三つのジムノペディによる三つの幻想遊び |
ジムノペディ第一番 「吊られた男」 |
| 男はずっと長いことここにいた。黒い大きな木のもとに、足は上に、頭は下に吊られていた。ずっと昔、もう思い出すこともできない程遠い昔から、男はそうしていた。 男はずっと独りだった。人の姿を見たことはなく、何の音を聞いたこともなかった。この空間には何も変化がなかった。 男は静かに目を閉じていた。夢の中をたゆとうように、うつうつとしていた。けれども、決して眠ってはいなかった。眠りすらこの場所には存在しなかったのだ。苦痛は深く深く沈んでゆき、諦めもとうの昔に空気に紛れた。男はいつしかこの空間と同化し、変化することを失くした。時間はゆっくりとにつまり、次第に停滞した。男は、自分の存在すらも忘れかけていた。もう何もかもが朧だった。 「哥(にい)さん」 ふいに、はっきりとした澄んだ声がした。男はゆっくりと目を開けた。 「こんにちは、哥さん」 明晰なまなざしをした童子が、不思議な微笑をたたえて、男を見ていた。 「こんにちは、小童(こわらわ)さん」 男は細い声を出した。何もない透明な空間に、その久しく絶えてなかった音は、くっきりと跡を記した。 「哥さんが吊られてから、百年が経ちました」 と童子は言った。男は、もはや自分では感ずることもできなくなった時間の長さに思いをはせた。百年もの間、男は無変化に身を委ねていたのだ。 男はこの小さな童子を見た。童子はしごく賢そうな目で男を見返した。 「でも、それは永遠に続くんですね」 童子はまばたきもせずにすらりと言い放った。男はこの不思議な子どもを見つめつつ、そしてこれからの長い時間を思った。今、時はひととき流れている。しかしまた、流れは緩やかになり、やがて動きを止めるのだろう。 「なぜ知っているのですか」 男は尋ねた。すると童子は、その涼やかなまなざしで黙って男を見つめた。その目を見、男は理解した。なぜ、と問うこと自体が意味を持たないのだ。童子がそれを知っているのに意味などはない。きっと童子は、童子だから知っているのだ。 男は意味もなく安堵した。そしてそっと目を瞑った。しかし時はまだ動きを止めなかった。それで男は再び目を開けた。 「永遠とは、長いのでしょうか」 男は遠くを眺めやった。どこまでも続く、うす青とうす紫の風景。それは心地よい真夜中の眠りのように、暗く、そして暖かかった。 「長いかもしれません。長くないかもしれません」 童子の声は凛と空気を渡る。男は静かに頷いた。 「百年経ったのも分かりませんでした」 「その百年のことを覚えていますか」 童子はそっと尋ねた。男はしばし、夢に身をまかせるように視線を漂わせた。 「初めは、見ていました。わたしの体を巻き上げ縛り上げている綱を、すべてを覆う黒く太い網の目のような木の枝を、それを透かして見える薄青い空の硝子体を。それから、思いました。それまで何も憂うことなく暮らしていたことを、こうして吊られるようになったことを、そしてこれから果てなく続くこの身のことを。そのうちに、時がおかしくなりました。ずっと、世界が混沌から生まれた太古の昔から、こうして吊られているような気がしました。あるいは、無に在って、これから世界が生まれるのを待っているような気がしました。そして、すべてがどうでもよくなりました。わたしは目を閉じました。わたしは、何も分からなくなりました。そしてすべてを忘れました……」 男は口をつぐんだ。童子はゆっくり男の周りを歩いた。 「アポロンの」 と童子はいきなり立ち止まって、男を振り返った。 「アポロンのお怒りはまだ解けないのですか」 男は遠い昔を思い返した。それは、目覚めると急に薄れてゆく夢にも似ていた。男の顔に、微笑が浮かんだ。 「分かりません。けれどもわたしは永遠に吊るされているよう運命付けられたのですし――それに、どうでもよかったのです。アポロンがお怒りになっておられようともはやわたしをお許しになっておられようと――もうそれは、わたしとは別の世界のできごとなのです……」 男は言い終えて遠くを見やった。だが再び童子に目を向け、静かに尋ねた。 「青い魚は、まだいますか」 「いますよ。哥さんの周りをぐるぐる泳いでいます。尻尾がゆらゆらして、青い硝子みたいになって、二匹して遊んでいます。きれいなお魚ですねえ」 その答えを聞いて、男は満足した。男には魚は見えなかった。それでも男には充分だった。 魚はゆっくりと空気の中を泳いでいた。長いひれと尻尾がゆらゆらとたなびき、二匹は、自分のそれやお互いのそれに戯れかかっていた。 「魚がいれば、いいのです」 男は目を閉じて言った。 「魚がいれば、それでいいのです」 「しかし、アポロンのお魚を盗ってしまったのですから、まずかったのでしょう」 童子は何気なく言った。男は再び目を開けた。 「アポロンはそれはお怒りになりましたよ。だからわたしはここに吊るされているのです。けれど、まずくはないのです。魚がいれば、それでいいのです」 そして男は、見えない魚がまるで見えるかのように、憧れを湛えて目を細めた。 「太陽祭の夜でした、わたしが魚を見たのは。魚はそれはそれは青く透き通っていて、きらきら光っていました。アポロンのお祭りだというのに、わたしはもう魚以外のことは考えられませんでしたよ。魚はアポロンの御手に戯れてまとわりついていました。ですがそのうちに、魚は飽きてわたしたちの方へ、人間たちの間へ、降りてきたのです。やがてそれはわたしの前に佇みました。わたしは思わず手を差し出しました。魚はわたしの手をそっとつつきました。わたしはとても我慢ができなくなって、魚を抱くと、そっとその場を離れたのです。何の衝動か、わたしは自分でも分かりませんでした。ただ、魚への憧れに身を焦がすばかりでした。けれどしばらく行くうちに、魚は飽きてむずかって、わたしの腕を抜けてアポロンのところへ帰ってしまった。そしてアポロンは、わたしのことに気付かれたのです」 童子はきらきら光る目で男を見つめた。 「それでもお魚がいればいいのですか」 男は静かに頷いた。 「魚がいれば、いいのです」 そしてそっと辺りを見回した。 「ここはアポロンの魚籃(ぎょらん(さかなかご))です。アポロンはわたしをここに吊るされたのです。それはお慈悲でしょうか、けれどわたしには魚は見えません」 童子は魚を見た。空気はいよいよ紫淡く、魚は光をはじいてきらめいた。アポロンの御手が造り上げた空間で。 「もう、わたしは行きます」 童子ははっきり言った。男はやや苦しそうに身動きし、童子を見上げた。 「小童さん、あなたはどなたなのですか」 「わたしは王様の小姓です」 童子はまっすぐ男と目を見交わした。 「これから王様の御殿へ行くところです」 「ああ」 と男は頷いた。そして 「百年後、また来てくれますか」 と尋ねた。童子は男の目を見つめたまま、目に笑みを混じらせた。 「分かりません。いるかいないか――来ればここにいるでしょう」 「ああ」 男は再び頷いた。そして納得したように、今度こそ本当に目を瞑った。 「さようなら、哥さん。よくお寝みなさい」 童子の声はだんだんと遠くなっていった。時間はゆっくりと流れを緩めはじめる。男は、再びあのうつうつとした無変化の中に戻っていった。 |
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