短編 グリコ

  

   じゃんけんぽん グリコ
   じゃんけんぽん パイナップル
   じゃんけんぽん チョコレイト
             ――チョコレイト
 
 二月十三日、放課後の校庭。抜けるような晴天。
 マットを引きずってくる。バーをセットする。もうアップはすませていたけど、温まった体を確かめるように、膝の屈伸をしてみたり、足首を振ってみたりする。軽く助走して踏み切るタイミングを何度か計った後、本格的にジャンプの練習に入る。
 部員十二人の弱小陸上部、三年生の先輩が引退した今、ハイジャンの選手は俺だけだ。俺はひとり、すきなくらい、何度でもバーを跳べる。
(真ちゃん何でバスケ部入んねえのー?)
 一年の初め、高校に入学してすぐの頃、祐介は口を尖らせてそう言った。どの部に入るか話してた時だ。
(高校で本格的にやれるほど、俺うまくねえよ)
 俺はそう答えた。
(陸上面白そうだしさ)
 そうも答えた。
(嘘ばっかしー。真ちゃんうまいじゃんかよー)
 祐介はしばらくごねていた。
(真ちゃんがいねーとつまんねーよ。面白かったじゃん、ふたりで点ばしばし入れてさあ、みんな超ナイスコンビだって言ってたじゃん)
(お前のほうがずっとずっとうまいよ。やれよ、バスケ)
 俺はそう言って、祐介は一週間くらいなーなー真ちゃんーとうるさく言ってたけど、俺がさっさと陸上部に入部届けを出してしまったので、
(ちぇーっ)
と仏頂面をしながらバスケ部に入部した。
 あれからもう二年くらいたつのに祐介は、
(ほんとはバスケやりたいんじゃねーの?)
とか時々言ってくる。
 やりたくない訳じゃない。バスケはすきだ。小四の時から六年間、ずっとプレイしてきた。嫌いな筈がない。
 ただ、なんとなく怖くなった――祐介との距離――家だって同じ団地で、赤ん坊の頃から一緒に遊んで、幼稚園も小学校も中学校も一緒でずっとつるんでて――それが怖くなった。俺たちは親友、そのとおりだ。それ以上でもそれ以下でもない。だから、これ以上一緒にいたらいけないと思った。だから――
 考えを振り払うように走り、跳び、落ちる。マットに沈んで空を見る。
 ハイジャンはすきだ。それも本当だ。ハイジャンはバスケをやめる言い訳なんかじゃない。
 誰にも邪魔されない瞬間。目の前にあるのは空の青さそれだけ。そんな時間を俺にくれるのは、ハイジャンだけだ。でも――。
 マットから青空を見上げて思う。この空のように、自由になりたい。
 祐介は怖がらない。いつもストレートで真っ直ぐに向かってくる。
(真ちゃん、すきだぜ)
 祐介は平気でそう言う。
(ああ、俺もすきだよ)
 俺も軽く受け流す。本当で、だけど嘘の言葉。俺は薄っぺらい本当でコーティングした嘘で本当のことを隠す。
 祐介から離れようとしながら結局は一緒にいる自分。
 臆病で、嘘つきで、本当のことを隠しながらそれを望む自分。
 嘘と本当のがんじがらめ。
 自由になりたい。
 俺は起き上がってスタート地点に戻り、再度助走をつけて跳ぶ。
 ざん。
 マットに沈んだ瞬間、ふいに明日はバレンタインデイだと思い出した。
 バレンタインデイは嫌いだ。女が嬉々としてチョコレートを配りまくるその姿に苛立つ。そんな自分が嫌になる。
 バレンタインデイは隠していた俺の汚い嘘も本当も引っ張り出す。
 バスケがやりたくない訳じゃない。だけどその理由が言えない。
 祐介と一緒にいたくない訳じゃない。だけど、本当の気持ちが言えない。
 何もかもが、嘘で、本当で、俺は祐介の無邪気さを裏切る。嘘も、本当のことも、みんな祐介を、裏切る。
 俺は自由になれない――。
  
 部活を終えて教室にいると、祐介が入ってきた。
「真ちゃーん、今帰りー?」
「おう、もう帰るよ」
 何でもないように俺は答える。
 なんでもない振り、それが俺のつく嘘。その嘘で俺は、自分と祐介を繋ぎ止める。
 祐介は学ランの前を全部開けて、ばたばたあおぎながら歩いてくる。
「あちーなー。体育館暑くてたまんねーよ。真ちゃん、外のクラブはさみいべ?体育館が羨ましくなんない?」
「うるせえ、全然寒くねーよ。一応運動部よ?運動すんだぜ?」
「この二月の寒空でも?」
「当たり前だよ」
「ちぇー。なー、バスケ部いいぜー。真ちゃんなら今からでもばっちしよ?」
「まだ勧誘するつもりかよ。ふざけんなよ、お前のクラブ、補欠だけでも三十人いるじゃんかよ」
 バスケ部は地区大会で何度も優勝するような強いチームだ。その中で一年の時からレギュラーだった祐介は、やっぱりバスケの才能があるんだろう。俺にはそこまでの才能はないと思うし、もしバスケ部に入っていたら、もしかするともっと祐介が遠く感じられたかもしれない。
 そんなところに少しだけ安心している自分に気付いて、自分が嫌になる。
 俺はどんな顔をしているだろう?窓から差し込む夕日は逆光だから、祐介には見えない筈だ。祐介には見られたくない。何も気付かれたくない。平常心。なんでもない素振りで自分を覆って――。
「今日は塾ないべ?ちょっと待ってろよ。一緒に帰ろうぜ」
 祐介はいつもの調子で、学ランのボタンを留めながら歩いてくる。祐介は手元を見ながらでないとボタンを留められない。俺を見てはいない。俺は少しほっとする。
「早くしろよ。お前の部活、長すぎだよ」
「しょうがねーのよ。エリートクラブだしよ。俺ってばスタープレーヤーだしよ」
 祐介は無造作にリュックに教科書を詰め込む。
「相変わらず適当なやつだなあ」
「うん、そう。俺ってそういう性格なの」
「おせーよ。まだかよ」
 俺がことさらに文句をつくと、
「急ぐなって。あ、ほら、終わった、終わったじゃーん。行こうぜ、真ちゃん」
 祐介は俺の頭を片手に抱えて歩き出した。俺はいてーよ離せよとか言いながら乱暴に頭を引き抜く。祐介に気付かれないほどの早さ。微妙な距離感。
 校舎を出ると、日はかなり落ちて、暗くなり始めていた。 
「お前さ、この間の模試、何番だった?」
 歩きながら祐介が訊く。
「五番」
「ちぇーっ。俺十三番」
 俺は祐介よりちょっとだけ成績がいい。だから祐介は悔しがって俺を抜こうとして、抜いたり沈んだりを繰り返している。
「俺はちょっとここのできがいいんだよ」
 俺はわざとらしく頭をつついてみせる。
「うるせえ。たいしたことないじゃんか。俺より八番いいだけじゃん。あーあ八番かあ。今回はいけるかと思ったんだけどなー」
「無理すんなよ、祐介」
 俺が笑うと、祐介はいきなり俺の腕をつかんだ。
「おい、何すんだよ」
 動揺を隠して、すぐに腕を抜こうとするけど、祐介の手は握力が強くて、ほどけない。
「真ちゃんなんてぜーんぜん筋肉ついてないくせにー。ほっせえくせにー」
「何だよ、全然関係ないじゃないかよ。今アタマの話だろ?」
「見ろよ、俺なんてたくましい腕よ?筋骨隆々よ?ほれ、触ってみろよ」
「うるせえ、この筋肉バカ。ハイジャンに上腕筋はいらないの。そんなだから、俺に負けるんだよ」
「くそう、負け惜しみくらい言わせろよ」
 祐介は俺を羽交い絞めにかかる。バスケで鍛えた筋肉。外せよこの野郎とか言いながら自力では外せなくてどこか悔しく、だけどずっとそうされていたい気もしていて、自分の息が熱く――ちくしょう、仲良きことは美しき哉、なんて誰が言ったんだ。うつくしくねーよ全然。うつくしくなんかねーんだよ。俺はむしろ汚くて、今だって、こんなにも、嘘まみれで汚い――。
 
 団地に続く国道を歩いていると、ふと祐介が言った。
「明日バレンタインデイだなー」
 俺はあっという間に憂鬱になる。
「チョコ何個もらえるかな?」
「――欲しい訳?」
 声が変な風に低くなる。嫌だ、こういう心境の自分は。
「欲しいさあ。てーか、俺、もてるんだぜ。超たくさん渡されんだぜ」
「ふーん」
「何、妬いてんの?俺に負けんのが悔しい訳?」
「別に。お前じゃあるまいし」
 しばらく沈黙のまま歩いた。祐介が少し真面目な声で、沈黙を破った。
「――真ちゃん、お前、実は結構もてるんだぜ。お前のことすきな女って、結構いるんだぜ」
 俺は息が詰まりそうになる。だからって、だからって、どうしろっていうんだ?俺は女なんてどうでもよくって、俺は――。
「いらねーんだよ」
「え?」
「いらねーんだよ、チョコなんて」
「すかれてんだぜ」
「知らない女にすかれたって、嬉しくもなんともねーよ」
「知ってる女ならいいのか?」
「そういう問題じゃなくて――!」
 嘘も本当もごちゃまぜになって、溢れ出しそうになる。お前にそんなこと言われるから、俺はこんなどうしようもない気持ちになって、だけどそんなものどうしようもなく、何も言葉にはならず、気持ちばかりがうねりうねって行き場を失くし――。
 パパー!と急に大きなクラクションが聞こえて、気付くと信号が赤に変わっていた。踏み出していた足を戻す。目の前を、ダンプカーが通り過ぎていく。
「――やめようぜ」
 ぼそりと言った。
「……うん」
 なんだか釈然としない声で、祐介が言った。
 五分ほどお互い無言で歩いた。そして団地に着いた。
「じゃあな」
と言って、祐介は自分の棟に向かった。
 俺も自分の棟に向かった。団地に付属の公園の脇を通る。砂場とすべり台とブランコだけの、ちゃちな代物。俺と祐介の付き合いは、ここで始まったんだ。記憶にもない遠い昔、赤ん坊の頃。それから幼稚園や小学校に上がり、おんなじところに通っているのに帰ってくればまた行き来して、プレステやったりカードダス見せあったり、外で遊んできなさいと母親に追い出されて、公園でラジコン走らせたりブランコどこまで高くこげるか競争したり。
 棟の階段を昇りながら思い出す。そういえばよく、階段でじゃんけんして遊んだっけ。勝った方がすきなものをもらえるっていう賭け付きで。その日のおやつだったり、ガシャポンで手に入れたおもちゃだったり、お菓子に付いてるシールだったり、どうでもいいような小さなものが、俺と祐介の間で行ったり来たりした。
   じゃんけんぽん グ・リ・コ
   じゃんけんぽん パ・イ・ナ・ツ・プ・ル
   じゃんけんぽん チ・ヨ・コ・レ・イ・ト
              ――チ・ヨ・コ・レ・イ・ト
 チョコレートなんて、欲しくない。欲しいものは――欲しいものは、手に入らない。
 
 二月十四日、目覚め間際。うつろなまどろみ。
 シュールな夢を見た。
 俺と祐介と、祐介の彼女がいる。祐介の彼女は見たこともない女なのに、なぜか俺は彼女だと知っている。
 彼女はチョコレートの煮物を作っている。
 俺たち三人はちゃぶ台を囲んで、彼女の作ったチョコレートの煮物を食べる。
 祐介が、しょうゆ味が足りないだのと文句を言う。彼女はしょぼくれる。俺はマジになって怒りながら、うまいじゃねえか、うまいじゃねえか、何がいけないんだと祐介に掴みかかる。彼女はやめてえと言って泣き出すが、俺たちは彼女なんか放り出してけんかを始める。掴み合い、殴り合い、殴り合い、取っ組み合い、取っ組み合い、ひっくり返り――――気がつけば彼女はどこかに消え、俺と祐介は二人きり、祐介は、その筋肉質の体をゴムのように伸ばして、俺の体に巻きつけていた。
 その輪は固く苦しい筈なのに、同時に弾力を持ち軟らかくて、俺をどうしたらいいか分からなくさせる。
(放せよ)
 迷いを振り切るように、俺は怒鳴る。
(放さない)
 祐介の熱い息が耳になだれ込む。輪は一層締まり、身動きが取れない。熱い。苦しい。
(放せ……よ……)
 二度目の声は途中で途切れる。
(放してほしいのか?)
 祐介の声は揶揄を含む。下腹部に甘やかな痺れ。俺は泣きそうになる。放してほしい。でも、放してほしくない。
(……うるせえ……!お前、何様のつもりだよ。放すの放さないのって、俺をどうこうすきにできるってのかよ)
 俺はしわがれた声をふりしぼる。精一杯の虚勢。
(できるさ、何だって……お前の望むことだって、何だって……!)
 祐介の声が空間を満たす、その瞬間、強烈な快感が背筋を這い登り、俺は悲鳴を上げた。
(助けて――)
 そこで夢は破け、俺は汗びっしょりで目覚めた。胸が上下した。息が弾んだ。手で顔を覆う。指の隙間から見えるのはいつもの部屋の天井の筈なのに、やけによそよそしい。動悸がする。まだ体には、祐介がからみついた感覚が残っている。
 何だよ、今の夢。俺は何度か唾を飲み込んだ。夢は現実を映す。ならいったい俺は、祐介に何をされたがってるっていうんだよ。体を伝う汗がゆっくりと冷えていく。頭の芯が痛い。
 ぎゅっと目をつぶる。と、突然に、下着の粘りつく感触に気づいた。何だよ、これ。絶望的な怒りが湧いてくる。あんな夢見て、こんなザマで、いったい俺は何なんだよ。
 目蓋の上から目に手をぎゅうと押し付けると、いろんな模様が現れては消えた。俺は吐き気がした。
 
 学校に着いて靴箱のふたを開けると、チョコレートの包みが二個、転がり落ちてきた。俺は無感動に拾い上げる。凝った包み紙、リボン。
 バレンタインデイは女のためにある。チョコレートは女の特権。俺は要りもしないのに、チョコレートをもらう側の特権を与えられている。要りもしない――捨ててしまいたいくらいの特権を。
 教室に入ると祐介が先に来ていて、俺の席まで歩いてきた。
「よう」
「ああ」
 短く答えて机の中に教科書を入れようとすると、また手に何か当たる。引っ張り出すと、チョコレートだ。
「真一くん、現在三個ゲットだな」
 俺が机の上に転がしたチョコレートの数を数えて、祐介が笑う。
「うるせーよ」
 俺は冗談でかわす余裕がなかった。
「今ね、俺のほうが勝ち。俺、五個」
「こんなもん、いらねーんだよ」
「だからさあ、言ったけどね、真ちゃんほんとはもてるんだよほんとに。分かる?」
「いい。俺、女って嫌い」
「冷てえなあ。今ので傷ついた女子いるんじゃないの、教室にさ。泣かれちゃうぜ」
「いいよ別に。泣きたい奴は泣けよ」
「真ちゃーん、それはまじ冷てえよー」
 祐介が肩に腕をまわす。俺は無言で祐介の腕を押しやった。祐介はへんな顔になる。俺はそれを見ないように教科書を机に押し込む。
 こんなに近くに祐介はいるのに、今日という日がそれを遠くする。チョコをもらう側として祐介と一緒にいることが、逆にこんなにも俺と祐介をへだてる。
 お前には、分からないだろう?ほんとにいらないんだよ、チョコなんて。できることなら、誰からももらいたくないんだよ。ばかばかしいけど、ばかばかしい夢だけど、俺にはチョコの煮物は作れない。俺はそれを食うことしか許されてない。 
 始業のベルが鳴った。祐介は慌てて自分の席に戻った。
 授業中、俺はぼんやりと祐介の背中を眺めていた。筋肉質で、がっしりしていて、広い背中。隣のやつと何か話して、くっくっくっくっと笑っている。先生に名指しで怒られて、それでも止まらずに、笑いを押し殺した背中が小刻みに揺れている。
 祐介は、いつだって体中が笑っている。どんな人も楽しくさせてしまうやつだ。一緒につるんでいればそれだけで楽しかった。俺はいつも祐介の隣にいて、同じことを話し、同じことに笑い、バカなことやってはふたりで大喜びし……
 だけど今は、こうして背中を見ている。祐介からは見られずに祐介が見える位置。もう癖になってしまった。こんな位置取りをするようになった自分は寒いくらい寂しく、だけどそれをやめられない。
 
 放課後までに結局七個のチョコをもらった。自分が男だってことを嫌でも思い知った。
 校庭に出ると、空は今日も青く、どこまでも深かった。
 青い空はすきだ。子どもの頃を思い出させる。まだ、何も考えていなかった子どもの頃。あの頃は、バレンタインデイなんてものがあるってことすら、知らなかった。
 柔軟体操やランニングで体を温めた後、ジャンプの練習に入る。
   チ・ヨ・コ・レ・イ・トッ!
   チ・ヨ・コ・レ・イ・トッ!
   チ・ヨ・コ・レ・イ・トッ!
 チ・ヨ・コ・レ・イ……で助走し、トッ、のところで踏み切ってみる。マットに落ちる柔らかい衝撃。
 子どもの頃のチョコレートはただのお菓子とじゃんけんあそびのひとつの手。それだけの意味だったのに、いつからこんな意味をもつようになったんだろう。
 俺はもらう側。女は渡す側。もらったチョコの数だけ、自分の体が重くなったような気がする。
 跳んでる間は誰にも邪魔されない時間の筈だったのに、俺はずっとチョコの重さにまとわりつかれている。青い空すら今日は遠い気がした。何度跳んでも、何度跳んでも、空はちっとも近づかなくて、いつまでもずっと高みにあって――気が付くと滅茶苦茶なペースで跳び続けていたらしい。
「真一、あんまり無理するな」
 マットに沈んだ俺の顔の上から、先生が言った。
 もう部員たちもほとんどいなくなっている。空が赤みを帯び始めていることに気付いた。俺は起き上がって頭を振り、跳ぶのをやめて片付け始めた。
 マットとバーを用具置き場にしまい、外の水道で顔をざぶざぶ洗っていると、後ろに人の気配がした。
 タオルで顔を拭きながら振り返ると、一年生の女子部員がいた。たしか、八百メートルの選手だ。やせがたの、ショートカットの子で、細い切れ長の目が俺を見ている。
「何」
 その気配があまりにも静かだったので、不快な気持ちは起こらず、俺は普通にそう言った。
「小林さん」
 涼しい声。そう思った。
「すきです」
 聞こえた言葉は一言だけだった。すきです。たった一言のシンプルな告白。それだけを彼女はストレートに伝えてきた。
 俺は何か言おうとして、喉がつまった。
 俺は――俺は――。
 俺は彼女の顔を見た。彼女は真っ直ぐな目で俺を見返し、恥じることも照れることもせず俺の言葉を待っている。
 俺は下を向いた。唇をかんだ。何度か息を吸い、吐いた。そして顔を上げた。
 彼女の真っ直ぐな目が待っていた。俺も彼女を真っ直ぐに見つめた。そして、
「すきな、人がいるから――」
 小さな声だった。だけどはっきりそう言った。
 彼女はまばだきをひとつだけした。そして変わらない声音で、
「ありがとうございます」
と言い、一礼して立ち去った。
 俺はぼんやり立っていた。すきです。彼女のシンプルな告白。すきだということ以外、他に何も混ざらない、純粋な感情がある。
 すきな、人がいるから――。俺は、確かにそう言った――。
 
 教室に戻ると、祐介がいた。
「おう、真ちゃん、部活終わり?」
「ああ」
「一緒に帰ろうぜ」
「ああ」
 俺は教科書と一緒に、もらったチョコをリュックに押し込んだ。
「いっぱいもらったねえ」
「まあな」
「何個?」
「七」
「じゃあやっぱり俺の勝ちだわ」
 祐介は得意そうに言う。
「何個もらったんだよ」
「十五」
「すげえ」
「だろ?」
 俺は素直にそう言った。誰にだってすかれる祐介。祐介にチョコをやった十五人の女も、きっと確かにこいつがすきなんだろう。
 俺はリュックをかついで教室を出た。祐介が後からついてくる。
「でも真ちゃんもすげえじゃん。結構もらったんじゃん」
「うん、でも、いらないんだ」
 祐介は俺の前にまわった。
「でも、食うだろ?」
「捨てるよ」
「何で?もったいねえじゃん」
「誰の気持ちにも応える気がないから、食わない」
「お前、意外と誠実ね」
 祐介は俺の顔をのぞきこむ。俺の顔は、さっきの女子部員の静かな顔に似ていたかもしれない。
 いいよ、お前は食えよ。十五人の女子に応えてやれよ。お前は俺の気持ちを知らないだろうし、俺がなぜチョコを食わないか、ほんとのところを知らないだろうけど、多分それでいいんだ。
 祐介ののんびりした声がした。
「まあ、俺も食わねーけどなー」
 自然に足が止まった。
「十五個なんて食えねえしさー。俺、甘いもん嫌いだし。おふくろかねえちゃんにでもやるな。ねえちゃん甘いもん超すきだし。今年もガッツ入れてチョコ作ってたぜえ。自分が食う訳でもないのにな」
 祐介は俺に気付かず階段を降りていく。下まで降りて、初めて気付いて俺を見上げる。
「おいー、真ちゃん、なんで降りてこねえの?」
「――じゃんけん……」
 知らず知らず、そう言っていた。
「あ?」
「――じゃんけん、しようぜ」
 夕日が後ろから差してくる。祐介の怪訝そうな顔が見える。俺はどんな顔をしているんだろう、自分でも分からない。
「じゃんけん?何でさ」
「いいから。じゃんけんしようぜ」
 祐介は訳の分からない顔のまま、手を出した。
「じゃんけんぽん」
 俺がグーで勝った。
「グ・リ・コ」
 三段降りる。
 祐介が急に笑った。
「なんだよ、グリコかよ。ガキの頃以来だなー」
「うん」
「俺が勝ったら、昇っていけばいい訳?」
「うん」
「そんで最終的にはどっちが勝ちなんだよ」
「真ん中にさ、先に着いたほうが勝ち」
「勝ったら何?やっぱ何かもらえんの?」
「うん」
「よーし、勝つぜえ。せーの、じゃんけんぽん!」
 祐介は急に元気になってじゃんけんを始めた。 
 祐介が勝って階段を昇る。俺が勝って階段を降りる。祐介が勝って階段を昇る。俺が勝って階段を降りる。何度か繰り返して、ふたりとも真ん中まであと数段、同じくらいの距離になった。
 俺は今、自分は賭けをしているんだと思った。祐介の知らない、ひとつの賭け。祐介がチョコを食わないと言うのなら、それならば――。
「次で決まりだな」
 祐介がにやりと笑って、腕を構えた。
「せーの、じゃんけんぽん!」
 俺がチョキ、祐介がグー。祐介の勝ち。
「グ・リ・コ、と。やりい!俺の勝ちだぜ!」
 祐介が三段昇って、俺の一段下に立っていた。祐介のほうが背が高いから、ちょうど同じくらいの位置で顔を合わせる。
 目と鼻の先に祐介。祐介はほんとに得意げな顔をする。こんな、ガキじみた遊びでさえ、祐介は。
「で?何くれんの?真ちゃん」
 俺は祐介の顔をじっと見た。俺のやりたいものは、俺のやりたいものは――。
「――グリコ、やるよ」
「はあー?」
 祐介のブーイング。
「なんでグリコよ?今さら滋養強壮でもないべ?俺もう、お子様じゃないのよ?」
「じゃあ、パイナップル」
「ますますいらねーよー。あんな重いもん。真ちゃんー、どうせならチョコちょうだいよ」
「やだよ。食わねーんだろ?」
「真ちゃんがくれたら食うって」
「やだ。グリコ。グリコしかやんない」
 俺は言いつのる。
 人が誰かをすきになった時、相手から同じ感情を返してもらえるのだったら、どんなにか幸せなことだろう。でもそうじゃない。そんな保証はどこにもない。
 それでも人は人をすきになる。無謀な感情に自分から飛び込む。すきという、ただそれだけの感情に。
 自由になりたいと思った。でもなれなかった。お前から離れることなんて、できなかった。
 ――お前がすきだ。後戻りもできないくらい、お前がすきだ。自由なんて最初からない。自分で望んでお前にしばられた。お前と一緒にいたい。お前をすきであり続けたい。
 できることなら、俺をお前にやってしまいたかった。だけど、実際にはそんなことできなくて、俺が言えたのはグリコ、なんてちっぽけなガキのお菓子の名前。 
 でも、ガキでいいじゃないか。何も考えずに遊んでいた頃の無邪気な自分には戻れないけど、あの頃のストレートな感情を思い出して、俺の代わりにグリコをやるよ。チョコなんて、女のために用意されたお菓子じゃないか。そんなもの欲しがらないで、どうか俺のグリコを取れよ。
「なー真ちゃん、俺グリコって子どものころからすきじゃないのよー」
「だめ。グリコ。途中のコンビニで購入。決まり」
「やだよーグリコはー。第一売ってんのかよあれ、いまどき」
 俺たちの階段は、夕焼けの赤に溢れる。俺も祐介も赤に染まる。
 なあ、祐介、俺のグリコをもらえよ。もしも、お前がグリコををもらってくれたら、俺の心はグリコと一緒に、少しでもお前の手の中にあるような気がするんだ。
「グリコ」
 ちっぽけなグリコは俺の中で段々と意味の重さを増していき、もうどうしていいか分からない。
 俺はなんだか泣きたいような笑いたいような思いで、グリコ、と言い続ける。
「チョコー」
 祐介が何度そう言っても。
「グ・リ・コ」
 俺は何度でも繰り返す。

 

(C)2009 Toko Kikuchi .
     

 

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