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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。
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☆  一一 剰余価値が分解する種々の部分

 剰余価値、つまり商品の総価値のうち労働者の剰余労働つまり不払労働が体現されている部分を、私は利潤と名づける。〔だが〕この利潤の全部が事業主である資本家のふところにいれられるわけではない。土地を独占していることによって、地主は、その土地が農業や建物や鉄道その他どんな生産目的につかわれようとも、右の剰余価値の一部を地代という名目で手にいれることができる。また他方、労働手段を所有していることによって事業主=資本家は、剰余価値を生産することができる、つまり同じことだが一定量の不払労働を自分の私物にすることができるという事実があるため、まさにそのために労働手段の所有者でその手段の全部または一部を事業主=資本家に貸し付ける者、要するに貨幣貸付資本家は、右の剰余価値のなかの他の一部分を利子という名目で自分の分だとして請求することができる。その結果、事業主=資本家それ自身の手に残るのは、産業利潤または商業利潤と名づけられるものだけである。
 これら三種類の人たちのあいだでの剰余価値総額のこの分割がどんな諸法則によって規制されるものなのかということは、われわれの主題からはまったくかけはなれた問題である。しかし、つぎのことだけは以上述べたところからでてくる。
 地代、利子、産業利潤は、商品の剰余価値の、つまり商品に体現されている不払労働の、べつべつの部分にたいするべつべつの名称でしかないのであり、それらは一様にこの源泉から、しかもこの源泉からだけ生まれてくる。〔44〕それらは、土地それ自身からも、資本それ自身からも生まれてきはしないのであって、土地と資本が、それらの所有者にたいして、労働者から事業主=資本家のしぼりとった剰余価値のなかから、それぞれの分けまえをもらうことができるようにするのである。労働者自身にとっては、こうした剰余価値、彼の剰余労働つまり不払労働の成果が、ぜんぶ事業主=資本家のふところにいれられようと、事業主=資本家がその一部を地代や利子という名目で第三者に支払わざるをえなかろうと、どっちにしてもそんなことはあまり重要なことではない。かりに事業主=資本家が自分の資本だけをつかい、しかも彼自身が地主であるとすれば、全部の剰余価値が彼のふところにはいることになる。
 この剰余価値のうち事業主=資本家が終局的に自分の手にとどめおくことのできる部分がどれほどであるにせよ、その剰余価値をじかに労働者からしぼりとるのは、事業主=資本家なのである。したがって、事業主=資本家と賃金労働者とのあいだのこの関係こそが、賃金制度全般と現在の生産制度全体とのかなめをなすのである。したがってわれわれの論争にくわわった諸君のうちの一部の人が、この点をずばりと言おうとせず、事業主=資本家と労働者とのあいだのこの根本的な関係を第二義的な問題としてあつかおうとしたのはまちがっていた。もっとも、一定の事情のもとでは物価の騰貴が事業主=資本家や地主や貨幣資本家や、それになんと徴税吏にさえ及ぼす影響がきわめて不均等であろう、と彼らが述べたのは正しかったにしてもだ。
 以上述べてきたことから、もう一つの結果がでてくる。
 商品の価値のうちで、原料や機械の価値、要するにつかいはたした生産手段の価値だけをあらわす部分は、ぜんぜん収入とはならないのであって、資本を補充するだけである。だが、この点はべつとして、商品の価値のうち残りの部分、すなわち収入となる部分、つまり賃金、利潤、地代、利子のかたちで支出される部分が、賃金の価値、地代の価値、利潤の価値などなどによって構成されるとすることは、誤りだ。われわれは、まずもって賃金のことにはふれずに、産業利潤、利子、地代だけをあつかうことにする。たったいま述べたように、商品にふくまれている剰余価値、つまり商品の価値のうちで不払労働が体現されているその部分は、三つのちがう名まえをもつべつべつの部分に分解する。だが、商品の価値が、これら三つの構成部分の独立な諸価値の和によって構成または形成されると説くことは、まったく事実に反することになろう。
 もし一時間の労働が六ペンスの価値に体現され、労働者の労働日が一二時間からなり、この一二時間の半分が不払労働であるとすれば、その剰余労働は商品に三シリングの剰余価値を、すなわちなんの対価も払われていない価値をつけくわえるであろう。この三シリングの剰余価値は、事業主=資本家が、どんな比率でであるにせよ、地主および金貸しと分けあうことのできる総元本をなす。この三シリングの価値は、彼らがたがいに分けあわなければならない価値の限界をなす。しかし事業主=資本家が、自分の利潤分としてかってな価値を商品の価値につけたし、それにさらにべつの価値が地主の分としてつけたされる、などなどして、その結果、かってに決められたそれらの価値の和が総価値を構成することになるというわけではない。したがって、一定の価値が三つの部分に分解することを、三つの独立した価値を合計してその価値を形成することと混同し、こうして地代、利潤、利子の源である総価値をあるかってな大きさにかえてしまう卑俗な考えが誤りであることは、おわかりであろう。
 ある資本家があげた利潤の総額が一〇〇ポンドにひとしいとすれば、絶対的大きさとしてみたこの額をわれわれは利潤額とよぶ。だが、その一〇〇ポンドが前払資本にたいしてもつ比率を計算すれば、この相対的大きさをわれわれは利潤率とよぶ。この利潤率を言いあらわすのには、明らかに、ふたとおりのやりかたがありうる。
 賃金に前払いされた資本が一〇〇ポンドだとしよう。つくりだされた剰余価値も同じく一〇〇ポンドであれば「「このことは、労働者の労働日の半分が不払労働からなることを示すことになる「「、しかしこの利潤を賃金に前払いされた資本の価値ではかるとすれば、われわれは、利潤率は一〇〇%になると言うであろう。というのは、前払いした価値は一〇〇、手にいれた価値は二〇〇ということになるからである。
 他方では、もし賃金に前払いされた資本だけでなく、前払総資本、たとえば五〇〇ポンド「「そのうちの四〇〇ポンドは、原料、機械などなどの価値をあらわす「「をとるとすれば、われわれは、利潤率は二〇%にしかならないと言うべきであろう。というのは、一〇〇の利潤は前払総資本の五分の一にすぎないからである。
 利潤率の第一の言いあらわしかたこそ、支払労働と不払労働との真実の比率、労働のエクスプロワタシオン〔exploitation 搾取〕(失礼ながらこのフランス語をつかわせていただく)の真実の度合いを示してくれる唯一のものである。他方の言いあらわしかたは、ふつうにつかわれているもので、またある種の目的にはまことに適したものである。いずれにしても、それは、資本家が労働者から無償の労働をしぼりとる度合いをかくすのには、はなはだ役にたつものだ。 以下さらにつづけなければならない私の話のなかでは、利潤という語は、資本家によってしぼりとられる剰余価値の総量を示すのにもちい、その剰余価値がいろいろな当事者のあいだに分配されることについてはかまわないことにする。また利潤率という語をつかうばあいには、私はいつも、賃金に前払いされた資本の価値で利潤をはかることにする〔45〕。


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