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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。
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☆  一四 資本と労働との闘争とその結果

 一 以上、私は、賃下げにたいする労働者がわの周期的な抵抗と、賃上げを獲得しようとする彼らの周期的な企ては、賃金制度からきりはなすことのできないものであり、労働が諸商品なみになり、したがって物価の一般的動きを規制する諸法則に支配されるという事実そのものからおこらざるをえない、ということを明らかにした。さらにまた、賃金の全般的上昇は一般利潤率の低下をもたらしはするであろうが、諸商品の平均価格つまりその価値に影響するものではない、ということも明らかにした。そこで最後におこる問題は、資本と労働とのこのたえまない闘争において、労働ははたしてどの程度の成功をおさめるだろうか? ということである。
 私は、これには一般論で答えて、こう言うことができる。ほかのすべての商品のばあいと同じく、労働のばあいも、その市場価格は、長いあいだにはその価値に一致する。したがってどんなにそれが上がったり下がったりしようとも、また労働者がなにをしようとも、彼は、平均すれば自分の労働の価値をうけとるだけである。そして彼の労働の価値とは、彼の労働力の価値にほかならず、この彼の労働力の価値は、彼の労働力を維持し再生産するのに必要な生活必需品の価値によって決定されるものであり、生活必需品のこの価値は、結局はそれらのものを生産するのに必要な労働量によって規制されるものである、と。
 だが、労働力の価値または労働の価値には、ほかのすべての商品の価値と区別されるいくつかの特徴がある。労働力の価値を形成するのは二つの要素である。一つは主として生理的な要素、もう一つは歴史的ないし社会的な要素である。労働力の価値の最低の限界は、生理的要素によって決定される。すなわち、労働者階級は、自分自身を維持し再生産し、その肉体的存在を代々永続させるためには、生存と繁殖に絶対に欠くことのできない生活必需品をうけとらなければならない。したがって、これらの必要欠くべからざる生活必需品の価値が、労働の価値の最低の限界となっているのである。他方では、労働日の長さもまた、最長の限界「「きわめて弾力性に富んだ限界ではあるが「「によって制限されている。その最長の限界は、労働者の体力によって決まる。もし彼の現実の力の日々の消耗が一定の程度をこえると、この消耗を毎日くりかえしおこなうことはできなくなる。しかし、いま言ったように、この限界はきわめて弾力性に富んでいる。不健康で短命な世代でも、それがすばやくうけつがれてゆけば、丈夫で長命な世代がつづくばあいと同じくらい十分に、労働市場に人手の供給が確保されるであろう。
 こうした純然たる生理的要素のほかに、労働の価値は、どこの国でも、伝統的な生活水準によって決定される。この生活水準は、純然たる生理的な生活ではなく、人々がそこに住み、そして育てられる社会的諸条件から生じる、一定の欲望の充足である。イングランド人の生活水準はアイルランド人の生活水準に、ドイツの農民の生活水準はリヴォニア〔バルト海沿岸〕の農民の生活水準に引き下げれば引き下げることができよう。歴史的伝統と社会的慣習とがこの点で演じる重大な役割については、ソーントン君の『過剰人口〔55〕』にかんする著書から知ることができよう。彼はこの著書で、イングランドのいろいろな農業地域の平均賃金は、それらの地域が農奴制の状態から脱したときの事情のよしあしに応えて、今日でもなお多少ちがいがあることを明らかにしている。
 労働の価値にはいりこむこの歴史的または社会的な要素は、大きくすることもできれば、小さくすることもでき、あるいはまったくなくしてしまって、生理的限界のほかにはなにも残らないようにすることもできる。反ジャコバン戦争〔50〕「「度しがたい税金泥棒であり禄盗人(ロクヌスット)であった老ジョージ・ローズがよく言っていたように、わが聖なる宗教の慰めをフランスの不信心ものどもの侵入から救うためにおこされた戦争「「のあいだに、われわれが以前の会議〔56〕の席でたいへんお手やわらかにとりあつかったあの律儀なイギリスの借地農業者は、農業労働者の賃金をあの純然たる生理的最低限以下にさえおしさげたが、この種族の肉体的な永続に必要な残りの分は、救貧法〔57〕でおぎなった。これは、賃金労働者を奴隷にかえ、シェークスピアのえがいた誇りたかい自営農民〔58〕を極貧民に変えるすてきなやりかたであった。
 いろいろな国の標準賃金つまり労働の価値をくらべ、また同じ国のいろいろな歴史的時代のそれをくらべてみると、たとえ他のすべての商品の価値が不変のままであると仮定したばあいでさえ、労働の価値そのものは不変数ではなくて変数であることがおわかりになるだろう。
 同じような比較から、たんに市場利潤率だけでなく、平均利潤率も変わることが明らかになるであろう。
 だが、利潤については、その最小限を決定する法則は存在しない。利潤低下の極限の限界はどれかということは、われわれには言えない。では、なぜわれわれはその限界を決められないのか? そのわけは、われわれは賃金の最低限を決めることはできるが、その最高限を決めることはできないからである。われわれに言えることは、労働日の限界が一定だとすると、賃金が生理的最低限のときに利潤は最小限であるということ、また、賃金が一定だとすると、労働者の体力がゆるすかぎり労働日を延長したときに利潤は最大限であるということ、それだけである。したがって利潤の最大限は、賃金の生理的最低限と労働日の生理的最大限によって限界が決められる。この利潤率の最大限の二つの限界のあいだには非常な変動の幅がありうることは、明らかである。それが実際にどの程度のものに限定されるかは、資本と労働とのたえまない闘争によってはじめて決まる。資本家は賃金をその生理的最低限まで引き下げ、労働日をその生理的最大限までのばそうとたえずつとめており、これにたいして労働者はそれと反対の方向にたえず圧力をくわえているからである。
 事態はけっきょく闘争者たちのそれぞれの力の問題となる。
 二 労働日の制限についていえば、ほかのどの国でもそうだが、イギリスでも、法律の介入によらないでそれが決まったことは一度もなかった。その介入も、労働者がたえず外部から圧力をくわえなかったらけっしてなされはしなかったであろう。だがいずれにしても、その成果は、労働者と資本家とのあいだの私的なとりきめで得られるはずのものではなかった。このように全般的な政治活動が必要であったということこそ、たんなる経済行動のうえでは資本のほうが強いことを立証するものである。
 労働の価値の限界についていえば、それを実際に決めるのは、いつも需要と供給である。私が需要供給というのは、資本のがわの労働の需要と、労働者による労働の供給のことである。植民地諸国では、需要供給の法則は労働者に有利である。合衆国で賃金水準が相対的に高いのは、このためである。資本はそこでも全力をつくすだろう。〔それでも〕資本は、賃金労働者がたえず独立自営の農民に転化するので、労働市場がたえずからっぽになるのを防ぐことができない。大多数のアメリカ人にとっては、賃金労働者という職務は見習いの地位でしかなく、彼らはおそかれはやかれ、かならずその地位を去るのである〔59〕。植民地のこうした状態をあらためようとして、温情あるイギリス政府は、しばらくのあいだ、いわゆる近代植民理論〔60〕を奉じた。この理論の内容は、賃金労働者があまりにはやく独立農民に転化するのを防ぐために、植民地の土地価格を人為的につりあげることである。
 だが、われわれはつぎに、資本が全生産過程を支配している旧文明諸国にうつることにしよう。たとえば、一八四九年から一八五九年にいたるあいだのイギリスの農業賃金の上昇をみてみよう。この上昇の結果はどうであったか? 借地農業者たちは、わがウェストン君なら彼らにそうしろと忠告したことだろうが、小麦の価値を上げることはできなかったし、小麦の市場価格を上げることさえできなかった。逆に、彼らはその市場価格の下落を甘受しなければならなかった。だが彼らは、この一一年間に、あらゆる種類の機械を採用し、いっそう化学的な方法をもちい、耕地の一部を牧場〔羊毛をとる羊を飼うための〕にかえ、農場の大きさを拡大し、それでもって生産の規模を拡大し、これらの方法その他の方法で労働の生産力を高めることによって労働にたいする需要を減少させたあげく、農業人口をふたたび相対的に過剰にした。これが、古くから人が住みついている諸国で、徐々にせよ急速にせよ資本が賃金の上昇にたいしておこす反対行動の一般的方法である。リカードが正しく述べているように、機械はたえず労働と競争するものであって、労働の価格が一定の高さに達したときにはじめて採用できることが多い〔61〕が、しかし機械の応用は、労働の生産諸力を高めるための多くの方法のうちの一つでしかない。通常の労働を相対的に過剰にするこの同じ発展そのものが、他方では熟練労働を単純労働化し、それによってその価値を低下させる。
 同じ法則は、べつなかたちをとってもあらわれる。労働の生産諸力が発展するにつれて、たとえ賃金率が相対的に高くても、資本の蓄積は促進されるであろう。このことから、近代産業がまだ幼年期にあったときのアダム・スミスがやったように〔62〕、つぎのような推論をする人があるかもしれない。このように資本の蓄積が促進されると、労働の需要も確実にふえるから、差し引き労働者の利益になるにちがいない、と。現代の多くの文筆家は、これと同じ見地から、最近二〇年間にイギリスの資本はイギリスの人口よりもずっと急速にふえたのに、なぜ賃金がもっと上がらなかったのかと首をかしげている。だが、蓄積がすすむのと同時に、資本の構成に累進的な変化がおこるのである。総資本のうち、固定資本〔63〕すなわち機械や原料やありとあらゆる形態の生産手段からなる部分は、賃金つまり労働の購買に投じられるもう一つの資本部分にくらべて、累進的に増大する。この法則は、バートン君、リカード、シスモンディ、リチャード・ジョーンズ教授、ラムジ教授、シェルビュリエその他の人々〔64〕によって、すでに多かれ少なかれ正確に述べられている。
 もし資本のこれら二つの要素の比率がはじめは一対一であったとすれば、産業が進歩していくなかで、それが五対一、などなどになるであろう。もし総資本六〇〇のうち、三〇〇が用具、原料その他に投じられ、三〇〇が賃金に投じられるとすれば、三〇〇人の労働者にたいする需要のかわりに六〇〇人の労働者にたいする需要をつくりだすのには、総資本が倍になりさえすればよい。だが、もし六〇〇の資本のうち、五〇〇が機械、原料その他に投じられ、賃金には一〇〇だけしか投じられないとすれば、三〇〇人の労働者にたいする需要のかわりに六〇〇人の労働者にたいする需要をつくりだすのには、この総資本が六〇〇から三六〇〇にふえなければならない。したがって、産業が進歩していくなかで、労働にたいする需要は、資本の蓄積と同じ歩調ですすみはしない。それはふえることはできるが、しかし資本の増加にくらべると、その増加率はたえず減退するであろう。
 以上のわずかな示唆からでもよくわかるように、近代産業の発展そのものは、労働者には不利、資本家には有利な情勢を累進的に生みださざるをえず、またその結果、資本主義的生産の一般的傾向は、賃金の平均水準を高めずに、かえってこれを低める、つまり労働の価値を大なり小なりその最低限界におしさげるものである。この制度のなかでは事態の傾向は以上のとおりだと言ったとしても、だからといって、労働者階級は資本の侵害にたいする抵抗を断念し、自分たちの状態の一時的改善のためにそのときそのときの機会をおおいに活用する企てを放棄すべきだなどと言っていることになるであろうか? もしそんなことをしたら、彼らはみな一様に救いようのない敗残者の群れにおちてしまうであろう。私はすでに、賃金水準のための彼らの闘争は賃金制度全体と不可分なできごとだということ、賃上げをしようとする彼らの努力は、一〇〇回のうち九九回までは、一定の労働の価値を維持しようとする努力にすぎないこと、また彼らが自分たちの〔労働の〕価格について資本家と論議せざるをえないのは、自分自身を商品として売らなければならないという彼らの状態からもともとおこってくるのだということを、明らかにしたと思う。もし資本との日常闘争で臆病にも屈服するならば、彼らは、そもそももっと大きな運動をおこすことなど、とうていできなくなることはまちがいない。
 それと同時に、かつまた賃金制度にともなっている全般的隷属状態のことは全然べつとして、労働者階級はこれらの日常闘争の究極の効果を過大視してはならない。自分たちはもろもろの結果とたたかいはしているが、それらの結果の原因とたたかっているのではないこと、下向運動に抵抗はしているが、その運動の向きをかえているのではないこと、一時おさえの薬をもちいてはいるが、病根をなおしているのではないことを、彼らは忘れてはならないのである。したがって彼らは、一時の休みもない資本の侵害や市場の変化からたえず発生してくるこれらの避けがたいゲリラ戦だけに頭をつっこんでしまってはならない。現在の制度は、彼らにあらゆる困苦をおしつけるが、それと同時にそれが社会の経済的再建に必要な物質的諸条件と社会的諸形態をも生みだすものであることを、彼らは理解すべきである。「公正な一日の労働にたいして公正な一日の賃金を!〔65〕」という保守的なモットーのかわりに、彼らはその旗に「賃金制度の廃止!」という革命的な合言葉を書きしるすべきである。
 以上私は、とりあげた問題をある程度ただしく論じるために、たいくつだったかもしれない、たいへんながい説明にたちいらざるをえなかったが、つぎの決議案を提出して報告を終わることにする。
 第一 賃金率の全般的上昇は、一般利潤率の低下をもたらすであろうが、だいたいにおいて諸商品の価格には影響しないであろう。
 第二 資本主義的生産の一般的傾向は、賃金の平均水準を高めるものではなく、低めるものである。
 第三 労働組合は、資本の侵害にたいする抵抗の中核としては十分役にたつ。その力の使用に思慮分別を欠けば、それは部分的に失敗する。現存の制度の諸結果にたいするゲリラ戦だけに専念し、それと同時に現存の制度をかえようとはせず、その組織された力を労働者階級の終局的解放すなわち賃金制度の最終的廃止のためのてことして使うことをしないならば、それは全面的に失敗する。


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