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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。
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☆  一三 賃上げの企て、または賃下げ反対の企ての主要なばあい

 つぎにわれわれは、賃上げを企てたり、賃下げに抵抗しようとしたりする主要なばあいを、順をおって〔48〕みてみよう。
 一 すでに述べたように、労働力の価値、あるいはもっとひらたく言えば労働の価値は、生活必需品の価値つまりそれを生産するのに必要な労働量によって決定される。そこで、もしある国で、労働者の一日平均の生活必需品の価値が六時間分の労働をあらわし、それが三シリングで示されるとすれば、労働者は、彼の毎日の生活資料との等価物を生産するために、一日に六時間働かなければならないことになる。全一日の労働時間が一二時間であっても、資本家は、労働者に三シリング払えば、彼の労働の価値を払うことになる。労働日の半分は不払労働であり、利潤率は一〇〇%になるわけである。しかし、いまかりに、生産性が下がった結果、たとえば同じ量の農産物を生産するのにまえよりも多くの労働が必要になり、そのため一日平均の生活資料の価格が三シリングから四シリングに上がったとしよう。そのばあいには、労働の価値は三分の一つまり三三・三分の一%だけ高まることになる。労働者が以前の生活水準なみに一日の生活資料との等価物を生産するには、一労働日のうちの八時間が必要になることになる。したがって剰余労働は六時間から四時間にへり、利潤率は一〇〇%から五〇%に下がることになる。だが、労働者が賃上げを要求したとしても、彼はただ、彼の労働の増大した価値を得ることを要求しているだけであって、それは、他のすべての商品の売り手が、自分の商品の費用が増加したばあいに、その増加した価値を払ってもらおうとするのと同じである。もし賃金が上がらなければ、つまり生活必需品の増大した価値をつぐなうのにたりるだけ上がらなければ、労働の価格は労働の価値以下に下がり、労働者の生活水準は低下することになる。
 だが、これと反対の方向に変化がおこることもあろう。労働の生産性が高まったおかげで、一日平均の生活必需品の同じ量が三シリングから二シリングに下がるかもしれない。つまり、一日の生活必需品の価値との等価物を再生産するのに、一労働日のうち六時間ではなく四時間しか必要でなくなるかもしれない。こうなると労働者は、以前に三シリングで買ったのと同じ量の生活必需品を、二シリングで買えることになろう。なるほど労働の価値は下がりはしたが、しかしその減少した価値で以前と同じ量の商品が買えるであろう。このばあいには、利潤は三シリングから四シリングに上がり、利潤率は一〇〇%から二〇〇%に上がることになる。たとえ労働者の絶対的な生活水準は依然として同じではあっても、彼の相対的賃金、したがってまた資本家の社会的地位と比較した彼の相対的な社会的地位は下がったことになる。たとえ労働者がその相対的賃金の切下げに抵抗しても、彼はただ、自分自身の労働の増大した生産諸力分からいくらか分けまえをとり、社会階級のなかでしめる自分の以前の相対的な地位をたもとうとしているにすぎないのである。だからイギリスの工場主たちは、穀物法が廃止されたあと、しかも穀物法反対運動中にあたえたいとも厳粛な誓約〔49〕を非道にもふみにじって、賃金を全般的に一〇%切り下げた。労働者の抵抗ははじめは破れたが、いまはたちいって述べるわけにはいかないいろいろな事情のために、この失われた一〇%はのちにとりもどされた。
 二 生活必需品の価値、したがって労働の価値はもとどおりでありながら、貨幣の価値がまず変動したために、生活必需品の貨幣価格に変動がおこることもある。
 いままでよりも豊かな鉱山の発見その他の原因によって、たとえば二オンスの金を生産するのに、まえに一オンスの金にかかったと同じだけの労働しかかからなくなることもある。そうすれば金の価値は、半分だけ、つまり五〇%だけ下がることになる。そのばあいには他のすべての商品の価値が、もとの貨幣価格の二倍であらわされることになるのと同じに、労働の価値もまた二倍であらわされることになる。まえには六シリングであらわされた一二時間の労働が、いまでは一二シリングであらわされることになる。もし労働者の賃金が六シリングに上がらずに三シリングのままだとしたら、彼の労働の貨幣価格は、彼の労働の価値の半分にしかあたらなくなり、彼の生活水準はおそろしく低下することになる。彼の賃金が上がるとしても、それが金の価値下落に比例していなければ、そのばあいにも多かれ少なかれ同じことがおこるであろう。こういうばあいには、労働の生産諸力にも、需要と供給にも、価値にも、なんの変化もおこってはいない。それらの価値の貨幣名以外にはなにも変化してはいない。このばあい労働者は〔金の価値下落に〕比例した賃上げを要求すべきではない、と言うのは、労働者は実質でではなく名目で支払をうけることにあまんじなければならない、と言うのと同じである。過去の歴史全体が証明しているように、このような貨幣価値の低下がおこるばあいにはいつでも、資本家はぬけめなくこの機会をとらえて労働者からだましとろうとするのである。きわめて多くの経済学者たちの主張するところによると、あらたに金産地が発見され、銀鉱の採掘法が改善され、水銀がこれまでより安く供給されるようになった結果、貴金属の価値はふたたび下がっている。ヨーロッパ大陸で賃上げの企てが全般的にかつ同時におこっているわけは、これでわかるであろう。
 三 われわれはこれまで、労働日には一定の限界があると仮定してきた。しかし労働日それじたいに不変の限界があるわけではない。資本には、たえず労働日を肉体的に可能な最大限の長さまでひきのばそうとする傾向がある。というのは、ひきのばせばそれだけ剰余労働が、したがってまたそれから生じる利潤が、ふえるだろうからである。資本が労働日をひきのばすのに成功すればするほど、資本はますます多量の他人の労働を自分のものにするであろう。一七世紀のあいだは、また一八世紀のはじめの三分の二のあいだでさえ、一〇時間労働日がイギリス全土のふつうな労働日であった。反ジャコバン戦争〔50〕「「これはじつはイギリスの労働者大衆にたいしてイギリスの貴族どもがしかけた戦争であった「「のあいだ、資本はわが世の春を謳(オウ)歌して労働日を一〇時間から一二時間、一四時間、一八時間にひきのばした。マルサスという男は涙もろいセンチメンタリストなどではゆめゆめないのだが、その彼が、一八一五年ごろでたパンフレット〔51〕のなかで、もしこんなことがつづいたら、国民の生命の根源そのものがおかされることになろう、と言明した。新発明の機械が一般に採用されるようになる数年前、一七六五年ごろに、『産業にかんする一論〔52〕』という題のパンフレットがイギリスででた。公然と労働者階級の敵だと名のりでたこの匿名の著者は、労働日の限界をひろげる必要があると絶叫している。彼はこの目的のための手段として、とりわけ貧民労役所をたてることを提案する。彼の言によると、この労役所は当然「恐怖の家」でなければならない。では、彼がその「恐怖の家」について定めた労働日の長さはどれだけか? 一二時間である。すなわち、一八三二年に資本家や経済学者や大臣たちが、一二歳以下の子供の現行の労働時間であるだけでなく必要な労働時間だと宣言した〔53〕のと、まさに同じ時間なのである。
 労働者は、自分の労働力を売ることによって「「現在の制度のもとでは彼はそうせざるをえない「「その労働力の消費を資本家にゆずりわたすのであるが、ただしそれは一定の合理的な限界内でのことである。彼が自分の労働力を売るのは、その自然な消耗はべつとして、それを維持するためであって、破壊するためではない。自分の労働力をその一日分または一週間分の価値で売るばあいには、一日または一週間のうちにその労働力が二日分または二週間分の摩損つまり消耗をうけることはないものと想定されているのである。一〇〇〇ポンドに値する機械をとってみよう。もしそれが一〇年で使いはたされるとすれば、そのたすけをかりて生産される商品の価値に年々一〇〇ポンドつけくわえることになろう。もしそれが五年で使いはたされるとすれば、それは年々二〇〇ポンドつけくわえることになろう。つまり、その年々の消耗の価値はそれが消費される速度に反比例する。だが、労働者が機械とちがうのはまさにこの点である。機械はそれが使われるのと正確に同じ比率では消耗しない。それに反して人間は、仕事のたんなる数字的寄せ算から考えられるよりももっと大きな比率で衰えるのである。
 労働者が労働日をもとの合理的な範囲まで短縮しようと企てるのは、あるいは彼らが法律による標準労働日の制定をおしとおすことができないばあいに賃上げ「「収奪された剰余時間に比例するだけでなく、それより大きな比率の賃上げ「「によって過重労働を阻止しようとするのは、自分たち自身と自分たちの種族にたいする義務をはたすだけのことである。労働者は資本の暴虐な強奪をおさえるだけである。時間は人間の発展の場である。思うままに使える自由な時間をもたない人間、睡眠や食事などをとる純然たる生理的な中断時間はべつとして、その全生涯が資本家のための労働にすいとられている人間は、駄獣にもおとるものである。彼は、他人の富を生産するたんなる機械であり、からだはこわされ、心はけだもののようになる。しかも近代産業の全歴史が示しているとおり、資本は、もしそれをおさえるものがないなら、たえずしゃにむに全労働者階級をこの極度の退廃状態におとしいれることをやってのけるであろう。
 労働日をひきのばすばあい、資本家はまえより高い賃金を払いながら、しかも労働の価値を下げることができる。賃金が上がっても、それが、搾取される労働量の増大とそのために生じる労働力の衰退速度の増加に及ばなければ、そうなる。このことは、べつのやりかたでもやれる。中間階級〔ブルジョア〕統計家たちは、たとえば、ランカシァの工場労働者の家族の平均賃金は上がっていると諸君につげるであろう。世帯主である男子の労働だけでなく、いまでは彼の妻やおそらく三、四名の子供たちまでが資本のジャガナート〔54〕の車の下に投げこまれており、また賃金総額は上がっても、それはこの家族から搾取される剰余労働の総額には及ばないことを、彼らは忘れているのだ。
 こんにち工場法の適用をうけるすべての産業部門には労働日の一定の制限があるが、そうした制限があるばあいでさえも、労働の価値のこれまでの水準を維持していくためにだけでも、賃上げが必要になることがある。労働の強度がましたために、以前には二時間で費やしたのと同じだけの生命力を一時間で費やさせられることがある。こうしたことは、工場法が適用されている事業でも、機械の運転速度の増大やひとりの人がいまや受け持たなければならない作業機械代数の増加によって、すでにある程度まで実施されている。労働の強度つまり一時間内に費やされる労働量がふえても、もしそれが労働日の長さの減少とほぼ十分に比例していれば、労働者はなお得(トク)をするであろう。もしこの限度をこえると、労働者は一方で得たものを他方で失うのであり、そうなれば一〇時間の労働は以前の一二時間の労働と同じほどに有害となるであろう。労働者が労働の強度の引上げに見合うだけの賃上げのために闘争をして資本のこうした傾向をおさえるのは、自分の労働の価値低下と自分の種族の退廃とに抵抗するというだけのことでしかない。
 四 諸君のどなたもご存じのように、私がここで説明する必要のないいろいろな理由から、資本主義的生産は一定の周期的循環をとおってすすめられるものである。それは、平穏、活気の増大、好況、過剰取引、恐慌、停滞の状態をとおっていく。諸商品の市場価格と市場利潤率は、これらの局面に応じて、あるときはその平均以下に下がり、あるときはそれ以上に上がる。この循環全体をみてみると、市場価格が一方へかたよるとつぎには他方へかたよって互いに相殺されているものであること、またその循環の平均をとってみれば諸商品の市場価格はその価値によって規制されているということがおわかりであろう。ところでだ! 市場価格下落の局面と、恐慌および沈滞の局面では、労働者は、まったく職を奪われることはないにしても、その賃金を引き下げられることはまちがいない。だましとられないためには、彼は、こうした市場価格の下落のときでさえも、どれだけの割合の賃下げが必要となったかについて、資本家と論議しなければならない。もし超過利潤が得られる好況の局面の時期に労働者が賃上げのためにたたかわなかったならば、一産業循環期の平均をとってみれば、労働者は自分の平均賃金つまり自分の労働の価値さえうけとらないことになるであろう。循環の不況局面によって彼の賃金がどうしても影響されないわけにはいかないのに、循環の好況局面の時期にそのうめあわせをしてはならないと彼に要求するのは、愚の骨頂である。一般的にいって、すべての商品は、需要と供給のたえまない変動から生じる市場価格のたえまない変化が相殺されることによってはじめて価値どおりに売られる。現在の制度を基礎にするかぎり、労働もほかの商品と同じく一つの商品にすぎない。したがって労働も、その価値に相応する平均価格で売れるためには、右と同じ変動をへなければならない。一方では労働を一個の商品としてあつかいながら、他方では諸商品の価格を規制する諸法則を労働にはあてはめようとしないのは、筋がとおるまい。奴隷は常時、定量の生活資料をもらうが、賃金労働者はそうではない。彼は、あるばあいには、べつのばあいの賃金下落をうめあわせるだけのためにも、賃上げをかちとるようにつとめなければならない。もし彼が資本家の意志・命令を最高の経済法則としてうけいれることにあまんじるなら、彼は奴隷のうけている生活の保障はうけずに、奴隷と同じいっさいの困苦をせおうことになろう。
 五 以上私が考察したすべてのばあい「「それは一〇〇のうち九九までをふくむ「「に諸君がみられたとおり、賃上げ闘争は、たんにそれに先だつ諸変化の跡を追うものにすぎず、しかも生産額、労働の生産力、労働の価値、貨幣の価値、搾取される労働の長さまたは強度、需要供給の変動に左右され産業循環のさまざまな局面に応じておこる市場価格の変動などが、まずもって先に変化したために必然におこってくる結果としておこなわれるものでしかない。一言でいえば、それは、資本が先だっておこなった行動にたいする労働の反対行動としてなされるにすぎない。賃上げ闘争をこれらすべての事情からきりはなしてとりあつかい、賃金の変化だけをみて、それをおこさせる他のすべての変化を見おとすならば、諸君はまちがった前提から出発してまちがった結論に達することになる。


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