| あなたと一緒に帰りたい |
| 久しぶりのデートなので、昨日から嬉しかった。 本当のことを言うと、デートじゃない。健太郎とわたしは恋人同士じゃない、ただの友達同士だから。もっとも健太郎に言わせると、人間関係に恋人同士だの友達同士だの名前をつけるのはナンセンスなんだそうだけれど、健太郎と会うことを考えると、どうしてもわたしの気持ちはデートになってしまう。デート、つまり特別な一日だっていうこと。嬉しい。楽しい。待ち遠しい。 まだ肌寒いけれど、春の色の洋服を着ようと思う。淡いピンクの半袖ニットに薄いグレーの花柄のスカートを合わせて、上着は白いコーデュロイのジャケットにしよう。ストッキングはベージュの網タイツで後ろに縫い目風のプリントが走っているやつ。誰に見られる訳じゃないけど、下着はコルセット風のリボン使いがかわいい白とピンクの一番気に入ってるやつにしよう。そういうことは大事な意識の問題。 着替えを済ませて化粧にかかる。下地を塗って、ファンデーションを塗って、ハイライトパウダーを目の周りに刷いてソバカスを飛ばす。コンシーラーを塗り重ねて隠すより、その方が目立たなくなるような気がする。そういう話をした時、健太郎は言った。なるほどね。工夫だね。わたしは言った。そうよ。そうして化粧技術は向上するのよ。さらに化粧技術向上の成果は続く。ピンクのチークをブラシに取ってふわりふわりと頬にのせる。今日はいい位置にきれいにぼかせた。上気した感じ。幸先がいい。ルースパウダーを顔全体にのせて水スプレーし、手で押さえる。粉っぽかった顔がみずみずしくナチュラルになる。 ベースメイクが済んだら、次はパーツのメイクだ。薄い水色のパウダーを筆に取り、うまくグラデーションを作るようにまぶたに塗る。鏡で両の眉毛を見比べながら慎重に描き足す。斜め上を見上げながらビューラーで睫毛を挟み、跳ね上げた後はマスカラでコーティングする。そして髪の毛。いつもは後ろで束ねているだけだけど、今日は全体をスプレーで濡らしてブローし直す。前髪がうまく流れるように、毛先のカールがきれいに出るように。そして一番最後に口紅。誕生日のプレゼントに健太郎に買ってもらった濃いピンクを、丁寧にブラシで塗った。 鞄とミュールはあめ色の革。忘れ物はないかな、ティッシュとハンカチは持ったかな、お化粧直しのポーチも入ってるし、お財布も入ってるし、手帳も持ったし、さあ出発だ。 待ち合わせ場所は「新しいもの屋」。本当の名前は別にあるんだけれど、わたしと健太郎の間でそう呼んでいる。コスメやボディケアグッズやCDや本や食品なんかが、それぞれの分野でランキングされて紹介されて売られている、アンテナショップみたいなところだ。方向音痴のわたしでも分かる場所にあるので、いつもそこを使っている。 地下鉄に三十分乗ってお店に着く。目にも耳にも賑やかしくごったがえしている店の中、きゅうきゅうと並んだ陳列棚の間に、健太郎が頭ひとつ分抜き出して見えた。健太郎は身長が百八十cm以上ある。どんなに混んだ場所でも、大抵見失うことがない。近づくと健太郎は何か商品を手に取って、難しい顔でそれを見ていた。 「何見てるの?」 と訊くと、健太郎は顔を上げておはよう、と言って、 「ヴァセリン」 と手に持った物を見せた。手につけるあぶらだ。 「手が荒れて困るのよ。乾燥してさ」 「でも、もう冬も終わりよ」 「まだ冬だよ」 そう言って、健太郎はわたしの姿を上から下まで見た。 「春だね」 「春なのよ」 「寒くない?」 「寒いけど」 健太郎はマフラーを取ってわたしの首にかけた。健太郎の匂いがする。煙草と薄荷の匂い。深く吸い込むとぞくぞくと嬉しくなる。わたしは快活に文句を言う。 「ファッション的に変よ」 「じゃあ返して」 「返さないけど」 「そう」 健太郎はもう一度わたしを上から下まで眺め、ま、いいや、と言って、ヴァセリンを持ってレジに向かった。そしてすぐに会計を済ませてきて言った。 「行こう」 向かう先は映画館だった。観たい映画があったのだけれど、一人で観たってつまらない。健太郎と一緒に行けるまで我慢していたのだ。 「十時半からだったわ」 「今何時」 「十時少し過ぎたところ」 「十分間に合うな」 健太郎は映画館の位置とそこに至る経路を頭の中で計算している。 「そこがあの角でそっちにあれがあるだろ――うん、あそこあそこ」 健太郎はぐるりを見て指さし確認をして、すぐに正しい道を見つける。わたしはこの能力がまるで駄目で、二人で歩く時は健太郎はわたしの盲導犬だ。わたしは晴ればれと安心しきって健太郎について行く。 映画館は、階下にCDショップの入っているビルの最上階にあった。エレベーターを降りると、きれいなロビーが広がっていた。あまり人の姿はなく、思ったより空いていた。朝だったからかもしれない。ロビー全体に、軽く焦げ臭い、香ばしい匂いが漂っている。 「ポップコーンだ」 健太郎を見ると、顔じゅうでにかにかしていた。健太郎がにかにかしているとわたしも嬉しい。わたしもにかにかしてしまう。 「買いましょう」 「飲み物は?」 「もちろんコーラ」 「コーラね」 と健太郎は言って、さっさと売り場のカウンターへ向かう。手早く注文して振り返ると、わたしを手招きする。 「飲み物持って」 わたしはカウンターからストローの刺さった蓋付きの紙コップを受け取る。持ち重りがして冷たい。健太郎はポップコーンの包みを持つと、 「入ろう」 と言ってまだ明かりの落ちない館内にさっさと入って行った。 「どの辺にする?」 と健太郎が振り返って訊く。 「後ろの方。真ん中」 わたしが答える。後ろの方真ん中、はお芝居でもコンサートでも映画でも、わたしの基本だ。一番よく見えて一番よく音が飛んでくると信じている。 そうだったね、と健太郎は言って、跳ね上がった座面と前の席の背もたれの間をすり抜けるように横歩きする。 「よし、この辺」 健太郎は立ち止まって勢いよく腰を下ろした。この映画館の座席は親切だ。コップを置ける受け皿が各手すりについている。 「どっちが健太郎のなの」 わたしが紙コップを差し出すと、健太郎は片方ストローで吸ってみてにかっと笑った。 「こっちだ」 わたしはそっちを健太郎の席の受け皿に落とし込み、もう片方を自分の方に落とし込む。座面を下ろして腰を下ろす。 「何にしたの」 「あのね。ファンタグレープ」 「ジャンクね」 「コーラもだろ」 「うん」 「映画を観る時はジャンクが似合うよ。あの、アメリカ人が食う、すげえでかいアイスクリームとかさ」 「あの、小さい樽みたいな、抱えて食べる奴でしょう」 「そうそう。TV映画観ながら食うんだよ」 わたしたちは意味もなくげらげら笑う。 「いくらだった?」 「しめて千百円」 「高いな」 五百五十円を数えて手渡しながら言うと、 「映画館だからさ」 健太郎は五十円まけてやる、と言って五十円玉をバックしてよこした。健太郎はいつも、こういう小さな鷹揚さでやさしくしてくれる。そのたびに、どこか自分が幼い子どもになったような不思議な頼りなさと同時に、背後から柔らかく保護されているような安心感を、体中が感じる。湧き上がる悦びのような安心感を。 「あーうめー」 健太郎は自分の紙コップから一口吸って呟いた。 「あーうめー」 わたしも自分の分を一口吸って呟いてみる。 「とりかえっこ」 健太郎が手を伸ばすのでわたしたちは飲み物を交換し、それぞれ相手のものを吸ってみる。ファンタグレープはケミカルなぶどうの香料の味がした。 「何だか懐かしい味」 とわたしは言いながらそれを返し、自分のコーラを受け取った。 「昔食べた駄菓子の二十円の丸いガムとか。そういう味がする」 「俺ね、高校の時超ショックだったのよ」 健太郎は自分の手に戻ったファンタグレープを吸い上げながら言った。 「有機化合物の匂いを嗅がせられた時にさ。オレンジの匂いとかいちごの匂いとかぶどうの匂いだと思ってたのは、みんなこの液体の匂いだったのかよ、って。だまされた、って思ってさ。そういうの、ない?」 「わたし化学はほとんどやらなかったのよ」 わたしは眉根に軽くしわを寄せて言った。 「カリキュラムがちょっといんちきで、理科Tを一年やって、あとの二年は生物をやったの。けど、ダイエットコークを飲む時は何か化かされたような気分になるわ。栄養表示が全部ゼロでしょ、それでカロリーもゼロだと一体自分は何を飲んでるんだろう、って」 「コーラもえらくうさんくさい飲み物だよな」 健太郎はうなずき、もう一回飲ませて、と言って首を伸ばしてわたしの手からストローを吸った。 少し胸がしゅわしゅわした。可愛いな、健太郎。なんでこの人はわたしの恋人じゃないんだろう。 昔、といってもそんなに昔じゃないけど、社会人になりたての頃、二人で飲んだ時に酔って健太郎はこう言った。 「助けてよ、鮎子。やつら俺にカノジョ作らせようとするんだぜ」 それは会社の人のこと?わたしは慎重に質問を始めた。 「そう、すごいんだよ、『石井にカノジョを持たせよう部』なんか結成してんの。信じらんないよ」 それはすごい部ね。わたしはさらに慎重に相づちを打った。 「すごいでしょ?自分らがカノジョ欲しいだけじゃ飽き足らなくて、俺にまでお節介焼くんだ」 あながちお節介とも言えないんじゃない?わたしは注意深く反論してみた。 「お節介だよ。まあ、人をダシにして楽しんでるんだろうけどさ」 健太郎はそう言って眉を寄せた。 「うちの会社って日刊紙じゃん、ああいう世界の人たちってね、会社に女ほとんどいないでしょう、カノジョと堅実に付き合ってすぐ結婚するか、飲み屋とか風俗のおねえちゃんに走るかに分かれちゃうんだよ。でも俺ってどっちでもないでしょう、よっぽど変人だって思われてるみたい。この間、お前ホモ?って言われちゃった。違うっつーの」 男も女もいらないの?わたしは一歩踏み込んだ。 「男も女もどうでもいいの。いや、人間嫌いとかそういう訳じゃなくってさ、性別はどうだって、そいつがどんなやつで、自分とどんな付き合いをしてるかっていう、一個一個の関係の方が大事なの。そういうのってさ、カノジョとかいう話とは違うじゃん」 カノジョだって、関係性のひとつじゃないの?わたしはさらに踏み込んだ。 健太郎は、鮎子も俺にカノジョもたせようとしてるんじゃないの?と横目でにらみ、 「だってカノジョってさ、一種の役割の名前じゃん。中身じゃなくて容れ物の問題じゃん。極端な話、よく知らない相手でも、ツキアってくださいって言ってハイって言われたらカノジョになっちゃう訳でしょ。それでツキアうことになったら、カレシ・カノジョとして当然取るべき行動ってのが決まってるじゃない。不思議な関係だよ。俺には分かんない。でもみんなはそれが普通なんだ」 と憮然として言うと、 「俺ってそんなに変?」 と情けなさそうにわたしを見た。 健太郎って、マイノリティなんだと思うわ。わたしは言った。 「マイノリティ?」 そう、少数派、っていう意味。そういう風に考える人、あまりいないと思うもの。だから変だと思われる。 そうか。ちょっとかっこいいからこれから自分のことをそう呼ぼう。健太郎は鼻の頭に少ししわを寄せてそう言い、 「まあいいや、別に変でも俺はいいよ。ただ、俺はこういう人、って了解してくれれば。なのになんで『部』なんか作るかなあ」 とぼやいてビールのジョッキを空けた。 もうひとつ同じのでいい?とわたしは訊いて、ジョッキひとつを注文してから、さらに探りを入れた。 学生時代も健太郎ってカノジョいなかったよね? 「うん、てことはつまり、昔から俺はそういう考え方だったってことだと思うんだ。あんまり意識はしてなかったけど。それっていうのも、今思うとさ、みんななんとなく納得してたんだよね、ケンタローはそういうやつだ、って。だから俺もそんなもんだと思って学生時代を過ごしてきた訳だけど、いきなり社会の壁にぶつかったね。でもぶつかった壁が『カノジョを持たせよう部』だってのが情けなくない?あー、カノジョとかカレシとか女とか男とかさ、そういうのどこ吹く風で、俺カラーで生きていきたいよ」 少しの間、考えて。 でもわたし、学生時代も社会に出てからも、変わることなく親しくお付き合いさせていただいてますけど。 最大限慎重に、最大限踏み込んで、わたしはこの一言を言ってみた。残りの半分を飲み込んだままの、それでも大きな冒険――ワタシハケンタロウノナンナンデスカ? そう、それは大きな冒険だったのに、なのに返ってきた答えはこれだった。あっけらかんと、笑顔を見せて。 「だって鮎子は鮎子でしょ。俺と鮎子っていう二人の間の関係なのに、周りが変わったからって何も変わる訳がないじゃない。あるとすれば、俺が変わるか、鮎子が変わるか、それだけだよ」 だからわたしは何も言えなくなる。 『鮎子は鮎子』という言葉に縛られて、身動きが取れなくなる。 残酷な健太郎、『鮎子は鮎子』で終わらせないで。ワタシハナニ?それに答えて。カノジョ、トモダチ、シリアイ、タニン、何でもいい、健太郎の嫌いな容れ物に入れてしまってよ。そしたらもう、期待も失望もしないですむのに。こんなに気持ちが揺れずにすむのに。 だけどそれを口にしたら、今の全てが崩れてしまう。 不安定に安定している、『健太郎と鮎子』の関係が壊れてしまう。 ねえ、と隣りから腕をつつかれた。目を移すと、健太郎がヴァセリンを手に塗りたくっていた。 「これさ、すげえぎとぎと。ぬらぬら」 「そうよ。だってこれ、あぶらだもの」 「あぶらなの?」 「そうよ、知らなかったの?」 「だって、保湿に効果絶大、って書いてあったよ」 「だから、水分補給をした後、蒸発しないようにあぶらで皮膜を作るのよ。潤いを与えるタイプのクリームとは違うの」 なあんだ。そういう顔をして健太郎は、もてあまし気味に手をこすり合わせていたけれど、最終的にジーンズになすりつけた。あーあ、ジーンズ汚れるよ。そう言うと健太郎は、いいんだ、ユーズド感がアップするんだよ、と言ってけろりと笑った。 「映画、遅いね」 健太郎がそう言った瞬間、明かりが落ちて予告編が始まった。 「煙草吸いたいからさ、手近なところに入ろう」 健太郎がそう言うので、映画館を出た後、五分ほど歩いたところにあるハンバーガーショップに入った。わたしは普通のハンバーガーとホットコーヒーを頼み、健太郎はダブルバーガーとアイスコーヒーを頼んだ。店の正面がオープンテラス風に歩道に面していて、それは洒落たつもりなのかもしれないけれど、正直言って寒かった。 健太郎は椅子にどっかと座って煙草を咥えた。 「よかったね、映画」 急に思い出した風に言うので、おかしかった。 映画は魔法使いの男の子と呪いをかけられた女の子の冒険活劇恋愛譚で、少し泣いてたくさん笑った。いい映画だった。 「主人公がへなちょこでさ。よかったよ」 「へなちょこだったわね」 健太郎は煙を吐いて灰を落とす。 「あれって共感できるよ」 「面白いこと言うのね」 わたしは感心した。 「健太郎もへこたれると溶けちゃうの」 健太郎は笑った。 「映画じゃないから溶けはしないけどさ。方向性は一緒だ」 「そう」 わたしはコーヒーのカップで手を温めながら、ゆっくり言った。 「わたし、へなちょこな人ってすきよ」 わたし、健太郎ってすきよ。そう聞こえないように細心の注意を払って、明るく、何でもなく、さりげなく。 「高校の頃すきだった先生にね」 「それってあの世界史の先生?」 「そうよ」 こんな些細なことですらみんな健太郎には話しているのに、すきよ、その一言だけが言えない。 「その先生にね、大学に入ってから電話をしたことがあるの。休みの日の昼。もちろんいないと思ってたのよ。いないと思ったからかけたの。そしたらいてね」 「ふんふん」 「自分でかけたくせに、びっくりしちゃて、先生なんで休みの日なのにうちにいるんですか、って言っちゃったの」 「ふんふん」 「そしたら、家の前の空き地でやくざが花見をしてるから怖くて外に出られない、って情けない声で言うの。もう、可愛くて死にそうになっちゃった。十歳も年上の人なのにね。もっともその先生、その後すぐに結婚しちゃったんだけど」 「鮎子って、結構惚れやすいね」 健太郎はアイスコーヒーをストローで吸って言った。 「そうかしら」 「俺、小学生の頃のプラネタリウムのおばさん以来、誰もいないよ」 「知ってるわ」 「そうだったっけ」 「そうよ」 健太郎はカノジョが必要ない。わたしは胸がしわしわになり、熱いコーヒーをやけどしそうになりながらすすった。 ずうずうしいハトが、パンくずを狙ってホバリングしながら近寄ってきた。 「うわ、俺ハトって嫌い」 健太郎が顔をしかめる。 「そうなの?」 「うん、やつら厚かましいじゃん。やたらたくさんいるし、すぐ群がってくるし。スズメは可愛いけどさ」 その中の一羽が、テーブルに上がってきた。し、と健太郎が即座に追い払った。でもハトは、追い払われても追い払われてもまた近寄ってくる。 「見て、書いてある――『ハトに餌をやらないでください』だって」 「誰がやるかよ」 健太郎はダブルバーガーの包みを剥いて、大きな口を開けてかじりついた。健太郎の口は大きい。ダブルバーガーの上から下まで一口で噛み取れるくらい。笑うとその大きな口が、顔の下半分を占めるくらい、西瓜の形にぐいっと広がる。 「何、何か付いてる?」 口を見つめていたら、健太郎が訊き返してきた。わたしは静かに口の脇をこすってみせた。 「かぴかぴしてるわ。乾燥して皮が剥けてる」 健太郎はわたしの示した位置を手でごしごしこすった。 「意外と乾燥肌なのね。男の人って、顔洗った後何かつけないの?」 「ヴァセリンはどうかな」 健太郎がにやっと笑ったので、わたしもおかしくなって笑った。 「やってみたら。案外いけるかもよ」 「女って、何つけるの」 「そうね、人にもよるけど」 わたしは少し考えた。 「わたしの場合は、石鹸で顔洗って、ローションつけて、シミソバカスに効く美容液つけて、保湿用のエッセンスつけて、乳液つけて、最後にクリームつけるかな。クリームってヴァセリンと一緒、最後の蓋なのよ」 「面倒くさいね」 「そうでもないわ。結構楽しい。肌が水分を吸ってぴたぴたになるの、気持ちいいわ」 ふうん。俺も何かつけようかな。健太郎はそう言って、またダブルバーガーにかぶりつく。わたしも自分の包みを剥いて、一口かじりついた。 「いろんなハンバーガーがあるけど、ここのシンプルさってすきよ。ハンバーグとピクルスだけがはさまってるの。おいしいって訳じゃないけど、だけどすき」 「鮎子、口小さいからね」 健太郎は自分の口の大きさを誇示するみたいに、どんどんダブルバーガーを征服していく。 「具が多いとすぐ食べこぼすでしょう」 「それは――認める」 わたしはしぶしぶ認めた。よく言われるのだ。食べ方はきれいなのに食べた跡が汚いね。それこそハトに餌をまいてやったように、食べこぼしのかけらが散らばっている。 「でも、ハンバーガーとかクラブハウスサンドウィッチとかいう食べ物って、そもそも無茶だと思うの。いかにも中身をこぼしてくださいっていうつくりをしてるじゃない」 そう?目と眉で健太郎は答えて、ダブルバーガーの最後のかけらを飲み込んだ。 「今日食べこぼすとヒサンだよ。鮎子白着てるでしょ」 わたしは食べやめて改めて自分の格好を見た。そうだ、春というコンセプトで白のジャケットなんか着てきたんだっけ。確かにケチャップの染みなんか付けた日にはヒサンの一言だ。 「健太郎のマフラーにこぼすようにするからいい」 わたしは憎まれ口をきいた。 健太郎は新しい煙草に火を点けてふーっと白い煙を吐いた。 「どうぞどうぞ。汚れて困るマフラーは持ってない。ざぶざぶ洗ってしまえばいい」 「健太郎って前向きだわ」 「そう、それが俺のいいところよ。すぐへこたれもするけどね。復活が早いんだよ」 健太郎はそう言って笑った。わたしは少しかなしい気分になった。 「わたしは駄目。後ろ向き。いろんなこと何でも引きずっちゃうの」 だからいつも、健太郎をすきな気持ちを引きずって歩いている。 そう?と健太郎はのんきにアイスコーヒーをすすって、 「でもそれが鮎子のいいところなんじゃないの。何でも忘れずに大事にしてる、ってことだから」 と言った。 それは、健太郎のことを忘れられずに後生大事にしてる、ってこと。 「ものは言いようなのね」 わたしがため息をつくと、 「そう、ものは言いよう、考えよう」 健太郎はからからと笑ってアイスコーヒーを空にした。 「いつものことだけど、早いのね」 わたしはまだハンバーガーを半分しか食べていない。 「うん、それも俺のいいところ。仕事がたてこんでも食うのに時間を割かれない」 「駄目よ。早く食べると、太るのよ」 「そうなの?」 「そうよ。よく噛んでゆっくり食べないと、太るのよ」 そうかなあ。健太郎は三本目の煙草に火を点けながら言った。 「煙草吸ってるから太んないよ。禁煙すると太るって言うじゃない」 そして一吹き煙を吹いて、けど、と言って笑った。 「コーラといいファンタといいハンバーガーといい、ジャンクな一日だな。食うの早くても遅くても太りそう」 そうね。わたしはちょっとの間食べ止めてハンバーガーを見た。そして急いで食べてしまおうと思って頬張った。 健太郎が洋服を見たいというので、海外ブランドのカジュアルウェアのお店に入った。 健太郎は体が大きい。その割にスポーツが駄目なので、無駄にでかいと本人は笑うけれど、そのおかげで、国内のブランドだと袖の長さが足りなかったり肩幅が足りなかったりするのだ。 お店に足を踏み入れると、濃いから淡いまで、あらゆる色彩が一気に咲きこぼれた。ひどく微妙な違いのカラー展開が魅力のブランドなのだ。身長は並だけれど、そのカラーやデザインが気に入っているので、わたしもよく立ち寄るお店だ。 「何が欲しいの」 歩きながら訊くと、健太郎はさして重要でもなさそうに 「黒いジャケット」 と答えた。 「随分具体的ね」 ジャケットはどの辺にあるのだろう、目で探しながら歩く。健太郎はぶらぶらとあっちのシャツを見たりこっちのパンツを見たりしている。 「ひとつあると便利かなと思って」 「そう?」 「うん。俺、スーツとかひとつも持ってないでしょう」 「そうね。リクルートスーツも捨てたんだったわね」 「だって、あんまりリクルート臭いからさ。かばんも捨てた」 健太郎は鼻の頭にしわを寄せて笑った。 「普段は別に困らないけど、いざ、という時にさ。黒いスーツがあるといいと思うんだ」 「黒ねえ」 わたしは首を傾げた。 「男の人の服ってよく分からないけど、真っ黒ってどうなの?濃いグレーとか、そういうんじゃなく?」 「だって、いざ、って時にいいでしょう」 「いざ、って?」 「例えば葬式とかさ」 あまり簡単に健太郎が言うので、わたしはつい吹き出した。 「なんで言うに事欠いて葬式なのよ」 「いや、俺の職場、結構葬式が多いのよ。適当にしのいだけど」 健太郎はのんびりと続ける。 「入社してからもう三回あったな。偉い人の親族なんかが多くてさ、受付とかやらされるんだ」 「だからって」 「まあ葬式じゃなくてもさ、結婚式とか何でも、一着あれば便利だと思わない?」 「そうね、分かった、じゃあ探しましょう」 わたしは洋服の海の中、探索に乗り出す。 探してみると、これ、というものはなかなか多くない。一年中着られるものとなるとフラノ地のような冬用の生地はだめだし、お葬式のようなフォーマルな場でも着られるものとなるとあまりデザインに凝りすぎていても困る。 「これなんかどうかしら」 引っ張り出してみたのは、シンプルな細身の形の三つボタンのジャケット。同生地のパンツもあるから併せて着ることができる。 「きれいな形だと思うけど」 「うん。ねえ鮎子、これどうかな」 なのにそう言って健太郎が出してきたのは、レディスのジャケットだった。 「女ものじゃないの」 わたしが呆れてそう言うと、 「うん、だから鮎子にさ」 健太郎はあっけらかんと言った。 「わたし、買う予定はないんだけど」 「でも鮎子、こういう色すきでしょ」 虚を突かれた。それは、オールドローズというのか、くすんだシックなピンク色で、確かにわたしのこのみの真ん中を射抜いている。 どうして健太郎って、こういう小さなこと忘れずに覚えているんだろう? 「すき」 「でしょう。そう思ったんだ」 「どうしよう」 こんな風に唐突に、無邪気に無造作に差し出される特別感に、わたしは大きく動揺してしまう。 「買ったらいいと思う?」 健太郎の選んだ色、健太郎の選んだジャケット。 「それは鮎子次第。気に入ったら買えばいい。俺はいいなと思うけど」 どうしよう。どうしよう。 「ご試着なさいます?」 店員が近づいてくる。 「似合いますよねえ」 健太郎はバカに愛想いい。 「……買うわ」 言った途端、バカな決断をしたと理性が責めた。けれど心の裏には嬉しい気持ちがはりついていて、それが一番バカみたい。 ふたりで揃ってお店を出た時、わたしたちが持っていたのはそのジャケットひとつだけだった。 健太郎は結局何も買わず、 「まあ、いつでも買えるさ」 とのんきに笑った。 お店を出ると健太郎は、 「暗くなってきたな」 と空を見上げた。わたしはきゅうと不安になる。 もうすぐ今日が終わってしまう。さよなら時間が来てしまう。 「とりあえず駅方面に向かうか」 健太郎がそう言った、その途端わたしは口走っていた。 「どこかでちょっと休憩したいわ」 「いいよ。もう腹減った?」 「ううん、そんなにお腹は減ってないけど、だけど少し疲れたの」 嘘。ただ、さよなら時間を少しでも引き伸ばしたいだけ。それでも健太郎は、じゃあどこに行こうか、と頭の中で休憩場所の検索を始めてくれる。 どっちにしろ駅方向だな、と言う健太郎の後について歩く。風が冷たくなってくる。健太郎のマフラーに顔を埋めて、迷いのない健太郎の足の運びを見つめて、ただただ歩く。どこだっていい、なるべく長く一緒にいられるのなら。 「ここどう?」 健太郎が指さしたのは、駅に程近いイタリア風カフェの看板だった。ビルの三階で、一階にはスヌーピーグッズの大型ショップが入っている。 「ここの上にこんなお店があったなんて、知らなかった」 「俺も知らなかった。今初めて気付いたよ」 「さすがね。嗅覚があるのね」 「まあね」 ともかく入ろう、と言う健太郎に従って、エレベーターで三階に上がる。お店の入り口に立つとウェイターがやってきて、お煙草はお吸いになられますか、と訊く。健太郎がええ、と言って、わたしたちは喫煙席に案内される。それは全面ガラス張りのビルの正面側の席で、駅に出入りする人の群れがよく見えた。 落ち着いた暗い店内だった。静かなジャズ風の音楽が鳴っている。周りには同じような喫煙の席が六席ばかりあり、何組かのカップルや女性客が談笑している。奥の方は禁煙席なのだろう、同じような席が数席、その他にカウンター席があり、カウンターの中はたくさんのリキュールの瓶が逆さに吊るされたバースペースになっていた。 「雰囲気のいいお店ね」 わたしが言うと、健太郎は大きく伸びをして言った。 「ヌピ屋の上にあるとは思えないな」 それは「スヌーピー屋」の略なのだ。 「何その略」 わたしは思わず笑い声を立て、それが場違いに響かないか、慌てて周りを見回した。 「大丈夫だよ。そこまで気取った店じゃないよ」 健太郎は笑い、 「それより何頼む?」 とメニューを広げた。 「冷たい飲み物かな」 「アルコールは?」 「だって明日会社だもの」 「ふうん」 俺は飲むけどね、と言って健太郎は、メニューのページをめくった。 「えーとね、俺はグラスビール。鮎子は?」 「――そうね、これ。ブラッドオレンジジュース」 よし、決まり。健太郎はウェイターを呼んでオーダーを伝えた。 間もなく黄金色をしたグラスビールと、血の色をしたオレンジジュースが運ばれてきた。乾杯。そう言う間もなく健太郎はグラスを傾けている。 「まったく早いんだから」 ストローの袋を破りつつ文句を言うと、健太郎はけろりとして 「美味いものは早く味わわなきゃ」 と言った。 早く飲んでしまわないで。ゆっくりゆっくり味わってよ。 わたしはちびりちびりとオレンジジュースをすする。 窓の外で、人々は足早に駅に吸い込まれていく。薄紫の夕暮れが降りてくる。家路に就く時間が全てを浸していく。 まだもう少し、まだもう少し、時間の波よ、ここには届かないで。 健太郎のグラスは、小気味いいくらいすい、すい、と減っていく。 「泡、ついてるわ」 わたしは唇の上を示してみせた。 これ?と健太郎は舌で泡をなめとって、 「これがビールの美味い飲み方なんだよ。泡は飲み込まないように、深く口をつけて喉で飲む。そうすると泡でヒゲができる」 と満足そうにうなずいた。 「今度やってみる」 わたしは静かに同意した。 健太郎はぐいと一気に残りを飲み干して、 「あー美味かった、ごちそうさん」 と言った。 「まったく早いんだから」 少しかなしい気持ちになって繰り返し言うと、健太郎はやっぱりけろりとして 「美味いものは早く味わわなきゃ」 と同じことを二度言った。 わたしのオレンジジュースはまだ大半が残っている。それをゆっくりゆっくり引き伸ばしつつ吸い上げる。 健太郎は煙草に火を点けた。そして上を向いて満足そうにふうと煙を吐いた。 「あー、いいね。休みの日、ってのはいい。珍しく休みが鮎子と一緒、ってのもよかったな」 それはどうも。そっと呟く。嬉しい筈の言葉なのに、どうしてだろう、胸に痛く染みる。 「俺って基本的に一人を楽しむ人だからね、家で掃除して一日終わるってのも結構すきだったりするんだけど、久々に誰かと外に出てみると、やっぱりいいね」 久々じゃなくっても、わたしは全然構わないのに。 「あー、明日からまた仕事かあ」 そういう健太郎の声は、言葉とはうらはらに明るい。 「明日からまた忙しくなるの」 「まあね」 健太郎は煙を吐く。 「忙しいって程じゃないけど。いつもと同じだよ」 健太郎の会社は土日休じゃないから、いつもと同じということは、わたしと休みがずれるということだ。今日みたいに、わたしと健太郎の休みが重なるのは僥倖。こうして一緒にいられるのもあと少し、ジュースがなくなるまでの間。 いいものには必ず終わりが来ます。子どもの頃読んだ本の中で誰かがそう言った。グラスのジュースにだって、必ず終わりは来る。 ストローが空気を吸った。健太郎が煙草を灰皿に押しつぶした。 「行こうか」 健太郎は勢いよく立ち上がった。 ビルを出ると、冷たい風が吹き付けた。 「マフラー、貸しといてやるよ」 健太郎はコートの襟を立てた。 「うん」 わたしは鼻まで健太郎のマフラーに埋もれて、煙草の匂いが目に染みるような気がした。 「鮎子の地下鉄の駅はそっち。俺はJRだからこっち」 健太郎は大きく腕を振って指さしをした。 「うん」 「それじゃあまたな。気をつけて」 健太郎は手を振って、大またに歩み去っていく。 「うん、さよなら、またね」 わたしも軽く手を振る。 解き放たれた鳥みたい。遠くなる背中は楽しそうにさえ見える。 珍しく休みが鮎子と一緒、ってのもよかったな。健太郎はそう言った。それは嘘じゃない。わたしと一緒の休日が楽しかったのはきっと本当。だけど、別れて一人になってその身軽さが楽しいのもきっと本当。 健太郎は自由な人。どんな容れ物にも閉じ込めてはおけないし、どんな枷でも縛り付けておけない。 だからわたしも、平気な顔、平気な声、平気な素振り。寂しくて、つらくて、千切れそうな気持ちは、表情の後ろ側。 だけど本当は。 あなたと一緒に帰れたらいいのに。 こうやって、さよならをして別々の方向に去っていくのではなくて、同じ家に、ひとつの場所に、帰れたらいいのに。 あなたと一緒だったらいつでも楽しい。 あなたと一緒だったら飽きることなんてない。 だから、二人で一緒に家に帰り、二人で一緒にご飯を食べて、二人で一緒にTVを観て、二人で一緒にくつろいで、二人で一緒に眠りに就く、そうだったらどんなにかいいのに。 だけどわたしは独りになって、こうしてデートは終わってしまう。 ううん、本当はデートじゃない。わたしと健太郎は恋人同士じゃないから、絶対に恋人同士になることはないから。 わたしの足は動かない。去っていく健太郎の背中を黙って見つめるだけ。 やがて雑踏の中に健太郎の姿は消えた。 わたしはきびすを返して地下鉄の駅に向かった。ポケットに手を突っ込み、口を結んで、足早に歩いた。そして、少し、泣いた。 |
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