前の場違いにふくよかな金と紫の座布団に、涙は落ちて滲みこんでいった。綾子さんはそれ以上何も言わなかった。ただ、わたしが泣き止むまで、ずっと手を握っていてくれた。
 ふたりになっちゃったね、そう綾子さんは言った筈だった。子どもだったわたしは、それを信じた。独りではないのだと。綾子さんがいるのだと。なのに、綾子さんは。
「で?もうプロポーズはされたの?彼氏もいい年でしょ?」
 男が手を伸ばして、わたしのグラスにワインを注ぐ。
「ううん――六年前に行方不明になったから」
 わたしはワインを一口舐めた。男は手を止めて、まじまじとわたしを見た。口元が笑っている。
「何それ。失踪?」
「うん。家を出たっきり、ふっと」
 いつもの通りだった。綾子さんはふらりと家を出てどこかへ行った。けれどもその日の、綾子さんは、それっきり戻ってこなかった。警察が呼ばれ、大掛かりな捜索が行われた。それから半年、綾子さんは見つからなかった。捜索は打ち切られた。その後、あちこちの交番には行方不明人として綾子さんの写真の入ったビラが貼られていた。けれども何の情報も入ってはこなかった。おとうさんは輪をかけて無口で頑固になった。わたしへの束縛も厳しくなったが、穴だらけだった。わたしは度々家を抜け出して夜の街に出かけた。本当はおとうさんは空気の抜けたように無気力になったのだろう。おかあさんも綾子さんもいなくなった家は、おとうさんにとってもわたしにとっても、空っぽなのだった。
 わたしはまだここに存在する。けれど今、こうしてわたしは見ず知らずの男とお酒を飲んでおり、これを最後にふらりと消えてしまわないと、誰が言えるだろう?
「それで、ずっと待ってるの?」
 男は二つ目のライチに手を伸ばした。
「分かんない」
 わたしは片手で頬づえをつき、視線を泳がせた。妙な暗い店の中。変なインド音楽が小さく流れている。漂うのは白檀のお香の匂いか。暗さに目が慣れて、あちこちの個室席の紗の布や和紙に映る客の姿が見えた。恐らくみんな男女二人連れ。この店はカップルだらけなのだ、きっと。わたしとこの男も、傍から見ればカップルのように見えるのだろうか。
「いつまで待ったらいいのかしら……」
 いなくなる数日前、綾子さんはふと思い出したように、
「香純ちゃんのおかあさんて、すきだったわ」
と言った。やさしい人だったよね、と懐かしそうに。それは何かの前兆だったのかもしれない。周りが騒然と綾子さんの捜索に駆けずり回っている間、わたしは馬鹿のようにぼんやりとそんなことを思っていた。綾子さんはきっともう戻らない。ふい、とお稲荷さんの脇の小さな公園に姿を消すように、この世から姿を消したのだと思う。あまりにも軽やかすぎて、見事だった。綾子さんがいなくなって、わたしの周りには、もう誰もいない。
「待たない、っていう選択肢もありなんじゃない?」
 男が首を傾げて、わたしの顔を覗き込んだ。酔っているらしい。目の周りをピンク色にしてわたしを見る。
「どういうこと?」
 わたしは眉根を寄せて首を傾げた。
「男は他にもたくさんいる、ってこと。どうかな」
 男はテーブル越しに手を伸ばして、わたしの両手を握った。
「一晩、一緒にいたいな。駄目?」
 綾子さんの笑顔が脳裏をよぎった。香純ちゃん、おいで、香純ちゃん。なのに、わたしは男の手から自分の手を引き抜けなかった――。

 男の後をついて店を出た。店員たちの、やたら大きく明るい声の「ありがとうございました!」を後に残して。
 今晩一晩一緒にいる。それって、朝まで飲み明かそうとか、お手々繋いでオヤスミしようとか、そういうことじゃなくて、セックスしよう、ってことだよね。男の後について歩きながら、わたしはまるで現実感がないのだった。
 わたしは処女だった。セックスを必要としたことがなかった。綾子さんがいたから。
(ここはわたしと香純ちゃんだけの場所。男になんか、触らせては駄目よ)
 綾子さんはいつもやさしい笑みを浮かべながら、わたしに命じた。わたしは泣きながら綾子さんに服従した。幼いわたしの、綾子さんは絶対だった。あの日唐突に消えるまで。
 綾子さんがいなくなって、夜遊びを覚えた。中学生から高校生にかけては、街に、まるで何の目的もなく仲間とたむろし、大学生になってからは地下の暗いクラブでむせ返る副流煙のなかでくだらない酒を飲んだ。
 初めて朝帰りしたのは中学二年の夏、おとうさんに、右の平手で左頬を張り倒された。口の中が切れて口の中に鉄の味が広がった。わたしは玄関の三和土に血の混じった唾の泡を吐き出した。おとうさんは絶望的な目をしていた。
「お前は綾子と同じだ。ふしだらな女だ」
 おとうさんは多分知らなかっただろう。わたしが処女であること、そして、綾子さんもまた処女であったということ。たくさんの男をたぶらかした綾子さんも、中学生の身で朝帰りをしたわたしも、おとうさんにとっては男とふしだらな行為を繰り返す、ヴァンプに違いなかった。おとうさんは古い頑なな人だったから。
 綾子さんは男の人を徹底的に服従させた。けれど、指一本自分には触らせなかった。綾子さんは自分のうつくしさと蠱惑的な魅力を十分知っており、その前で男の人たちが身悶えるのを薄笑いを浮かべながら見ていた。楽しくものないのに。わたしがクラブで飲んでもちっとも楽しくないように。
 セックスに興味なんてなかった。けれど、わたしはこの人について行こうとしている。なぜ?退屈だから?それともわたしは――綾子さんに、逆らおうとし始めている?
 しばらく歩いた坂の途中で、男はわたしを振り返って、
「何か飲み物を買っていこう」
とコンビニに入っていった。男はウーロン茶のちいさなペットボトルを買い、わたしはジャスミン茶を選んだ。男はまとめて簡単に会計を済ますと、迷いなくすたすたと歩いた。
 一軒目のラブホテルは満員で断られた。男は心あたりのラブホテルが多いらしくて、あちこちトライ・アンド・エラーで巡ったが、どこもあいにくの満員で、やっと空室のあったラブホテルは、古びた茶色の外壁で平屋建てで、どことなく奥床しく自己主張しない感じの、つまりは流行らない感じのホテルだった。
 男はフロントから鍵を受け取って、すたすたと廊下を歩いていった。わたしはその後をついて行った。そして割り当てられた部屋に行き着き、男が鍵を開けた。
 ラブホテルは初めてではない。もちろん、セックスしに入ったのではない。仲間同士五、六人、冷やかし半分にラオケをしに入ったのだ。「あ、これ入ってんだ」とか、「この曲ないわ」とか機械をいじりながら、みんな歌ったり、はしゃいでダブルベッドで跳ねてみたり、浴室でシャワーのかけっこをしてみたり、いつ頃だったろう、高校一年くらいのことだったろうか。
 そんな昔のことに比べても、このホテルのこの部屋は、古臭かった。トイレにお風呂、洗面所、小さいクローゼットに小型冷蔵庫。隅っこに小さいソファとローテーブルのセット、向かい合うように小さなテレビ(ブラウン管?)。部屋の一番奥にダブルベッド、昔流行ったような、丸いやつだった。
 男はクローゼットから寝巻きを取り、手慣れた様子でネクタイを緩め、着替え始めて、わたしにも、はい、と寝巻きを放って寄越した。前で二つ袷になって紐で留めるようになっているやつだった。
「なんか古臭いホテルだな。ごめんね」
と男は言った。わたしはそれを無視して、
「いろんなラブホテル、知ってるのね」
と言った。
「昔の彼女とね、いろいろ試してみたんだよ。どんなラブホテルがあるのかなってね」
 男は動揺するでもなく簡単にそう言い、わたしは自分の発言が幼稚だったような気がして、赤くなるのを見咎められないように、そっぽを向いて着替え始めた。
 ブラを取りかけて、ふと思いついて訊いた。
「その彼女さんって、ブラジャー取る人だった?」
 男はペットボトルのウーロン茶を傾けていたが口を離して、
「彼女は全部取る人だったよ。ブラも、ショーツも。裸で僕を待っていた。僕もいつも全部脱いでいたよ」
「じゃあ、着けとくわ。全部。ブラも、ショーツも。うまく脱がしてね」
 男は突然弾けるように笑い、人好きのする人懐っこい顔になった。
「分かった。君が気づかないうちにあっという間に脱がしてやるから」
 そして、ウーロン茶のふたを閉めると、
「おいで。寝よう」
とわたしの手を取った。
 二人でダブルベッドの縁に腰をかけて、キスをした。男の唇は、柔らかくわたしの唇を包み込み、わたしはよくできたパンナコッタに唇が触れる瞬間を思った。舌が慣れたプロセスで唇の間に滑り込む。舌と舌が絡むと、幼い頃食べたグミを思い出した。変な、ぺらぺらの、コカコーラの壜の形をしたちいさなグミ。まがいものなのに、まがいものだからこそ、おいしいもの。齧ったら痛いかしら。わたしがそっと男の舌に歯を立てると、男はそれを積極性の表れと思ったんだろうか、わたしの舌にも軽く歯を当てた。
 男はわたしの肩に手をかけ、そっと押し倒した。その瞬間、着ていた筈の寝巻きが、肩からするりと滑り落とされていることに気づいた。同時に、ブラの紐も。わたしの背中がベッドのマットに着いた時、わたしの上半身は裸になっていた。
「うまいのね」
「そう?うまく脱がしたでしょう?」
 男は得意そうに笑った。
 ゆっくりと、頬や目蓋、おでこ、首筋にキスをしていく。柔らかい唇で、舐めるように、派手な音をさせて。音は快感を高めるものなのだろうか。むしろ、オーディエンスのためのものなんじゃないだろうか。ふとそんなことを思い、興が冷めた。ここにはわたしと男、二人しかいないのに。AVじゃ、あるまいし。
 男は続けて、流れる乳房を手の平で弄ぶように撫で、乳首を舌で転がした。変な感触だ。芯に痛みがあり疼くけれどももどかしく物足りない。
「そこじゃ、ないの」
 わたしは首を振る。
「ここ?」
 男は探るような目でわたしを見て、手の平を胸から下腹部へとゆっくり撫で下ろした。そのまま親指でひっかけて、わたしのショーツを引きおろす。
 男はわたしの足を肩に担ぎ上げて、太ももの内側からわたしの中心部へ、派手な音のキスを鳴らし、グミの感触の舌を這わせた。違う。そうじゃない。もっとわたしを刺し貫くものが欲しい。
「違う。入れてよ」
 男はいぶかしげな目でわたしの目を見た。わたしの目は苛立っていたと思う。苛立つと同時に、恐らく深く絶望していた。だって、わたしを刺し貫くものは、それはただひとつ――
「入れるよ」
 男はわたしの中に指を沈め、角度を変えながら、入れ、出し、愛撫を加えた。太く、ざらざらした指だった。何も感じない。感じることができない。駄目なのだ、こんな鈍感な牛蒡みたいな棒切れでは、何も。
「駄目なの」
 わたしは手を伸ばして男のものを掴んだ。硬く、勃ち上がりかけている。
「こっち?」
 男は指を抜いてわたしの手ごと自分のものを掴んだ。わたしはうなずく。その、太く硬い男の象徴で、わたしを刺し貫いて押し潰し拉げて目茶目茶にしてくれたら、何もかも取り返しがつかないくらいにずたずたにしてくれたら、そう、すべて新しく脱ぎ去ることができるのかもしれないのに。
「すきなんだな」
 男はおそらく自分でも知らず下卑た表情をし、わたしは興ざめる。下らないことは言わなくていい、ただ突き立ててくれればいい、わたしはそれしか望まない。
 男は膝を立て、わたしの股の間に入り、わたしの中心に自らのものをあてがって、押し殺したような声を出した。
「じゃあ、入れるよ……!」
 痛い!
 男が重心をわたしの内部に押し込めると同時に、体の深奥を切り裂かれるような、激烈な痛みが走った。予想していたよりも、はるかに強い、破瓜の痛み。
 わたしは歯を食いしばってこらえる。男の杭を、突き立てられる痛みを、すべて自らのものとしろ!自らのものとして、処女を、綾子さんを、脱ぎ捨てろ!
(あらあらいけない子ね、香純ちゃん。ここはわたしと香純ちゃんだけの場所。男になんか触らせては駄目よ。そう言ったのに)
 唐突に甦る、綾子さんの細く冷たい「ピン」。途端に、わたしの中心に突き立っている筈の、男の太く硬く仄温かい杭は、存在を消した。
(約束したでしょう。ねえ、香純ちゃん)
 綾子さんの声は夢ともうつつとも分からなかった。
(知らない、約束なんか、綾子さんとの約束なんか、知らない)
 その夢うつつの中で、わたしはいやいやをする。
(さあ香純ちゃん、こっちにおいで)
 白い手が現れて、わたしの手首を掴む。ああ、この冷たさ、この感触、綾子さんの手だ。
 わたしはいつの間にか小学四年生のわたしになっていた。前にいるのは二十四歳の綾子さん。そうだ、おかあさんが亡くなってから、綾子さんは、とみにわたしにやさしくなった。
「いい、香純ちゃん。これはね、わたしとあなただけの遊び。おとうさんにも、男の子たちにも、誰にも内緒。二人の秘密よ」
 綾子さんの手は、一匹の蝶を捕らえている。命のない、防腐剤を施された、胴の真ん中にピンを刺された蝶。
「綾子さん。おとうさんに見つかるよ。やめようよ」
「平気よ。おとうさんは気づきもしないわよ。おとうさんはね、珍しい綺麗な蝶を捕まえて、こうやってピンで留めておくまでがすきなの。留めてしまった蝶なんか、もう見向きもしないのよ」
 わたしたちの遊びの舞台は、おとうさんの収蔵室だった。おとうさんがコレクションしている蝶の陳列ケースが、たくさん並んだ部屋。綾子さんはそのケースのガラス蓋を外し、その細い指で、そのさらに細い虫ピンの頭をつまみ、蝶を取り出すのだった。
「男はね、女にこういうことをするのよ。女をピンで突き刺して……」
 綾子さんは収蔵室の床にピンで刺された蝶を留めて、おもむろに羽を一枚、また一枚ともぎ取り、
「手足をもいで……」
 模様鮮やかな羽を床に並べ替えては崩し、また並べ替えては崩し、
「その数や綺麗さを競ってね……」
 その蝶の羽の万華鏡に飽きると、最後に、その命のない蝶の胴体からピンを抜いて、
「こうやって全部踏みにじるの」
 後には、ぼろぼろになった蝶の残骸だけが残る。
「わたしのおかあさんも、香純ちゃんのおかあさんも、みんなそうだったのよ」
 綾子さんはそんな毒々しい行為とはうらはらに穏やかに言葉を続け、
「だからね、香純ちゃん。わたしたちはそういう女にならないようにしましょう。男なんかに気を許しちゃ駄目。気を許していいのはわたしだけ。いいよね、これはわたしとあなたの約束」
 そんな遊びを――いや、そんな儀式を――わたしたちは幾度繰り返しただろう。九歳と二十四歳の、穢れなき――いや、罪深い――悪戯。
 蝶の儀式にきまって伴われていたのは、わたしと綾子さんの擬似性行為だった。
 蝶の羽をむしり、並べ替えては崩し、並べ替えては崩しした、その鱗粉まみれの指で、綾子さんはわたしの頬に柔らかく触る。その指にやさしく力を入れて、わたしの顔を上向かす。綾子さんの顔がゆっくりと近づき、唇と唇の距離があと数ミリとなったところで、綾子さんは微かな吐息でこう言った。
「誰にも教えちゃ駄目よ」
 そして、わたしの唇を、食虫植物が無視を絡め取るように、ねっとりと、食べた。獰猛な舌が、わたしの舌をまさぐり、舐めおろし、吸い取った。
 体中が熱く、蕩け出すようで、背筋に痺れが走り、腰の辺りが疼いて、混乱した。キスとは唇と唇を軽く重ね合わすもの。そう思っていた小学生の子どもだ。綾子さんが唇と舌を解放すると、わたしはいつも尻もちをついて震えていた。
 そして綾子さんは、わたしにあの細い「ピン」を刺した。男の杭を受ければ割れて消えるかと思ったのにそうではないと思い知らされた、今も抜け去らない、刺さったまんまの、綾子さんの細い「ピン」。
「香純ちゃんはね、わたしの蝶。わたしに刺されて、綺麗に羽ばたくの」
 次に来るものを予期して、わたしは硬直する。綾子さんがわたしのスカートの中に手を入れる。すーっと滑らかに、綾子さんはわたしのショーツを引き下ろす。太ももをあやこさんの手の平が撫で、さすりあげていく。その頂点に、綾子さんの細い「ピン」が、冷たく細い中指が、静かに突き刺されていく。
 わたしの内部は熱く、綾子さんの冷たい指がくっきりと入り込んでくるのが分かる。綾子さんの指はわたしの内壁を自由自在に擦り、刺激し、充血させる。そのたびにわたしの内部はじんじんと熱くなる。じわり、と何か沁み出すものがある。濡れ零れた液なのか、失禁した尿なのか、わたしには分からない。
「いい、覚えておいてね。ここはわたしと香純ちゃんだけの場所。これはわたしと香純ちゃんだけの「ピン」。男になんか、触らせては駄目よ。」
 綾子さんの声を聞きながら泣いた。綾子さんの「ピン」は、あの、男の子たちに取り囲まれた時以上に、わたしに無力を思わせた。
 綾子さんはわたしの涙を柔らかく舐め取った。
「泣かなくていいのよ。香純ちゃんのそばにはわたしがいるからね。香純ちゃんはわたしの蝶なんだからね」
 綾子さんはわたしに「弱さ」を刻み込んだ。綾子さんがいなければ生きていけないと思った。必要とし、必要とされるのは、綾子さん以外にいないと思った。けれど綾子さんは、わたしを独りにして去った――

 どれだけ揺すられていたのかも知らず、次第にぐったりしてきた時、男が上体を起こし、わたしの体も抱き起こした。そして、自分の上に座らせようとした。でも、疲れていたのでうまくいかなかった。わたしはうまく座ることができずに上体が崩れ、男のものはわたしから外れてしまった。男はそれを入れ直して、わたしを支え、下から腰を動かした。わたしは疲れていたので横になりたかった。
 しばらく下から突き上げた後、男はわたしに入れたまま自分が上になって、再び腰を振り始めた。
 何も感じない。単調なセックス。
「気持ちいいの……?」
「うん……気持ちいいよ……」
 男は押し殺したような声で言った。
 そのうち男は、腰をわたしに押し付けるようにして、小刻みに振り始めた。そして、わたしに体全体を押し付け震わすと、体を離した。終わったのだ。
 わたしは疲れていた。男はあらためてわたしを抱き締め、顔といわず体といわず、音を立てながらくちづけして髪を撫でたが、どうでもいい、放っておいて欲しかった。
 わたしはぐったりして、そのままそこで寝たかったが、
「頑張って、シャワー、浴びよう?」
と言う男に抱き起こされて、お風呂場に向かった。その励まし方がうとましく、気味悪かった。
 男はしばらくシャワーの温度調節をして、適温になったそれをわたしにかけた。そして、ボディソープの泡を立ててわたしの体中をくるくると洗い、わたしの性器も念入りに手で撫で、洗った。そしてシャワーで何度も泡を流した。
「ありがとう。先に上がるね」
 男の体を洗う気にはなれず、わたしはそう声をかけてお風呂場を出た。
 バスタオルで体を拭いていると、男もお風呂場から出てきた。そして体を拭きながらベッドの方へ行き、ふと、
「綾ちゃん、前の生理いつだった?」
と訊いた。
「どうして?」
とベッドの方へ歩いて行くと、
「血……」
 男の指し示すベッドのシーツに、鮮血が踊っていた。それは見たこともない程に、あまりにも鮮やかな赤だった。綾子さんの「ピン」に刺された時も出なかったのに、男の杭を打ち込んだ代償は、目も眩むほどの鮮やかな赤だった。
「この間の生理は一週間前」
 今さらの出血に驚く男がうっとうしかった。
「処女だもの。当たり前のことでしょう」
「――処女だったの?」
「そうよ。言わなかったっけ?」
「だって、彼氏がいるって」
「六年前に失踪したって言ったでしょう。その時わたしは何歳だったと思う?十二歳よ」
 疲れていた。寝よう。寝たい。血の染みにバスタオルを敷けば、そう気にはならないだろう。
 わたしがバスタオルを広げかけると、後ろから腕ごと男に抱きしめられた。
「バージンブレイクの相手がこんな男でよかった……?」
 わたしはもがき、男の腕から自由になると、正面から男を見据えて言った。
「そんな感傷的なことを言う男は嫌い」
 男はわたしの言葉など聞いてはいないかのように、またきつくわたしを抱きしめた。
「綾ちゃん、俺たち付き合おうよ」
 わたしはもがいたが、男の力は強かった。
「処女に情が移る男は、もっと嫌いよ」
 男はわたしを肩に担ぎ上げ、ベッドへ移した。そしてその横に横たわり、わたしを抱きしめてはキスを繰り返した。
「これで終わりにしたくない……」
 何度も何度も。
「最初はただのナンパだった。けど、六年前失踪した恋人を待って、処女のままでいた綾ちゃんが、もう忘れられないんだ」
 ロマンティックな物語を勝手に作られても困る。
「そんなきれいな話じゃないのよ。もう疲れた。寝ましょう。もう何も聞きたくない」
 わたしは壁向きに男に背を向け、目を閉じた。眠りは程なく訪れた。
 眠りに入る直前、わたしは綾子さんのことを思った。あの頃綾子さんは何を思ってわたしの相手をしていたのだろう。少しはわたしを愛してくれていたのだろうか、それとも、すべては綾子さんの独り楽しみだったのだろうか。答えはない。誰も答えてはくれない。綾子さんとともに答えは失踪し、わたしは絶望に似た気持ちで眠りの闇に落ちた。

 朝、わたしが目を覚ました時、男はまだ眠っていた。会社がある筈だと思ったけれど、干渉したくなくて、わたしは寝たふりを続けた。
 そのうち男はがばと跳ね起きた。寝過ごしたんだ。わたしは気づかない振りをする。
「うん、うん、俺。あのね、そう、二時間くらいかな、遅れるから。うん。そう言っといて」
 男は携帯に向かって、小さな声で話している。そのうち、シャワーを使う音が聞こえた。
 寝たふりは本当は嫌いで、だけど得意。
 おかあさんが亡くなった頃、独りで寝るのが怖かった。そのまま死んでしまいそうな気がして。けれどおとうさんがいっそう気難しくなって、寝なければ度を越して激しく叱られたから、いつもいつも寝たふりをしていた。
「寝たふりをすればいいのよ。おとうさんなんか簡単よ。振りさえすれば、本当だと思っちゃう人なんだから」
 それなら、綾子さんは、何の振りをしていたのだろうか?
 男がお風呂場から出てきた。衣擦れの音がする。
 このまま行ってくれればいいのに。そう願っていたけど、男はわたしを起こした。
「もう、行くから」
 仕方ないからベッドを降りた。男はわたしを抱きしめてキスした。あいかわらず、柔らかく、そして音をさせて。
「別れたくない」
と男は言う。
「別れましょう」
 わたしはうんざりした気持ちを隠して答える。
 今だけの気持ちだ。名前も過去も嘘だらけ。そんな女と付き合ったら、失望が幾つあっても足りない。
「あなたは今何か錯覚しているの。わたしはあなたの思っているような女じゃない。第一、昨夜会ったばかりの女でしょ。わたしの何も知らないでしょ」
「これから知るよ。それじゃ、いけない?」
「駄目よ」
「電話番号教えて」
「駄目。終わりにしましょ」
「彼氏がもういなくても?帰ってこなくても?」
「うん」
「たまに会うだけでもいいから」
「それでも駄目。昨夜だけにしよう」
「そう……」
 男は目を伏せた。
 ドアの前で男は、わたしをぎゅっと抱いた。そして、長いキスをした。わたしはさせるがままにした。罪の意識かもしれないし、礼儀かもしれなかった。この人を騙したような気がするから。
「じゃあね」
 男は諦めきれない思いを目に込めてわたしを見つめた。
「うん。さよなら」
 わたしは目を逸らさずに受け止めた。
 ドアを開け、見送るわたしの視界の中で、男は廊下の向こうに去って行った。わたしは静かにドアを閉めた。そしてTVをつけ、ソファに座った。画面ではAV女優が泣き声を上げて、ベッドの上で揺すぶられている。わたしはそれを放心したように眺めていた。

 十時のチェックアウトに間に合うようにシャワーを使って、服を見につけ、お化粧をしてホテルを出た。会計は男がしてくれていた。
 ホテルの外はもう真昼のようで、いきなり照りつける日の光が眩しかった。煉瓦の外壁の、ホテルの名前を書いたプレートの横に、犬のシールが四枚貼ってあった。
 駅に向かってカツカツ歩いた。昨夜の傷跡が疼くかと思ったけれどそんなことはなくて、つまるところ、処女も非処女も何の意味もないのだと思った。
 綾子さんの「ピン」に、わたしはまだ繋ぎとめられている。自らを自らで踏みにじり、血を流して、処女を剥ぎ取るように脱ぎ捨てても、生まれ変わることができない。綾子さんはもういないのに、綾子さんの「ピン」が今もわたしを支配する。
 綾子さんは、最後にわたしに「独り」を教えたのかもしれない。自分だけを恋い慕う存在を作り、他を許さず、そして自分だけは鮮やかに消えて見せた。
 綾子さん、わたしはどうやって生きていけばいいのですか。
(男なんかに気を許しちゃ駄目よ)そう繰り返していた綾子さん。彼女は、どんな孤独の中にいたのだろうか。
 日差しが熱かった。

 

(C)2010 Toko Kikuchi .


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