| 掌編 ピエタ |
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幼稚園のクリスマス劇でマリア様の役をやったせいか、わたしは殊のほかマリア様がすきだった。小学校に上がり「アーメンソーメン」なんていう囃しうたが流行ったときも、もっと大人になって「聖母マリアがなぜ処女懐胎できたかって?それはヨゼフがぼんくらだったからさ」なんていうブラックジョークを知ったときも、ずっとマリア様が好きだった。 大学のとき初めて、本物の『ピエタ』を見ることができた。わたしは静かに深く沈んでいく青い感動を知った。マリア様が処女だろうが処女ではなかろうがどうでもよかった。マリア様は、まぎれもない、聖母だった。 わたしの母は結婚が遅く、長女のわたしを三十二で産んだ。娘のわたしはさらに遅く、初産が三十七だった。難産で、果てしなく続く陣痛の苦しみの果て、あわや帝王切開というところで生まれた男の子は、真っ赤でふやけていてわあわあ泣いていたが、掛け値なしのわたしの子どもだった。わたしは母親になった。それは不思議な充足感だった。 産室に、術衣をつけた家族が入ってきた。夫は、ちいさな生まれたばかりの赤ん坊を、頼りなくぎこちなく抱いた。 母が、 「おばあちゃんにもおいで。」 と言って、赤ん坊を抱き取った。三人の子どもを産み育てた腕に、赤ん坊は安定して抱かれた。 そのとき、何か頭の奥ではじけるものがあった。 ――わたし、この光景をいつか見たことがある―――。 光景はふわぁっと変化した。ぼやけた背景の中で母は若くなり、腕に見覚えのある赤ん坊がいた。 ――あれは、わたしだ―――。 なぜ、どうして今まで思い出せなかったんだろう。あれがわたしと母だって。わたしはこうして母に抱かれていたんじゃないか。母に抱かれて、お乳を飲み、大きくなっていったんじゃないか。 いつしか赤ん坊は大きくなり、二十歳の頃の自分、三十歳の頃の自分になる。母より大きな体になった大人のわたしを、それでも母はやさしく抱いていてくれる。 昔見た『ピエタ』の姿が浮かんできた。マリア様は、自分より大きなイエス様の体を、じっと抱いておられた。慈しみ深く、哀しみとやさしさに溢れ、逝った我が子を抱いておられた。 はっと気付くと、光景は戻り、年老いた母がわたしの子どもを楽しそうにあやしている。 わたしは初めて、母の細い肩に、ひとまわり小さくなった体に、気付いた。 自分がいつの間にか母より大きくなっていたことに気付いた。 おかあさん――――。 わたしは泣き出していた。 「あら、おかあさん感激しちゃって。」 看護婦さんが笑う。夫が涙を拭いてくれる。わたしは泣き止まない。涙の奥で、母が揺らぐ。 おかあさん、おかあさん、できることならわたしがこの世を去る日まで、『ピエタ』のようにわたしを抱いていてください。もしその時おかあさんがこの世にいなくても、それでもわたしを抱いていてください。 「ね、おかあさん、もう大丈夫なんですよ。」 看護婦さんが言う。 おかあさん、おかあさん――――。 わたしはいつまでもいつまでも泣きじゃくっていた。 |
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